後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

急激に変化し始めた国際関係(1)シリアでの米露戦争

2018年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今年になってから北朝鮮の外交が協調路線に急変し、中国と北朝鮮が蜜月関係に戻りました。やがてトランプ大統領と金正恩朝鮮労働党委員長が会談し核開発放棄が決まる方向に動き出しました。
一方、中東紛争ではシリアのアサド政権をめぐるアメリカとロシアの代理戦争の激化が起きています。今年の中東紛争の焦点になる情勢です。
今年はロシア陣営とNATO陣営の新たな冷戦構造が厳しくなり、一方のアジアでは北朝鮮とアメリカの何らかの合意が出来、少し平和になる情勢です。この変化に乗じて中国と北朝鮮は以前の友好関係を取り戻したのです。
このように今年は国際情勢が急激に変化し、従来とは非常に違った方向に動き出したのです。
中国の強大化も複雑な国際関係の原因になっています、
このような変化の中で日本はどのような外交を進めるべきでしょうか?
一般的に外交問題に正解を考えることは難しいものですが、少し考えるべき問題を提起したいと思います。そこで、「急激に変化し始めた国際関係」という連載でいろいろな角度から考えてみたいと思います。

今日はシリアにおけるロシアとアメリカの代理戦争を取り上げて考えたいと思います。
そこで最初に、アメリカがミサイル105発をシリア化学兵器施設3拠点に打ち込んだことに関する朝日新聞デジタル記事の抜粋を示します。

・・・・ トランプ米政権は13日、シリアでアサド政権が化学兵器を使用したと断定し、報復として米軍が英仏との共同作戦で化学兵器関連施設3拠点をミサイル攻撃し、破壊したと発表した。米国防総省は14日に会見を開き「全てのミサイルが目標に到達した」と強調。一方、アサド政権を支援するロシア軍に損害が出ないよう攻撃対象は慎重に選ばれたが、ロシアは強く反発しており、米ロの緊張が高まるのは避けられない。

 化学兵器使用疑惑に絡むトランプ政権によるシリアへの攻撃は昨年4月に続き2回目。トランプ大統領は14日朝、ツイッターに「これ以上の結果はない。作戦完遂!」とつづった。
国防総省によると、発射されたミサイルは昨年の攻撃の約2倍の105発(米85発、英仏20発)。地中海東部などに展開する米艦船や原子力潜水艦から巡航ミサイル「トマホーク」を発射。B1戦略爆撃機からも空中発射ミサイルで攻撃した。英仏の戦闘機や艦船もミサイル攻撃に加わった。

 攻撃の標的は、(1)首都ダマスカス近郊の化学・生物兵器に関する研究や開発、製造、試験を担う施設(76発着弾)(2)主にサリンが保管されているとみられる中部ホムス西郊の化学兵器貯蔵施設(22発着弾)(3)ホムスにある化学兵器の装備貯蔵施設と、重要な戦略指揮所が含まれた施設(7発着弾)、の3拠点という。

トランプ氏は、アサド政権の後ろ盾であるロシアとイランを名指しし、「罪なき人々の大量殺害に関係したいのか」と批判。「ならず者国家や人殺しの独裁者を支援することで成功する国はない」と断じた。
 米ロは2013年にシリアの化学兵器廃棄で合意した。トランプ氏は「今日の行動はロシアが約束を守れなかったことの直接的な結果だ」と批判した。その上で「ロシアは暗い道を進み続けるのか、平和と安定の力になる文明国家の仲間入りをするのか決めなければならない」とした。
 また、ロシアのプーチン大統領は声明を出し、「今回の緊張激化は、国際関係のすべてのシステムに破壊的な影響を及ぼしている。歴史がすべてを判断するが、すでに米国にはユーゴスラビア、イラク、リビアと血塗られた懲罰に対する重い責任が課されている」と述べた。(ワシントン=杉山正、土佐茂生)、(朝日新聞デジタル 2018年04月15日 06時05分)・・・・

上のニュースを見るとアメリカは正確に目標施設を爆破するミサイルを何百発もシリアの周辺に配置しているようです。
それなら何故アサド大統領の住んでいる家を攻撃しないのでしょうか?
イラク戦争の場合のようにシリアを占領して大統領を逮捕、処刑しないのでしょうか?

