夏の夜には怪談がつきものです。そこで今日は怪談のような話をご紹介します。
しかし怪談のような嘘ではなく、本当に存在していた2つの町の話です。まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町の話です。
なにやら薄気味悪い雰囲気がまつわる2つの町です。
さて一つは北海道の東部の野付半島の突端に存在していた「キラク」と言う町のことです。
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。標津町の南に別海町があります。
その別海町に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
1番目の写真は野付半島の航空写真です。キラクという町はこの写真の左端に写っている野付半島の突端にありました。
当時は陸路ではなく船で出入りしていたので突端の方が便利だったのです。しかし現在は陸路を車で行けます。
2番目の写真は陸路の途中にあるナラワラの風景写真です。潮のために立ち枯れしたナラの木が並んでいます。写真は2012年に私が撮りました。
3番目の写真は野付半島の中間点付近にある立ち枯れたトド松は立っているトドワラの風景です。2012年に家内が撮りました。
一般の観光客は行けるのは此処まです。キラクはこの先のはるか半島の突端にあったのです。
この町は長い間、伝説としか記憶されていなかったので、「幻の街キララ」と呼ばれていました。
「歓楽街があった」「夜じゅう、灯りが消えることがなかった」「遊女がいた」などと謎に包まれた、ロマンある話として伝わっていたのです。
それが最近の発掘調査で江戸時代に厳然と存在していたことが証明されたのです。
江戸時代の古文書には「キラク」という記述はありませんが、寛政11年(1799年)に江戸幕府が国後島への交通の要所として野付通行屋を設置したという史実が明らかになっています。
対岸にはニシン漁のための番屋が60軒ほど立ち並んでおり、通行屋では、畑を作り、様々な野菜を育てようとした記録も残っていたのです。
野付通行屋跡遺跡は発掘調査が行われ、沢山の江戸時代の生活用具が出土したのです。また墓石も出て来ました。
それらの江戸時代の生活用具は別海町郷土資料館で展示公開されています。
そして毎年4月中旬に、別海町郷土資料館と野付半島ネイチャークラブの共催で、この通行屋遺跡を訪ねる観察会が開催されているのです。
潮が引いているときは、砂の上に当時使われていた陶器の破片が無数に散らばっているそうです。
キララについて、詳しい情報は別海町郷土資料館(TEL 0153- 75-0802)へ問い合せると教えてくれるそうです。
まぼろしの町、キララは人々の想像をかきたてるのでしょう。「まぼろしのキラク」という歌のCDが新沼謙治さんが発売しています。
この歌は「第48回日本作詩大賞」(2015年11月)にノミネートされ、有名になりました。お聞きになりたい方は次のYouTubeをどうぞお聞き下さい。
◆まぼろしのキラク、https://www.youtube.com/watch?v=tyb0yZI6tD8
作詞 幸斉たけし/作曲 新沼謙治
歌唱 新沼謙治/レコード会社 日本コロムビア(株)(2015年2月発売)
以上のキララに関する説明はの出典は、http://betsukai-kanko.jp/taikenkanko/bunka/kiraku-2/ です。
さて話は変わって、広島県の福山に江戸時代初期まであった草戸千軒町の話にうつります。この町も完全に消えてしまったのですが、最近の発掘調査で存在が証明されたのです。
草戸千軒町は、山陽新幹線の広島県、福山駅の近辺にあったのです。鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した町でした。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えていました。それが消えてしまっていたのです。
しかし最近の遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと証明されたのです。そうして遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられています。
近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとも考えられます。
ところが江戸時代初期の備後福山藩 水野家による芦田川の流路改修がキッカケになり、洪水で草戸千軒町が消え去ったと考えられているのです。
昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近に存在していました。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて国の重要文化財に指定されています。
この博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。
4番目の写真は草戸千軒町の再現された展示です。
5番目の写真も草戸千軒町の再現された展示です。当時、草戸千軒町は直接に瀬戸内海に面した港町だったのです。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されているそうです。
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていたのです。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明し、草戸千軒町の存在が証明されたのです。。
以上の草戸千軒町に関する説明の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/草戸千軒町、です。
以上、今日は、まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町をご紹介しました。北海道のキラクと広島県の草戸千軒町です。
考えてみると、このように消えてしまった村や町は全国に沢山あるに違いありません。
人の世の儚さ虚しさがしみじみと感じます。
皆様のお住まいの近辺にもこのように消えてしまった村や町がありますでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
