後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「秋になると思い出す北海道、松浦武四郎のこと」

2024年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
秋の北海道は素晴らしい景観を見せてくれます。ヨーロッパのようなエキゾチックな風景が魅力的です。ロマンチックです。自然には太古のままのような雰囲気もがあります。特に秋の北海道は、やがて来る厳しい冬の予感も与えています。もう15回くらいも家内と二人で訪れました。
今日は朝から秋の晴天です。つい北海道の風景を思い出しました。そこで2015年に知床のウトロに泊まり羅臼や道東に旅した時の写真をお送りします。

1番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から高く作った立派な木道があり、一湖を見下ろす展望台まで歩いて行けるのです。背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。

2番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも数多くいました。

3目の写真は新得町狩勝高原の釧路湿原に続く畑作地帯にいた鶴の一家です。

4番目の写真は知床五湖の近くにいたヒグマです。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのを車窓から撮りました。

5番目の写真はウトロの漁港です。写真の中央の岩山に一度だけ登ったことがあります。観光客が登れるように道がついているのです。

この地に「北海道」の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。それまでは北海道は蝦夷地と呼ばれ、北海道という名前は無かったのです。その蝦夷地にはアイヌ人が住んでいました。アイヌは縄文人が弥生人と混血しないで残った原日本人なのです。
北海道は本州の北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
このアイヌ民族を愛し北海道の各地の名前にアイヌ語を残したのが松浦武四郎でした。
松前武四郎の生涯をご紹介します。
文化15年(1818年)、伊勢国の一志郡須川村に生まれました。
父親は庄屋を営んでおり比較的恵まれた家で教養を身に付けます。13歳から3年間、漢学者・平松楽斎のもとで学び、山本亡羊からは本草学を学びました。16歳から諸国をめぐったようです。
弘化元年(1844年)に蝦夷地探検に出発します。26歳の時です。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、松前武四郎の探査は択捉島や樺太にまで及びます。
安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版したのです。
明治2年(1869年)、51歳の時には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定したのです。北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺しました。
明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描きました。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。享年70歳でした。
以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。

以上のように松浦武四郎はアイヌの伝統文化を尊重し、北海道の各地の地名にアイヌ語の地名をそのまま残したのです。サッポロも漢字表記にして札幌と書いたのも彼です。
松前武四郎のおかげで北海道にアイヌ語の地名が多数残ったのです。何故か感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===北海道のアイヌ語の地名==========~=
赤平(あかびら) 旭川(あさひかわ) 芦別(あしべつ) 足寄(あしょろ) 厚岸(あっけし) 厚沢部(あっさぶ) 厚田(あつた) 厚別(あつべつ) 厚真(あつま) 網走(あばしり) 虻田(あぶた) 硫黄山 伊香牛(いかうし) 幾春別(いくしゅんべつ) 生田原(いくたはら) 石狩(いしかり)などなど多数。以下省略。
http://www1.plala.or.jp/kanakikaku/ainutimei.htm

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