理由はシリアにはロシアのフメイミム空軍基地があり常時30-35機程度の戦闘機や戦闘爆撃機と、これとは別に戦闘ヘリコプター部隊や無人偵察機部隊などが展開しているのです。
その上、 タルトゥース港にはロシアの海軍基地があり、その基地からミサイル巡洋艦など艦艇計11隻が4月11日に出港し、アメリカのミサイル攻撃から退避したのです。
この海軍基地はロシア海軍の地中海の拠点で、シリア内戦でイスラム過激派組織などに巡航ミサイル攻撃を加える際に利用していたのです。

明快に書けばシリアはロシア空軍と海軍が地中海に戦争が起きた場合の最も重要な軍事基地なのです。そのシリアをアメリカが占領すればロシアとの全面戦争になってまうのです。シリアのロシアの空軍と海軍基地はソ連時代からの長い歴史があり一朝一夕に無くすことは不可能なのです。そしてロシアはイランやトルコとも関係が深く、大雑把に言えば中東の全ての紛争の裏にはロシアの軍事力が関係しているのです。

それを熟知しているアメリカの中東政策は弱くなるのです。特にロシアは中国とも関係が深いのです。アメリカがあまり攻撃の規模を拡大するとロシアと中国を敵に回した戦争になってしまうのです。

あまり長くなるので今回はこれでお終いにします。
今日の挿し絵代わりの写真は先日撮ってきた車山と霧ヶ峰のビーナスラインの風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









甲斐駒岳の麓に咲く花々の写真をお送りいたします

2018年04月15日 | 写真
甲斐駒岳の麓から八ヶ岳の麓は山梨県の北杜市になっています。その南地区は武川町といい甲斐駒岳の麓の山里です。そこには昔から武川米という美味しい米がとれる水田が広がっています。
その水田から少し登った所には広大な山林が広がっています。山林を切り開いて牧場にしたり、トマトの温室や畑作をしています。この高台にはいろいろな花があります。自然に育った花もありますし、花の好きな農家の人が植えものもあります。
一昨日、そんな花々の写真を撮ってきました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













現在でも愛されている神父さまの作ったソーメン

2018年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私はソーメンが好きで一生懸命たべます。家内が何故そんなにお好きなのですかと不思議がります。ソーメンが好きなので揖保の糸そうめんは勿論、三輪ソーメン、小豆島ソーメン、氷見ソーメン、などなどいろいろ買ってきて食べています。ですから九州にはド・ロさまそうめんがあることを以前から知っていました。しかしそのそうめんが作られたのは明治時代の話なので、ド・ロさまそうめんは消えて無くなっていると思っていました。
2015年の4月10日から2泊3日の旅で、五島列島を訪問しました。その折にド・ロさまそうめんを現在でも製造している会社があるということを知りました。
その会社とは、長崎の株式会社サンフリード、http://www.sunflead.co.jp/ でございます。

