後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

冬の雑木林の美しさと淋しさ

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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この写真は武蔵野の雑木林を保存したものです。府中市の郷土の森公園にあります。

冬の雑木林は緑が見えず淋しいものです。寒風に梢が揺れているだけです。しかし青空を背景にした樹林のシルエットは美しいものです。詩的なムードが流れています。

見ているといろいろと今年の出来事を思い出します。そして何故雑木林が美しく見えるか考えてみました。

私が雑木林に興味を持つようになったのは国木田独歩の「武蔵野」を読んでからです。

その本によると雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新後のようです。

明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩は「武蔵野」を書いて雑木林の美しさを描きました。

江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。

明治維新は日本の政治体制や社会構造を変革しただけではありませんでした。

日本人の自然の風景の好みや美意識が変革したのです。

この広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフです。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いているので明白です。

ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。国木田独歩は深く感銘を受けます。

彼は明治時代の東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわります。そして、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。

それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。

若い頃、この「武蔵野」という本を読んで、すっかり雑木林の魅力にとりつかれました。以来、茫々50年、60年、今でも雑木林が好きで武蔵野を広く散策して写真を撮っています。

何十年か前に山梨県の山の雑木林の中に小屋を作って、通っているのも「武蔵野」という本の影響もあると思います。

そこで下に甲斐国の八ヶ岳と甲斐駒岳の写真をしめします。どちらの写真にも高い山々の麓に広がっている雑木林が写っています。

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上が甲斐駒岳で下が八ヶ岳です。

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武蔵国でも甲斐国も雑木林の多くは農民が植えて育てた林なのです。

木の幹は小屋や家の材料にします。炭焼きの原料です。枝は薪にして燃料です。落ち葉は畑の肥料にします。このように人間が植えた雑木林なので木々が整然と並んでいます。木の種類も一種だけの林があるのです。

ですからこそ見て美しいと思うのかも知れません。

冬の雑木林は陽が差し込んで明るく暖かいものです。道もなくとも下草の上を散歩するのは実に楽しいものです。

武蔵野では平地ですが甲斐の雑木林にはなだらかな起伏があって散歩がより一層楽しくなります。冬の雑木林では見透しがきくので遠方にサルの群れやシカが見えます。

そんな雑木林を散歩しながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。

小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。残念です。本人も、もっともっと文学作品を書きたかったことでしょう。心残りだったに違いありません。

皆様も近所の雑木林の美しさをお楽しみ下さい。冬の雑木林をお楽しみ下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===========================

「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。

そして国木田度独歩の経歴を下にご参考までに掲載して置きます。

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国木田 独歩(くにきだ どっぽ、18718月30明治47月15 - 1908(明治41年)6月23)は、日本小説家詩人ジャーナリスト編集者千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。 田山花袋柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9


寒い冬なので南国、チェンマイの花々を写真をお送りします。

2012年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

タイの古都、チェンマイに長年奥様と猫と仲良くすんでいるgakuさんは2003年からwooたんのチェンマイ通信というブログを書いています。URLは、http://gaku404.exblog.jp/17470386/です。

感動的な写真も多いので何度かその写真をお借りしてこのブログでご紹介してきました。

寒い冬の日が続いているのでチェンマイの今年の春の花の写真をお送りいたします。火炎樹やゴールデンシャワーなどです。正確な花の名前は、http://gaku404.exblog.jp/17470386/書いてあります。

お気持ちだけでも暖まって下さい。

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これは本物の平家の落人部落です・・・日光の山奥の湯西川温泉

2012年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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2008年の11月30日、12月1日と日光の奥の湯西川温泉へ一泊の旅へ行きましした。

平家の落人の里というものは全国の山奥にありますが、湯西川は本当の落人の地だったと納得出来ます。

写真を撮って来ましたのでご報告します。上の写真はは男体山(左端)などの日光連山です。

平家の落人のあった湯西川温泉は上の写真の山々の裏側にありました。

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平家の落人というものは記録が残っていて信用できるところは多くはありません。