しかし怪談のような嘘ではなく、本当に存在していた2つの町の話です。まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町の話です。
なにやら薄気味悪い雰囲気がまつわる2つの町です。
さて一つは北海道の東部の野付半島の突端に存在していた「キラク」と言う町のことです。
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。標津町の南に別海町があります。
その別海町に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
1番目の写真は野付半島の航空写真です。キラクという町はこの写真の左端に写っている野付半島の突端にありました。
当時は陸路ではなく船で出入りしていたので突端の方が便利だったのです。しかし現在は陸路を車で行けます。
2番目の写真は陸路の途中にあるナラワラの風景写真です。潮のために立ち枯れしたナラの木が並んでいます。写真は2012年に私が撮りました。
3番目の写真は野付半島の中間点付近にある立ち枯れたトド松は立っているトドワラの風景です。2012年に家内が撮りました。
一般の観光客は行けるのは此処まです。キラクはこの先のはるか半島の突端にあったのです。
この町は長い間、伝説としか記憶されていなかったので、「幻の街キララ」と呼ばれていました。
「歓楽街があった」「夜じゅう、灯りが消えることがなかった」「遊女がいた」などと謎に包まれた、ロマンある話として伝わっていたのです。
それが最近の発掘調査で江戸時代に厳然と存在していたことが証明されたのです。
江戸時代の古文書には「キラク」という記述はありませんが、寛政11年(1799年)に江戸幕府が国後島への交通の要所として野付通行屋を設置したという史実が明らかになっています。
対岸にはニシン漁のための番屋が60軒ほど立ち並んでおり、通行屋では、畑を作り、様々な野菜を育てようとした記録も残っていたのです。
野付通行屋跡遺跡は発掘調査が行われ、沢山の江戸時代の生活用具が出土したのです。また墓石も出て来ました。
それらの江戸時代の生活用具は別海町郷土資料館で展示公開されています。
そして毎年4月中旬に、別海町郷土資料館と野付半島ネイチャークラブの共催で、この通行屋遺跡を訪ねる観察会が開催されているのです。
潮が引いているときは、砂の上に当時使われていた陶器の破片が無数に散らばっているそうです。
キララについて、詳しい情報は別海町郷土資料館(TEL 0153- 75-0802)へ問い合せると教えてくれるそうです。
まぼろしの町、キララは人々の想像をかきたてるのでしょう。「まぼろしのキラク」という歌のCDが新沼謙治さんが発売しています。
この歌は「第48回日本作詩大賞」(2015年11月)にノミネートされ、有名になりました。お聞きになりたい方は次のYouTubeをどうぞお聞き下さい。
◆まぼろしのキラク、https://www.youtube.com/watch?v=tyb0yZI6tD8
作詞 幸斉たけし/作曲 新沼謙治
歌唱 新沼謙治/レコード会社 日本コロムビア(株)(2015年2月発売)
以上のキララに関する説明はの出典は、http://betsukai-kanko.jp/taikenkanko/bunka/kiraku-2/ です。
さて話は変わって、広島県の福山に江戸時代初期まであった草戸千軒町の話にうつります。この町も完全に消えてしまったのですが、最近の発掘調査で存在が証明されたのです。
草戸千軒町は、山陽新幹線の広島県、福山駅の近辺にあったのです。鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した町でした。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えていました。それが消えてしまっていたのです。
しかし最近の遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと証明されたのです。そうして遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられています。
近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとも考えられます。
ところが江戸時代初期の備後福山藩 水野家による芦田川の流路改修がキッカケになり、洪水で草戸千軒町が消え去ったと考えられているのです。
昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近に存在していました。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて国の重要文化財に指定されています。
この博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。
4番目の写真は草戸千軒町の再現された展示です。
5番目の写真も草戸千軒町の再現された展示です。当時、草戸千軒町は直接に瀬戸内海に面した港町だったのです。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されているそうです。
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていたのです。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明し、草戸千軒町の存在が証明されたのです。。
以上の草戸千軒町に関する説明の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/草戸千軒町、です。
以上、今日は、まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町をご紹介しました。北海道のキラクと広島県の草戸千軒町です。
考えてみると、このように消えてしまった村や町は全国に沢山あるに違いありません。
人の世の儚さ虚しさがしみじみと感じます。
皆様のお住まいの近辺にもこのように消えてしまった村や町がありますでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)