1番目の写真にド・ロさまそうめんの写真を示します。

このそうめんは明治時代にカトリックの神父のド・ロさまによって作り始められたのです。
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父(1840~1914)のことです。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら障害者の為の授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、フランスに残してあった私財を投じてパン、マカロニ、ソーメン作りの工場を建て製造技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。
ですから長崎の人々は今でもド・ロさまの話を言い伝え、感謝しているのです。決っしてド・ロ神父さまとは呼ばずに親しみを込めてド・ロ・さまと呼びます。
私はソーメンを食べる度に、ド・ロそうめんのことを思い出します。
話は飛びますが私の祖父は兵庫県の山郷にある曹洞宗のお寺の住職でした。
毎年、夏になると一家でこの祖父のお寺に帰省したものです。戦前、戦後の頃でした。このお寺で最高のご馳走はソーメンでした。
揖保の糸でした。祖母が大量のそうめんを茹でて大きな器に冷たい水をはり、そうめんを漬けて出すのです。祖父、祖母、そして私たちの一家5人がその器を囲んで座り、めいめいが箸でそうめんを掬いガラスのコップの中のカツブシ味のツユに漬けて食べるのです。
食べられるだけ食べてよいのです。その美味しさが私のそうめん好きの原因になったのです。
そのような事情があったのでド・ロさまそうめんには強い興味をもっていました。
そしてそれを作り出したド・ロさまにも興味がありました。
調べるとド・ロ神父さまの活躍の詳細や彼の記念館のことがネット上に非常に沢山あります。「ド・ロ神父」で検索すると出てきます。
詳しい情報は一切省略して一言で彼の行動を表します。「信者であるなしに関係なく苦しむ人々の味方になって助けたのです。徹底的に助けたのです。精魂を込めて助けたのです。」
九州の人々とフランス人のド・ロさまの絆の強さを想うと不思議でなりません。そしてソーメンのお蔭で私がド・ロさまを親しく感じるのも不思議です。このような不思議な絆がこの世にあるのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


2番目の写真はマルク・マリー・ド・ロ神父です。フランス語ではMarc Marie de Rotzと書きます、 1840年3月27日 に生まれ 1914年11月7日に亡くなりました。

3番目の写真は出津教会です。ド・ロ神父はパリ外国宣教会所属で、1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎市外海地区において布教活動の傍ら、貧困に苦しむ人達のため、社会福祉活動に尽力しました。

4番目の写真は旧長崎大司教館です。
ド・ロ神父が設計した出津教会堂、大野教会堂、旧羅典神学校、旧大司教館および、社会福祉事業に関連する遺跡(ド・ロ神父遺跡、旧出津救助院)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定一覧表へ登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に加えられています。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルク・マリー・ド・ロ です。

陽賜里工房の恒例の春の観桜会に行ってきました

2018年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム
4月1日に「陽賜里工房の恒例の春の観桜会のご案内」という記事を掲載しました。
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの観桜会です。
今年は4月13日(金)、14日(土)、15日(日)の、朝10:00時~午後4:00時ころまで開催です。
私共は13日の金曜日の午後に参加しました。
行ってみると周囲は桜や桃やレンギョウやスイセンの咲き乱れる高原です。
会場にはすでに十数人のお客が楽し気に談笑していました。お客さまの中には私のブログ記事を見て参加してくれた方もいました。
午後に行ったのに韓国海苔巻きやナムル、牛肉のカルビを沢山ご馳走になりました。
ホストの原田聖也さんの淹れたコーヒーは素晴らしい味でした。酸味と苦みがバランスしていて味わいが深いのです。
岩手ナンバーの車もあり、お客さまが遠方からも来た様子です。
清浄な暖かい春風が吹いています。いろいろご馳走になりながら楽しい午後のひとときを過ごしました。
ホストの原田聖也さんと御母上に感謝します。そして韓国の海苔巻き、カルビをご馳走して下さったご婦人に深く感謝しています。有難う御座いました。
13日に撮った写真をお送りします。

1番目の写真は観桜会の場所の西に見える甲斐駒岳です。

2番目の写真は会場の付近に咲いていた桜とレンギョーです。

3番目の写真は沢山の韓国の海苔巻きや牛肉のカルビをご馳走になっているテーブルの風景です。

4番目の写真はホストの原田聖也さんと御母上の写真です。

5番目の写真は会場に微笑みをわかせてくれた甲斐犬のシロー君です。犬も参加してくれると楽しいものです。

尚、この観桜会などに関する問い合わせは以下へお願いします。
連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp
観桜会の場所は、山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンでした。