栃木県日光市湯西川温泉は文献にも明記されている本物の平家の落人です。「平家の里」という落人の里を復元したテーマパークがあります。写真がその様子です。

訪れてみると、付近は水田も作れず畑作もままならない谷間の寒々しい土地です。

復元、展示されている家々は少し立派すぎるようですが、それも一興と思い写真でご紹介します。

平家一門に関する数々の品や木工の道具類が展示されています。壇ノ浦近くの赤間神社から、テーマパーク建設の時、分祀した小さな神社もあります。そのおりに贈られた長門本20巻の復刻版も展示してあります。

壇ノ浦の戦いのあと、平家の武将、平貞能(さだよし)は平重盛の妹の妙雲禅尼を助け、宇都宮まで逃げて来ました。

宇都宮の領主の藤原朝網に保護されようと思ったのです。しかし朝網は困ります。

そこで付近の最高峰の高原山へ一行を隠します。

ところが一行のなかのある女が男の子を安産します。御祝に鯉幟をあげます。それを山裾を落人探索中の源氏方に見つかり攻められまました。

そこで落人の一団は二手に分かれ貞能(さだよし)は塩原へ逃げ、さらに遠く、仙台の西の作並温泉近くまで落ちて行きます。一方、他の落人は塩原のさらに西の険しい山々に分け入り、現在の湯西川温泉の地に隠れました。そこまでは記録も残っているのです。

仙台の作並温泉近くまで行った貞能は出家して定義(じょうぎ)と名乗ります。この定義は「さだよし(貞能)」とも読めます。

作並から山に入りこんだ所に現在も定義温泉があります。定義和尚はそこで天寿をまっとうしました。住んでいた堂を後の人々が定義不動堂として現在に到っています。

もっと詳細は「湯西川温泉」と「定義」をキーワードにして検索するとご覧頂けます。

撮影日時:2008年12月1日午前10時頃、撮影場所:湯西川温泉1042、「平家の里」(電話:0288-98-0126)、撮影者:Mrs.後藤

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それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

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参考情報:下はこの旅で出会った料理です。

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上の写真が湯西川温泉の伴久ホテルの夕食でした。

囲炉裏でヤマメや田楽を焼いていました。竹ベラに塗りつけた鳥味噌も焼いています。火の横にはイノシシの落人鍋の汁が湯気を上げていました。

御膳の上には山の幸をいろいろ盛り合わせた皿があります。そして、サクラマスの刺身。それらを肴に熱燗をゆっくり嗜めるのです。

下の写真は日光の東照宮の西参道入り口にある「磐梯」の湯波料理の昼食のl写真です。

いろいろに料理した湯波が美味でした。新しいもち米の栗おこわが湯波の味を引き立てていました。撮影日時:11月30日の夕食時と昼食時。

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なお、伴久ホテルと磐梯の湯波料理は検索すると詳しい情報が公開してあります。


参議院議員、衆議院議員7党9人による原発の危険度ランキング

2012年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、定期検査などの理由で停止中の原発は50基あります。

しかしそれぞれの安全度や危険度には差があるはずです。

安倍政権が原発を再稼働する方針である以上いずれは安全度の高い原発から再稼働すべきは当然です。

しかし安全度のランキングを評価した結果は見当たりません。

そこで以下に「危険度のランキング」をご紹介いたします。

その評価は参議院議員、衆議院議員7党9人による原発の危険度ランキングとして発表されています。http://genpatsuzero.sblo.jp/

以下そのに抜粋を示します。

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上の表は危険度なので安全度は逆に考えれば良いと思います。

玄海原発から再稼働すれば良いのです。玄海原発、川内原発、伊方原発、泊原発、などなどは安全度が高いのです。

そして柏崎原発は21mの高さの津波防潮堤を作っているのです。これも安全度が高くなります。このように安全度の高い原発から再稼働すべきです。

しかし上に示した政治家9人の危険度の評価には原発の操業の安定性や事故対応の技術などの技術的評価が欠落しています。実に不完全な評価です。

もっともっと多角的な視点からの総合的な評価をすべきです。

しかし上に紹介した評価はその出発点として高く評価すべきと思います。

一つの合理的なアプローチの例としてご紹介しました。(続く)


横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景

2012年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、農村地帯の家々に行くと囲炉裏の上につるした藁束や室内の高いところに串に刺した川魚の干したものがありました。

