後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

波浮の港紀行・・・磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、

2010年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていた。歌の意味は、島の娘が波浮を出て行く船に乗り、そのの艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は帰らない、、、。

そんな悲しい歌なので忘れられません。4年前に仕事を一切止めて、彼方此方へ旅をすることにしました。 そうだ!大島の波浮の港へ独り旅をして見よう、と思い立ちます。長い長い間、歌だけで知っていた波浮の港へ行く事にしました。

まだ寒い3月5日の朝、竹橋桟橋から船に乗ると、高速船なので昼前に大島に着きます。観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談します。対応してくれた若い女が。「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。少年の頃の感傷で行きますとも言えず赤面してしまいました。それでも国民宿舎のような宿をとってくれました。バスで行き、宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。

港へ降りて行って地魚の寿司を食べようと思うがタクシーがありません。宿の人が電話をすると寿司屋が迎えに来てくれるよと言います。60歳くらいの元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。気さくでいろいろ話してくれるのですが乱暴な運転なので怖いのです。曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけの店に着きます。

地魚の島寿司を頼みます。ご存知ですか?「島寿司」を?あれはいけません。

活きの良い地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。

甘い魚の寿司ですよ。泣きたくなりましたが、ビールの酔いのお陰で元気になり、店の中を観察することにしました。2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。

客の一組が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。寿司屋の一家は明るく、地元の人々に好かれているようです。

見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。今は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。そして島では火山灰が土地を覆っていて米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。気分を引き立てるため地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。味が貧乏臭く、普通には食べるものではない代物です。救荒食とはこんなものかも知れないと考え込んでしまいました。少年の頃聞いた歌で、島の娘の悲しい歌が実感として体で感じられるのです。。

益々滅入ってしまうが、主人へそうも言えず。「結構おつな味ですね」と言います。ニコリとして、主人が、「そうでしょう!昔は毎日のように食べたものです」と答えました。

酔い醒ましに、暗い港通を散歩すると、店も居酒屋も無く真っ暗な通りなのです。淋しげな波音だけが響いていて、通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。

まだ3月の始めで、寒い夜風が吹く抜けて行きます。もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。

私の行ったのが3月のせいで観光客が居ませんでした。しかし、夏には釣り客やダイビング客で賑わうそうです。皆様、是非波浮の港へ泊まりに行って下さい。港通りのお寿司屋さんへも行って下さい。島寿司でなく普通の握りにしたほうが無難です。

(終わり) 

下の波浮の港の写真の出典は;http://www.town.oshima.tokyo.jp/highlight/habu-harbor.html

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