老人になってみて人生の楽しさを発見しました

2018年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
過ぎ去った日々を思い返ると、その当時とは違う感慨におそわれることが多いものです。
私は引退後に自分の人生を振りかえって、当時とは違った感じかたを持ちました。そして老境こそ人生で一番楽しい期間だという発見をしたのです。
現役の間に、引退後は自分は不幸になると想像していました。
仕事も一切無くなり淋しいだろう。仕事仲間と一緒に飲んだり談笑する機会も無い。仕事しか興味が無くて大した趣味もない。暇が出来ても遊び方を知らないので毎日なすこともなく、無為の日々が流れて行くだけだ。だから老後は不幸だと私は考えていたのです。

ところが、70歳で仕事を一切止めたら、毎日がパっと明るくなって楽しくなってしまったのです。大げさに言えは「歓喜の日々」が流れだしたのです。
兎に角、仕事の為にと、したいこともしないで我慢して来ましたが、その必要が一切なくなります。
頭の上の暗雲が突然消えてしまったようです。
職場が無くなるので上司に気を使う必要が一切無くなります。傲慢な自分にとってそれだけでも万歳と叫びたくなります。
引退までは、他人に自慢出来るような趣味を持っていないと信じていました。
仕事一筋が美しい人生という世の中の風潮に合わせて働いてきたような気持ちでした。
自分を無理に暗示にかけて現役の間に持っていた趣味を過小に評価していたのです。趣味は無いと無理に思い込んでいたのです。
自分の趣味を趣味と認めたくなかったのです。

現役の間、2つの趣味を持っていました。山林の中の小屋に通う趣味と古いヨットで霞ヶ浦を帆走する趣味の2つです。
山林の中の貧しげな小屋へ細々と通うことなど趣味として他人へは言えない。中古のヨットを、よたよたと帆走させることは自慢出来ない孤独な楽しみだ。と強いて無視しようとしていたのです。
その上、現役の間は、親しい友人もあまり居ないと信じていました。
それが、現役を引退し、数か月過ぎてみると考え方がすっかり変わってしまったのです。
山林の中の小屋もヨットも立派な趣味だと考えるようになったのです。他人へ自慢できる立派な趣味だと信じるようになったのです。
その上ブログを始めたら、ネットの上にでも友人が多数出来たのです。これには自分でも驚いています。
友人たちの掲載記事を読んで、毎日コメントを交換しています。
従来は仕事仲間としか付き合っていなかったのです。
ネットの上での友人は年齢、性別、職業がいろいろあって考え方が非常に違うのです。自分の視野が広がり、とたんに世間が広がったような幸福感に包まれます。
毎日が楽しくなるのです。
自分だけが老年を楽しんでいるのではありません。
中高年の人々が書く随筆記事や日記を読むと、皆が明るく楽しそうにしています。どなたも自分の昔の職場の厭な思い出は書きません。人間は嫌なことや悪いことは忘れてしまうものです。そのせいで、老年の毎日が歓喜の日々になっていると思います。
しかし老年になれば肉体は衰え、病気にもなります。
親しい人や恩人が次々と先に死んで行きます。世の中が淋しくなります。
しかし、「ものは考えよう」です。
先にあの世へ旅立つ親しい人々や恩人は我々が淋しい気持ちで日々を過ごしていたら決して喜ばない筈です。それ以上に子供や孫のような若い世代も淋しい老人は見たくないのです。
それだからこそ、明るく楽しく日々を過ごす方が良いと、私は信じています。
このように書ききっている自分があまりにも楽天的なのかも知れません。しかし家人に聞くと彼女ももまったく同じ考えなのです。

ここに示した写真は甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋の付近の風景と小屋の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











「宗教は貧困問題を解決出来ない、戦争の原因にもなる、しかし私が信じる理由」

2018年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
世界中にはいろいろな宗教があります。仏教やヒンズー教やキリスト教やイスラム教があります。神道や儒教や道教もあります。その他いろいろな原始宗教もあります。
動物は宗教を持っていません。人間だけが持っているものです。
この宗教というものはどれもが人々をより幸せにするものです。
しかし幾ら宗教を信じていても人間社会にはどうしても貧富の差が出来てしまいます。宗教は貧困問題を解決出来ません。
その上、歴史的に考えると宗教の違いが戦争の原因になったことが多いのです。例えば中世のキリスト教の十字軍とイスラム教の中東の国々との戦いがありました。
現在でも中東の戦乱はキリスト教とイスラム教の対立が背景にあると言れています。その上同じイスラム教国同士でもスンニ派の国とシーア派の国は戦っているのです。