都会から行った私にとってそれは何故か不思議でした。もしかしてその家の守り神かも知れません。あれは何ですかと聞くのもはばかれるような不思議なものでした。農村地帯ではそれがどの家にもあるのです。

現在は消えてしまいましたが懐かしい風景でした。あれから茫々70年、その正体が分かりました。横山美知彦さんが説明してくれたのです。

横山美知彦さんは家内が群馬県の下仁田町に疎開していた時の小学校の同級生です。

時々ご自分が書いた文集を送ってくれます。生まれは東京 板橋区ですが、6歳の時に下仁田町へ疎開しました。やがて富岡高校へ進学し、東京の会社で働いて定年後にまた故郷の下仁田にもどって悠々と暮らしています。

文章がゆったりとしていて読む人の心を鎮めてくれます。心地よい文章なのです。以前にもこのブログに以下のように3回、掲載してご紹介したことがあります。横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」

今日は「風吹かし(かざぶかし)」という小文を以下にご紹介いたします。

====横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」========

中学生の頃、近くの川で獲った魚(はや、かじか、鮎等)を手製の串に刺し炭火で焼く。
それを部屋内の間仕切りの梁と壁の僅かな隙間を利用して、串を突き刺し乾燥させる。
また麦わらを直径10cm程に束ねて、串のささる簡単な自然乾燥器を作り、天井からひもで吊り、そこへ串を差し込み乾燥させる。
 いずれもあばら家ゆえに自然に入る外の風を利用してのこの方法を親父は「風吹かし」と言っていた。
 10日ほどそのままにして置くと、魚は上州の風に当たり「カラカラ」になる。
 その魚は「だし」に使ったり、天ぷらや茄子と煮付けて一品料理にする。貴重なタンパク源だった。
 今は川も上流にダムが出来、水量が調節されてしまい少なくなり、生活排水や工場排水により水質が極端に悪くなり魚が減ってしまった。さらに汚水に強い外来魚が増え本来居るべき小魚をほとんど見ることが出来ない。
 一方建物は、建築工法が全く変わってしまい、一般住宅では、従来使用されていた土と稲わらを使った土壁の家が見当たらなくなってしまった。
 昔は家の新築現場には、土壁を作る為の左官屋さんの大きな鉄製の薄い箱が必ず置いてあった。残念だが時代と共に「風吹かし」は死語になった様だ。
 文化の日に、古い文化を思い出した。                                (平成24年11月 3日記)

明日は冬至・・・弱々しい陽射しの公園風景です。

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

府中郷土の森博物館公園を家内と散歩してきました。明日は冬至なので陽射しが弱々しくて淋しげな風景でした。ロウバイの花が咲いているかと思いその林の中へ入りましたが流石に未だでした。つぼみが冷たい風に揺れていました。

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旧石器時代の日本人はナウマン象を食べていたのです。そしてハインリッヒ・E.ナウマン博士の大きな功績

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今から4万年頃前から2万年前までの2万年もの長い間、旧石器時代の日本人は国中に棲息していたナウマンゾウを集団で襲って、殺して、食べていたのです。

その歴史的な事実はナウマンゾウの解体現場に残った骨とともに、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。

特に野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。

発掘は専門家によってもなされましたが、1962年から一般参加者も交えて18回も発掘作業を行って来ました。発掘の成果は、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」に分かり易く展示してあります。私も6年前に野尻湖の湖畔の宿に泊り、この博物館を訪問しました。兎に角展示が良く出来ていて人間がナウマンゾウを食べていたことが確信できました。

「野尻湖ナウマンゾウ博物館」というキーワードで検索するとこの博物館の詳細が出ています。

旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれる博物館は貴重な存在です。訪問して見て、その問題の提起の重要性に感動しました。我々は昔の人々の生活の実態を知らな過ぎると思います。

貴方は奈良時代や平安時代の農民の家や生活の実態をご存知でしょうか?

