後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(16)韓国と日本は運命共同体」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と日本はともに民主国家です。共韓国は産党独裁の中国と北朝鮮と軍事的に対抗しています。ですからこの韓国は日本と運命共同体なのです。そんな事情は皆が知っている自明のことです。
ところが韓国と日本は必ずしも友好関係にあるとは言い難いのです。大局的に東アジアの真の平和のためには韓国と日本の完全な友好関係が必要です。
そこで今日は韓国と日本の関係を考えてみたいと思います。
昔から日本は中国や朝鮮の文化を学んで来ました。推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来した恵慈は聖徳太子の師でした。そして恵慈は飛鳥時代の日本仏教界で活躍した朝鮮の人でした。 
時代は飛びますが日清戦争の頃の朝鮮は大韓帝国として近代的な独立国になっていました。
しかし1910年に日本は朝鮮半島を併合して、日本の固有の領土にしたのです。その併合は1945年まで35年間続いたのです。
朝鮮半島併合の前年の1909年には、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根の発射した3発の銃弾によって暗殺されたのです。安重根は現在大韓民国の英雄として記念碑がソウルにあります。
併合後の朝鮮半島では日本語が教えられ、個人の名前も日本風に改名させられたのです。創氏改名です。
そして多数の人々が労働者として半強制的に日本内地へ駆り出されました。彼らは炭鉱やダム建設現場で過酷な労働に従事したのです。
東京の小河内ダムの犠牲者の名前を刻んだ石碑を見ると朝鮮の人の名前がズラリと並んでいます。
そして戦前、戦争中は各地に「朝鮮人飯場」があったものです。私個人はよく朝鮮人飯場に行き、彼等と一緒に遊びました。
現在の在日韓国人はそういう人々の子孫なのです。
なお朝鮮併合に関する歴史は参考資料としてこの記事の末尾につけてあります。
それよりも私自身が韓国で見た観光地の看板について書いてみたいと思います。
1985年ごろ日本の援助で出来た巨大な浦項製鉄所の技術研究所の金鉄祐所長に韓国へ招待されたのです。
あちこちで講演をする旅でした。その旅には、いつも浦項製鉄所の韓さんという心優しい技師が同行してくれました。そして慶州の数多くの古い寺にも案内されたのです。
ところが何処の寺に行っても入口に40cmX50cmくらいの立派な真鍮製の看板が掲げてあり、ハングル文字で何やら書いてあります。
同行した韓さんに聞くと、16世紀に秀吉軍がこの寺を焼き尽くしたと書いてあるそうです。そしてその後の何の時代に誰によって再建されたかと書いてあるそうです。
驚いたことに数多くのどの寺に行っても秀吉軍が焼き尽くしたと書いてあるのです。焼き尽くされた韓国人の恨みの深さが身に迫ります。
「それにしても文化財の数多くの寺を焼くとは秀吉軍が悪い」と私が韓さんへ言いました。
すると韓さんは、「お寺は韓国兵の宿泊所に利用されていたので仕方がなかったのです」と私を慰めてくれたのです。
そうです。日本でも戦乱が起きるとお寺が焼かれるのはこの理由だったのです。
秀吉軍は寺を焼いただけでなく朝鮮から多数の人々も拉致してきたのです。九州の窯業はその人々によって出来上がったのです。
当然、韓国人は秀吉の蛮行を現在でも恨んでいます。そう思うのは自然ではないでしょうか?
蛇足を書いておきます。
私を韓国へ招待してくれた浦項製鉄所、技術研究所の金鉄祐所長はその前には東京大学の鉄鋼製錬を専門にしていた雀部教授の下にいました。
朴政権の前の政権に反対して東京で政治運動をしていたのです。日本の警察が逮捕して拘留します。
雀部教授には私も大変お世話になったので、金鉄祐さんの釈放運動に私も少しだけ協力したことがありました。
韓国の政権が代わり、朴政権になったお蔭で、金さんは釈放され、やがて浦項製鉄所、技術研究所の所長として韓国へ招び戻されたのです。
釈放運動に協力したことを恩義に思って、私を韓国へ鄭重に招待してくれたのだと思います。韓国人個人はこのように恩義に篤い人なのだと信じています。
 
日韓の両国民は過去の感情問題を克服して日韓友好を確立すべきです。それが東アジアの真の平和をもたらすのです。平和こそ尊いのです。
 
それはさておき今日の挿絵代わりの写真は韓国の釜山とソウルの風景写真です。写真の出典は、https://snapmart.jp/photos/4395135 と https://seoul-heyanavi.com/blog/11543 です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料===============
韓国併合(かんこくへいごう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
1910年(明治43年)、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記されている。1910年に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

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