ですから宗教のことを取り上げると、宗教は貧困問題も解決できないし戦争も防止できないから存在価値が無いというご意見を投稿される方がいます。
その上、西洋人が南米を侵略し植民地にした時、聖職者も軍隊とともに原住民を無理やりキリスト教徒にしたのです。
ですから日本人の多くはキリスト教は悪だと考えています。

従って多くの日本人はキリスト教は悪い結果をもたらすからこの世から放逐すべきだと考えています。
しかし少数の日本人はキリスト教は注意して信じれば良い結果のほうが大になるから信じる価値があると考えています。
私自身はカトリックの信者なので日本人の少数派です。

しかし私は宗教を他人に絶対薦めません。宗教を理由に戦争をしてはいけないと主張します。
この二つを厳しく守っている限り、宗教を理解したり信じると数々の良い結果をもたらすのです。
私がカトリックになって体験的に感じている良いことです。列挙いたします。

(1)何と言っても嬉しいことは仏教の事が明快に理解出来るようになったことです。そして仏教を信じている日本人を誇りに思えるようになったことです。理由は簡単です。仏教もキリスト教もイスラム教もみな同じ宗教としての共通な考え方を持っているのです。
キリスト教を信じたおかげで玄奘三蔵法師や弘法大師に親近感を持ち、尊敬出来るようになったのです。嬉いことです。

(2)キリスト教国の欧米人の心の奥が判るようになりました。
欧米人は一見傲慢のように感じられる時があります。しかしキリスト教を知ると欧米人の心の裏も見えるようになります。すると同じ人間としての悩みや迷いを持っていることが分かります。その結果、彼らに親近感を持てるのです。
同じ様にしてフィリピンやブラジルやアルゼンチンなどの南米の国々に住んでいる人々に親近感を持てるのです。
そして仏教国のミャンマーやタイやベトナムの人々を友人と同じような親近感が持てるのです。そしてイスラム諸国の人々も敵に見えません。これは私自身を幸せにします。

(3)私共夫婦は45年ほど前に一緒に洗礼を受けました。毎週、日曜日には一緒にミサに行きます。これで夫婦喧嘩がかなり解消されるのです。宗教が夫婦喧嘩の解消や予防に役に立つのです。家庭がより平和になります。

(4)最後に一番重要なことを書きます。宗教を信じていると何時かは全世界が平和になると信じられるのです。そして永遠の命を得られると信じることが出来るのです。この希望のおかげで毎日が明るい気持で過ごせるのです。毎日が幸せになるのです。

ですから私は宗教は注意して信じれば良い結果のほうが大になると信じています。宗教は貧困問題も戦争も防止出来ませんが、上の(1)から(4)のような理由で私は宗教を信じています。
しかし信じていない全ての人々も大切にし、尊敬もしています。それが宗教が良い結果をもたらすための絶対条件なのです。

今日の記事の挿し絵代わりの写真は3年前の4月に箱根湿性植物園で撮った水芭蕉、山吹、碇草、石楠花などの花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









共産主義が日本へ与えた深い影響、そのニ

2018年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム
明治5年以後、日本政府は隠れキリシタンの取り締まりを止めました。それ以来、数多くの宣教師が日本にやってきてキリスト教を布教します。
しかし洗礼を受けているキリスト教信者は人口の3%を超えることはありません。
同じ様にカール・マルクスの共産主義も日本に導入され、1917年のロシア革命前後から日本でも共産主義者が活発に活動を始めました。
しかし戦前は治安維持法の弾圧を受け、日本共産党は気息奄々の状態でした。
戦後もマッカーサーに弾圧されました。
しかし現在でも日本共産党は健在です。
先の衆議院選挙でも20名前後の当選者があり、参議院の15名と合計すると35名前後の国会議員を保持しています。