天皇や貴族の華麗な生活ぶりは学校で習いますが、農民が縄文時代と同じような縦穴住居に住んで、赤貧洗うような生活をしていた事も記憶しておくべきと思います。

歴史の真実を大切にし、自分の毎日の生活を大切にしたいと思います。私は我々の先祖が象を殺して食べていたことも忘れません。その決心をするためにわざわざ野尻湖へ一泊の旅をしました。

下に野尻湖ナウマンゾウの写真を示します。

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一番上の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるものです。

ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。

しかし二万年前に絶滅しました。アジア大陸から移り住んできた我々の祖先が食べ尽くしたようです。野尻湖周辺ではナウマンゾウを捕り、解体した現場から多量の骨と解体に使った道具が一緒に出てきたのです。

この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。

こんな初歩的な知識を得て、俄然、「地質学」という学問に興味が出てきました。

日本に地質学を教えたのは明治8年に、お雇外国人として来日したハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士です。

Naumann17j12 彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナやナウマンゾウ化石などを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。

左の彼の写真はWikipedeaから転載させて頂きました。

先日、見学してきたつくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所のその後の博物館なのです。

日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように動いてきたか?

そして雨風に流されてどのように変化して来たか?

このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化しやすい土壌に埋まれば化石になります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

025_3 左の写真は先日、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この醜悪な展示物に感動してしまったのです。

良くご覧下さい。黒っぽいん岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。

長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細は割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。

岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が役に立つのです。学問研究の醍醐味ですね。(終わり)


大津波の被災地は二度目の冬を迎えています。

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

大津波に襲われた広大な土地の復興は依然として進んでいません。

衆議院選挙と政権交代で皆が大津波被災地のことを少し忘れたのでしょうか。新聞やテレビで被災地の報道が無くなってしまいました。

被災地のことを忘れないようにと祈りつつ以下にご報告いたします。

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上、下の写真は宮城県山元町の被災前と後の航空写真です。

緑豊かな村落も水田も完全に洗い流されてしまいました。(写真は河北新報出版センター発刊「津波被災前・後の記録」の206ページと207ページから転写しました。)

被災地は住宅の再建禁止の指定を受けた地域もあり手つかずのままです。

塩分の沁み込んだ水田は米が作着け出来ません。不便な仮設住宅で寒い冬を迎えているのです。

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私は今年の秋、10月15日に津波ですべてが流されてしまった東松島市の東名(とうな)町という場所を探訪してきました。

以下はこのブログで10月16日に掲載した報告記の抜粋です。多くの人が津波の被災地の方々のことを忘れないようにと祈りながらお送り致します。

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10月15日の朝早く、仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先、石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっているそうです。

復旧には全く手がついていないそうです。復旧には5年以上かかると言います。

高城町駅で降りタクシーに乗りました。中年の親切な運転手さんが被災地を案内してくれました。

運転手さんは東松島市の東名(とうな)町に案内しますと言います。津波で流されてしまった自分の家のあった町だそうです。家は無くなりましたが家族だけは生き延びたと言います。

車は快調に数キロ走ります。同じ町でも津波の来なかった場所では以前のままの舗装道路です。しかし東名駅に着くと、それは下のように幅の狭いホームが残っているだけです。

鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたのです。もう手の付けようがないので新しい線路は山の高台を通すそうです。

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この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。

踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民がすんでいて、260人が犠牲になったそうです。

一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。

下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。

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下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。

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運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。下の写真に運転手さんの悲しそうな表情が写っています。

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最後に彼の家族の助かった理由を書きます。大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。下の写真の山の上に逃げたのです。

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津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。

もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。

間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。ですから大多数人のは大津波の被災地はちゃくちゃくと復興が進んでいると思っています。

しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。

三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。

そしてまだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでいて、将来の計画も無い暗然たる毎日を過ごしているのです。

被災地の復興はいまだ進まず。何も進んでいない所のほうが圧倒的に広いのです。この事実を忘れないようにとこの記事を謹んで、皆様へお送りいたします。

今日は東日本大震災の被害者が、自分の将来をあきらめずに、希望の灯を心に燃やし、すこしづつでも復興の歩みを進めることが出来ますようにお祈り申し上げます。後藤和弘


所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代

2012年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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この記事の前に小平市鈴木町遺跡から見つかった旧石器時代の石器を紹介しました。そこで近辺の所沢市の砂川遺跡から出土した旧石器時代の石器の写真をお送りいたします。

写真の出典はhttp://www.google.co.jp/imgres?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3&start=97&hl=ja&sa=X&tbo=d&biw=964&bih=550&tbm=isch&tbnid=9cFlKv7RtInbsM:&imgrefurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02.html&docid=-ycVjtYXFXksxM&imgurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02sekki-s.jpg&w=475&h=317&ei=R17RUNjzL-qOmQWYzID4Ag&zoom=1&iact=hc&vpx=643&vpy=200&dur=207&hovh=183&hovw=275&tx=201&ty=102&sig=101447057814816231306&page=6&tbnh=144&tbnw=240&ndsp=22&ved=1t:429,r:13,s:100,i:43です。

 砂川遺跡は、所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡です。
 明治大学考古学研究室によって行われた遺跡調査では、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合という作業が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程が明らかとなりました。また、当時の人々が常に石を携行して移動し、そこで石器を作ったり、他の場所で作ったものが持ち込まれたり、他の場所へ持ち去ったりするなど、人々の生活や動きが実証され、日本の旧石器時代研究に大きな成果をあげました。
 出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、明治大学博物館に所蔵されています。

下は有名な岩宿遺跡から出た約3万年前の旧石器と約2万年前の旧石器です。

(出典は、http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/pemranent-ex.htmlです。)

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・下が約2万年前の石器です。

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さて日本の旧石器時代はまだ論争中の事柄が多いようですが以下に最大公約数的な文章をお送りいたします。

=====日本の旧石器時代8、9年前から16000年前まで==========

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代先土器時代ともいう。

終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。

日本列島での人類の足跡も9~8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡る。

地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。

日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、金取遺跡(9~8万年前]から中期旧石器が、砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。

日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。

後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。これらの論争は「丹生論争」「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。


私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷

2012年12月19日 | インポート

私の郷土史は「素人の想像をまじえた郷土史」という意味です。郷土とは律令国家の武蔵国の範囲に限定したいと思います。

私の郷土史の第一回目は、私の郷土史(1)2004年に発見された多摩川の石で造った巨大な古墳 でした。

今日は以前から何度か訪ねて感心していた小平市の鈴木遺跡資料館を訪問し、その感動的な研究成果をご紹介したいと思います。

この小さな展示室は写真のようにごく地味な看板を掲げています。中は一室だけですが、他に専門の学芸員の研究室があります。

素人の小生が感動したことが2つあります。

(1)発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。

地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。

旧石器時代の35000年前から12000年前(新石器時代)までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。

この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。

(2)この資料展示室で感動するもう一つの理由はこの小平市の鈴木町の歴史の変遷が見事に説明してあることです。

元来、この一帯は窪地になっていてその西端に泉があり広い池があったのです。現在の石神井川の源流だったようです。シカやイノシシが集まる絶好の狩猟場だったのです。その理由で旧石器時代から人間が狩猟場にしていたのです。

しかし縄文時代の後期頃ころからこの泉が涸れ、石神井川もずっと東方向に移動してしまったのです。縄文時代の後期には土器や石器は見つかっていますが、住居跡は見つかっていません。その縄文時代の後からは人間の住んだ痕跡が絶えてしまうのです。

わずかに近辺に奈良時代のものと推定される竪穴住居跡が小平第八小学校の校庭から見つかっています。

ですから小平市の鈴木町には平安初期以後人家が絶えてしまったのです。それが数百年後の江戸時代にまた人が住むようになったのです。1654年に玉川上水が出来たことも農業がしやすくなりました。

鈴木遺跡の周辺にも江戸中期の1732年頃から次第に鈴木新田が出来のです。それが現在の鈴木町です。

いろいろな鈴木新田の遺物が残っていますが、特に「定右衛門水車」は有名な水車で明治41年まで動いていたそうです。その江戸時代の陶磁器も多数展示してあります。

このような遺跡の定点観察のおかげで小平市の鈴木町の人家がどのように変遷して行ったかが明快に分かるのです。

この事実は私にいろいろなことを連想させます。日本の地方、地方の歴史は決して連続していないで人家が絶えた時代もあるのです。もちろんそれは地方によりますがこの事実は興味深いことです。現在、日本の各地で起きている過疎化は長い歴史では繰り返して起きていたのかも知れません。この鈴木資料展示室はいろいろな問題を考えさせる展示です。

なお詳しくは小平市教育委員会編、「鈴木遺跡―解説―」平成7年3月31日発行、をご覧ください。

展示室内は撮影禁止です。(続く)