考えてみますと、数の上では少数ですが、キリスト教も共産主義も日本人の考え方へ大きな影響を与えて来たと考えられます。
個人的なことで恐縮ですが私には親しい共産党員の友人がいました。代々木の党本部で働いていて徳田球一や野坂参三の仕事を手伝って来たのです。
その方には山林の中の小屋の庭のテーブルでお茶を飲みながら共産党の話を何度も聞きました。もう老境で達観の境地のような静かな話ぶりでした。
日本では共産党を忌み嫌う人が多いようですが、私はそれ以来、日本共産党の社会に与えた影響を客観的に考えるようになりました。影響の良し悪しを客観的に考えたのです。

今日は日本共産党のことを少し考えてみたいと思います。
日本共産党の歴史や活動経過は以下のURLに詳細に示してあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本共産党
この資料によって、まず共産党の概略を示します。
科学的社会主義を党の活動原理としています。当面は対米従属と大企業の支配に対する民主主義革命を、そして将来的には社会主義的変革を目指すとしています。
2017年1月現在、約30万人の党員を抱え西側諸国で最大規模の共産党です。国会議員数は、衆議院議員12名、参議院議員14名でそれぞれ野党第3党、野党第2党でした。また、約2800人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2016年12月現在53あったそうです。

共産党は伝統的に暴力革命を目指してきましたので、その歴史的事実から現在でも私は共産党へは投票はしません。
しかし共産主義は日本の貧しい農民や貧者の立場に立って政治活動するという側面を堅持して来たのです。その考え方は日本の他の政党にも、そして日本人の考え方にも大きな影響を与えて来たと考えられます。これが共産党の良い影響の一つです。

しかしその一方で、自衛隊を否定したり、天皇制に反対していた過去の活動を私は忘れることが出来ません。兎に角、日本の伝統文化を全く無視するような感じがするのは私だけでしょうか?

しかし一つだけ感動的なことがあります。それは政治活動の費用を党員の個人献金と機関紙の「赤旗」の売上金だけで賄っていることです。
他の全ての政党は、政府から各党に配られる政党補助金と、大企業からの献金で政治活動をしているのです。これでは大企業優先の政策になるのは当然ではないでしょうか?
日本共産党は党規約で政治資金を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定しているのです。
内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入です。
そして企業・団体献金と政党助成金は受取りを一切拒否しているもです。
支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめています。
このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達していると言われています。
一般に、他の政党の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いのです。ここに収賄罪の原因があるのです。
しかし日本共産党の議員は党が政治資金を支えているので企業や団体とは関係なく活動が出来るのです。
如何でしょうか?この政治資金の清潔感は他の政党も手本にすべきではないでしょうか?

しかしどの政党に投票すべきはいろいろな要因を考慮して人それぞれ決めることです。
もし仮に日本共産党が政権を取れるほど強大になったら、逆にその弊害も大きくなるのでしょう。現在の規模くらいが丁度良いのではないでしょうか。
それにしてもキリスト教も共産主義も西洋が生んだ文化です。それが日本の社会に大きな影響を与えているのです。やはり西洋文化は偉大だと考えざるを得ません。

今日の挿し絵代わりの写真は春の小金井公園の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










その他、関連資料のURLをご紹介いたします。
コミンテルン:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
共産主義:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
共産党宣言:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E5%AE%A3%E8%A8%80

インターネットを拒絶する白崎謙太郎の写真芸術の世界

2018年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄で2011年11月30日に『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』という記事を掲載しました。そして2017年08月04日 に『新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」』という記事を掲載しました。
そして今回は、『明治・海・2人ースクーナーとカヌー』という本を白崎さんが執筆し出版しました。
昨日、この白崎謙太郎さんの自宅を訪問して彼が創作した芸術写真を数十枚見てきました。
昨晩の夜中にこの写真の夢を見て目が覚めました。それから寝付かれず、数十枚の写真の色彩や構図を思い出して楽しんでいました。

今日はこの写真のことを文章で説明します。今日の記事では一切写真を掲載しません。
まず最初に何故、写真を掲載しないか、その理由を書きます。
白崎さんの写真は新聞紙2ページ分以上大きなものです。そしてよほど性能が良いカメラで撮ったようで、写真のどの部分を見ても実に鮮明に焼き付けてあるのです。顕微鏡で見たくなるほど微細な絵柄が映し出されているのです。
写真を撮った対象はいろいろです。人物像や、風景や、平板の上に凝結した水滴群や、材木や、魚の干物などいろいろです。
白崎謙太郎の芸術は他人のやらない方法で、絶対に独創的な構図と色彩で写真を撮り、横80cm縦60cmくらいの大きな印画紙に焼いて作るのです。
例えばいろいろな道具を作る材木を何種類も集めて美しい配置に置き、その鮮明な写真を撮ります。それを克明に印画紙に焼くのです。
見るとそれぞれの材質の木材のほのぼのとした暖か味が分るのです。その樹木の育っていた山の光景が眼前に広がるのです。
そしてそれぞれの材木を愛している白崎さんの心の動きが写し出されているのです。

この大きな芸術写真をインターネットの上で掲載すると、色彩が微妙に変化し、細部も見えなくなり原画とは全く異質のものとなります。インターネット上での掲載を拒絶せざるを得ません。

それから亡くなた奥さんの穿いていた靴の写真もあります。かなり使った靴の皺や傷が克明に写してあります。その皺や傷には奥さんと一緒に登った山々の思い出が詰まっているようです。奥さんの写真は見ませんでした。靴の写真があるだけです。それだけに亡き妻への思慕が一層強く表現さられているのです。
この写真をインターネットに掲載すると靴の微妙な皺や傷は見えなくなります。インターネット上での掲載を拒絶せざるを得ません。

こんな風景写真もありました。津久井湖を山の上から撮った大きな風景写真です。
碧い湖の向こうに人家があり、その上に丹沢の山並みが写っています。そしてその山並みの遥か遠くに雪が光る南アルプスが鮮明に写っているのです。
この角度からですと丹沢の山並みの上に残雪の富士山の秀峰が見える筈ですが写っていません。わざと富士山が山影になる場所を選んでシャッターを切ったのです。富士山が写っていたら俗悪な絵葉書の写真になっています。
この写真をインターネットに掲載すると遥か遠くに雪が光る南アルプスの映像が見えなくなります。インターネット上での掲載を拒絶せざるを得ません。

まだあります。人物像です。恩師の上半身の像では、恩師が威厳のある、しかし暖かい微笑をしている場面です。白崎さんが尊敬しながら恩師へ面白い冗談を言いながら撮った写真のようです。
美しい少女の写真もあります。少し横目になってお茶目な笑いを浮かべた表情をしています。
このような写真をインターネットに掲載すると恩師や少女の微妙な表情が分かり難くなります。インターネット上での掲載を拒絶せざるを得ません。

このように書いて行くと非常に長くなるので止めます。
数十枚の写真を見て感じたことはどの写真も美しいのです。不思議な構図ですが心地良いのです。見ていると明るい気分になるのです。
それは斬新な写真芸術の世界なのです。しかし昨日、白崎さんは「芸術」という言葉を一回も使いいませんでした。
他人が絶対にやらない方法で大きな写真を作ることに熱中しているのです。その作品が芸術か否かということには白崎さんは関心がないのです。これだけの芸術的な写真の大作を作れるのですから個展を開催すれば有名になるはずです。
白崎さんにはその気がないのです。孤独でないと良い作品は出来ないと信じているのです。有名になってしまうと孤独ではいられなくなります。
このように書くと白崎さんは孤独で偏屈な「臭い芸術家」のように思う人もいるでしょう。
ところな彼にはいろいろな分野の友人が沢山いるのです。
例えば三浦半島の小網代湾に係留している彼のヨットにはいつも一緒に乗る仲間が沢山いるのです。その全長、12mのヨットに勢ぞろいした仲間の写真も見ました。
その中央に写っているある友人が今回出版した本の『明治・海・2人ースクーナーとカヌー』の編集と校正をそてくれたそうです。
この本は昨夜少しだけ読み出しましたが間違い無く面白い本です。2000円で私も買ってきました。(shirasakikentaro@gmail.com へ申し込むと購入出来ます)