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年々歳々紅葉の季節も巡りゆき年も暮れて行く

2012年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

つい先日、平林寺の紅葉を楽しんだと思っていたらもう師走も19日になってしまいました。こうして日輪はめぐり今年も静かに暮れてゆきます。

年々歳々紅葉の季節も巡りゆき、毎年おなじように年も暮れて行くのです。

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3日前の16日には衆議院議員の選挙があり民主党惨敗、自民党大勝となったので日本中が大騒ぎをしています。

しかし上の紅葉の写真を見ながら、少し大きな視野で考えてみるとそんなに心を騒がせないほうが良いと思います。

アメリカのある調査機関が発表していますが2030年頃の世界はアメリカ、中国、インド、ロシア、ヨーロッパなどの多極構造になるそうです。アメリカの衰退は歴史の必然です。運命の巨大な歯車がゆっくり回っているのです。この予想については2日前の記事で書きましたが、今日は具体的に我々の生活がどのようになるか書いてみます。(12月17日の記事:「日本を取り戻す!」と叫んだ安倍自民党が圧勝・日本人の本音へ訴えた )

日本は日米安保でアメリカ陣営にあるのです。当然、日本も衰退します。しかし衰退を怖れてはいけません。衰退しながらも幸福な国にすれば良いだけのことです。

衰退と言っても食べ物に困るほどのことはありません。戦後の住宅難のようなことにもなりません。

強いて例を上げれば2030年の頃の日本は現在のフィンランド、ノルウエーやスエーデンのような国になるのでしょう。

国内総生産、GDPでは中国やインドが巨大になりますが、日本は高品質な工業製品を作ってその輸出入収益でかなり裕福な生活が出来ると思います。

高品質な工業製品とは高級デジカメ、多機能な携帯電話、高級自動車、信頼性の高い小型旅客機、信頼性の高い船舶用エンジン、コンピューター制御の精密工作機械んどなどいくつもあります。

2030年の頃の日本が幸福な国になるために一番重要なことは人々の心の持ち方です。過度な贅沢を追い求めず、「足るを知る」という気持ちになることです。

金持ちになった中国人やインド人を羨んだり、嫉妬したりしないことです。もちろん中国人やインド人を軽蔑したりしないことです。嫉妬したり軽蔑すると自分が幸せになれないのです。

日本が衰退するという言い方は日本が第二次世界大戦の前のように貧乏な国になるという意味ではありません。衣食住に困窮するという意味ではありません。

日本のGDPで比較すると中国やインドや、ひょっとすると韓国や台湾に抜かれるかも知れません。しかしアジア全体の生活程度が格段に上がるのです。それは実に喜ばしいことです。

顧みればスペインやポルトガルによる大航海時代からアジア諸国はイギリスをはじめヨーロッパ諸国の植民地として搾取され、貧困に喘いでいたのです。そんな状態が第二次世界大戦の終わりまで300年、400年と続いたのです。

その不幸を脱却して日本の周りの国々も豊かになるのです。日本だけが不幸に満ち溢れている国になる筈がありません。

日本が衰退するという意味をもう少し具体的に説明します。

立派な別荘を持っていた人はそれを手放して質素な山林の中の小屋にします。

豪華な新品のフランスのクルーザーを持っていた人は中古の日本のクルーザーにします。

高級外車に乗っていた人は日本車にします。

高級なレストランにしか行かなかった人はファミリーレストランや「すき家」「吉野家」の廉価な食事にも行くようになります。

これは不幸ですか?困窮した生活ですか?幸せな家庭が崩壊しますか?

愛があれば何物をもおそれることはありませ。

安倍総理大臣に変わっても日本の衰退の運命の歯車は止められません。せいぜい日米安保体制を強化して尖閣諸島近海から中国の艦艇を追い出すだけです。

溜飲は下がりますが日本はゆっくり、ゆっくり衰退して行くのです。

おそれる必要はありません。あなたの愛がこの日本を幸せな国にするのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


石塚園芸店の12月の温室の中の花々

2012年12月17日 | インポート

12月になると流石に公園の花々も絶えます。

そこで昨日は今年の1月14日掲載の記事、「新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介します」でご紹介した石塚園芸店に行ってパンジーとランの写真を撮ってきました。

ついでに石塚園芸店の裏に広がる東久留米市の公園を散歩してきました。そうしたらまだ落葉していない柳の枝が風に吹かれていて綺麗だと、家内が撮っていました。

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横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」

2012年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

横山美知彦さんは家内が群馬県の下仁田町に疎開していた時の小学校の同級生です。

時々ご自分が書いた文集を送ってくれます。生まれは東京 板橋区ですが、6歳の時に下仁田町へ疎開してきました。、やがて富岡高校へ進学し、東京の会社で働いて定年後にまた故郷の下仁田にもどって悠々と暮らしています。

文章がゆったりとしていて読む人の心を鎮めてくれます。心地よい文章なのです。以前にもこのブログに以下のように2回、掲載してご紹介したことがあります。横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)

昨日、久しぶりにその文集の最近号を送ってくれましたので、その中から「赤岳」という題目の文章を以下にお送り致します。

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 「赤岳」

  まだ独り者だった頃の話である。会社の同僚のH氏と共に、経理部財務課

   で連日連夜、月次、年次決算事務作業に明け暮れる生活だった。それは過酷

  と言ってもよかった。当時は便利なパソコンなどなく、オリベッテイの電動計算

   機(イタリー製)一台の他は人海戦術だった。

   そんな合間を見つけての、夜行日帰りの山行が楽しみだった。関東の山々を土、日を利用して季節毎に歩いた。

   ある夏、H氏と八ヶ岳に登ることになった。新宿駅を深夜に出る中央線に乗り込んだ。茅野駅で下車、バスの終点までは小一時間、八ヶ岳を裏側(北面)から眺めることになる。

天候は良いと思ったのだが、山に取り付いた頃から雲行きが怪しくなって  来た。

   無言の歩行が続く。八ヶ岳の主峰赤岳の真下まで登り詰める。やや風が出て来ていた。黙々と歩く。直行ルートはなく、赤岳を左に見ながら権現岳方面へと斜めに登る。風の勢いが激しくなって来た。

   夏山でもあり、装備は軽いものだった。もちろんヤッケや着替えはザックに入っているが、まだそれを着ることも無かろうと、岩場に取り付いたのが誤算だった。赤岳まで直線で100mほどの足場の悪い岩場で足が止まった。

   強風に煽られ岩場を抑えている手を離すことが出来ない。H氏と時々顔を合わせるのだが、お互いに危険を察知した表情だ。あと10数メートルで反対側に出られるのだが、動くことが出来ない。ロッククライミングの基本三点支持どころか、手足が総べて岩にへばり付いている。

   寒さが襲ってくる、吹き上げる風に体温がどんどん取られて行く。それが実感出来るのだ。ザックの中のヤッケを出すことも出来ない。あせっているがどうにもならない。恐怖感を感じる。

   風の少しでも緩やかになるところを、眼で探しながら数メートル程度の前進を重ねた。危険な状態の箇所をなんとか登りきり、南面の岩場にたどりつくことが出来た。小一時間はかかったろう。助かった!!

   南面は、嘘の様に風はなく、何事もなかった様に、夏の高山の静かな顔を見せていたが、数人の先客が不安そうに腰を下ろしていた。

   ほんの数時間の出来事だったが、「死」と隣り合わせの登山で、これで雨にでも見舞われたら、間違いなく下界の話題になっていたに違いない。

   気持ちの回復を待って一気に、牛首山を通過、清泉寮まで下りた。夢中だった。

   清里から小海線に乗った瞬間、安堵からか眠気が襲って来た。

   あくる朝、何事も無かったように出勤して、H氏と顔を合わせたが、山行については、一言も口にしなかった。

   75歳になった現在、山に行く機会が全く無くなったが、若さの中で、無心に歩いた頃を懐かしく思い出すことがある。(平成241129日)

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下は八ヶ岳の写真です。2012年4月に撮りました。

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「日本を取り戻す!」と叫んだ安倍自民党が圧勝・日本人の本音へ訴えた

2012年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典は、Yomiuri On Line, Net版です。)

「日本を取り戻す!」とはどんな意味でしょうか?経済の高度成長期の日本を取り戻すという意味と理解した人も多かったと思います。その頃には不況も雇用不安も無い豊かな日本があったのです。

日米安保によって中国を圧迫していた冷戦時代の日本を取り戻すという意味もあったのでしょうか?

そして原子力発電が順調に稼働していた頃の日本を取り戻すという意味もあったのでしょうか?

兎に角、1964年の東京オリンピックからバブル経済の崩壊の1990年までの26年間は日本が輝いていた時代だったのです。その日本を取り戻すという主張だったようです。

アメリカに押し付けられた憲法を破棄し、新たに作るのです。日本国の主権を取り戻すのです。そして自衛隊を軍隊に変えて大日本帝国時代のように軍事力で外国から尊敬される日本にしたいのでしょうか?

上に書いたようなことは案外多くの日本人の本音に違いありません。

経済不況と雇用不安の続く日本では経済の高度成長時代の日本を取り戻すことが明るい希望なのです。

安倍さんはテレビで何度も「日本を取り戻す!」と叫んでいました。そうして選挙で大勝し、公明党と合計すると衆議院の三分の二以上の議席を獲得したのです。

これで参議院で法案が否決されても、もう一度衆議院で可決すればその法案は成立するのです。今朝のテレビでは自分が総理大臣になれば石破さんを又幹事長にしていろいろな政策を進めると言っています。

アメリカのオバマ大統領も声明を発表して安倍さんの勝利を歓迎しています。

さてこれで2つの事には結論が出ました。一つは日米関係が堅固になることです。中国との関係は緊張します。中国にある日本企業は苦しい立場になります。

もう一つは安全度の高い原発から再稼働して行くことです。最終的に何基の原発に落ち着くのかはこれからゆっくり決めて行くと言います。

今度の選挙で原発廃止の理由で投票先を決めた人は僅かに10%と少なく、60%くらいの人は不況対策と雇用増大を言っている候補者へ投票したというテレビ報道を見ました。

ようするに原発廃止か再稼働はあまり重要な問題ではなかったのです。原発ゼロを訴えた嘉田さんの日本未来の党が惨敗し、原発ゼロだけを主張した菅直人さんが小選挙区で敗北したのは象徴的な現象でした。もっとも菅直人さんは比例代表選挙で復活当選しましたが。

さてここからが私の個人的な考えです。

日本民族の繁栄は二度と無いと思います。日本民族が衰退するという巨大な運命の歯車がゆっくり回りだしたのです。誰にもそれを止めることが出来ないのです。

雇用不安と言いますが、仕事を選り好みしているに過ぎません。戦後の失業時代の状態を振り返ってみると現在の日本は「自分の好きな仕事」にこだわり過ぎているのです。これでは雇用不安は永久に解消しません。

経済不況も同じように現在の日本人が必死に働かなくなったのも一つの原因です。

日本の不況はアメリカやヨーロッパの金融危機が大きな原因ではあります。しかし同じ国際経済環境の中にある中国の経済だけが毎年7%くらい伸びているのでしょうか?彼らは必死に働いているからです。

日本民族はアメリカと同様にゆっくり、ゆっくりと衰退しているのです。

2030年になると世界はアメリカ、ヨーロッパ連合、ロシア、中国、インドのような多極的な世界になるそうです。世界一の繁栄を誇っていたアメリカはゆっくり衰退して行き中国などと肩を並べるのです。日本もアメリカと共に間違いなく衰退して行きます。

巨大な運命の歯車が今日もゆっくり、ゆっくり回っているのです。

何もおそれることはありません。何もこわがることはありません。それがこの世というものです。安心して平和な気持ちで過ごせば良いのです。選挙結果にいちいち心を騒がせないようにしたいと私は思っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


12月の花と葉、シクラメンとポインセチアの美しい写真をお送いたします。

2012年12月16日 | 写真

12月になると流石に公園の花々も絶えます。そこで今日は今年の1月14日掲載の記事、「新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介します」でご紹介した石塚園芸に行ってシクラメンとポインセチアの写真を撮ってきました。

花屋さんの店先にシクラメンとポインセチアが並ぶのを見ると、クリスマスが近づきああ、今年も終わると何となく安堵いたします。この鮮やかな鉢は師走の風物詩です。

バラのような香りの高いシクラメンもあります。

新しい品種を作っている園芸店の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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