私はこうして毎日インターネットの上に文章を書いたり写真を掲載しています。言ってみればインターネット中毒に罹っている病人です。そして格調の高い生活をしている多くの人はインターネットを使っていません。
昨日、白崎さんの写真芸術を見て私は反省しています。自分がインターネット中毒に罹っている病人であると反省しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


共産主義が日本へ与えた深い影響、その一

2018年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、西洋の思想や主義が怒涛のように日本へ流れ込んで来ました。資本主義や民主主義や共産主義、そしてキリスト教などが何の脈絡もなく日本へ流れ込んだのです。
それらは日本人とその社会へ深い影響を与えたのは当然です。
士農工商の封建社会しか知らなかった日本人にとってはさぞ驚きの連続だったに違いありません。

今日は共産主義の深い影響の一例として朝日新聞へ与えた影響を書いてみようと思います。
朝日新聞は戦後に共産主義の影響を受け、中国やソ連のような共産国家へ同情した体質を持つようになったのです。
誤解を避けるために先ず書いておきます。日本は成熟しつつある民主国家ですから一新聞社が日本政府へ反対する記事を書こうが、親中国的な体質を持っていてもそれは全く自由です。
国家権力で弾圧すべきではありません。あるいは朝日新聞の不買運動もすべきでもありません。自由にさせてるのが良いのです。それが民主主義というものです。
さて、それでは朝日新聞はどのような報道をして来たでしょうか?
一例を上げると、朝日新聞は中国の文化大革命を高く評価した報道をしていました。毛沢東の民衆を犠牲にした権力闘争で数百万人の死者を出した文化大革命を高く評価していたのです。
そして本多勝一記者などによる日本軍の中国における残虐行為の記事や本が日本社会へ与えた影響は決して小さなものではありませんでした。
皆様のご記憶にもある慰安婦問題ももともとは朝日新聞の誤報記事から始まったのです。

それでは何故、朝日新聞がこのような体質になったのでしょうか?
この問題に対して、理路整然とした説明を見つけましたので以下にその抜粋をご報告いたします。
詳しくは田辺敏雄氏のホームページ、『「朝日」は何を、どう報じて来たか?』、http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-1.html にあります。
朝日新聞は昭和前期(~1945年8月)を中心とする日本軍の犯した残虐行為を大々に報じました。
その結果として、いわゆうる「自虐史観」が社会を風靡したのです。
その先駆けとなったのは1971(昭和46)年8月に始まった連載「中国の旅」 であったと言われています。
「中国の旅」という一新聞社の一連載(約40日間)だけで自虐史観が形成されたわけではもちろんありません。
当時の日本の若者や進歩的文化人が中国の文化大革命にも影響を受け、それを称賛していたのです。このように日本の社会は「毛沢東の共産主義」の大きな影響を受けていたのでしょう。
このような社会情勢を受けてマメディアがバスに乗り遅れるなとばかり、日本軍の悪行発掘に精を出したのです。
その上、近現代史を専門とし、歴史学会をリードしていた左派系の大学教授たちが足並みをそろえ「毛沢東の共産主義」を高く評価したのです。日教組が牛耳る教育界も「平和教育」という大義名分のもと、教科書、授業をとおして、日本軍の残虐行為を生徒へ教えていたのです。

一方アメリカの占領軍総司令部GHQは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 (WGIP)を繰り広げていたのです。
 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」 (全十回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。
 もちろん、12月8日の初回は、日本の真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。
 この連載は後に単行本となりますが、学校教材として使用が命じられたため、10万部が売れたとのことです。
 連載の初日、まず「南京虐殺」が取り上げられました。日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道です。 この時の昭和20年12月8日付けの朝日には2万人の市民、子供が殺戮されたとなっていました。
 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されたのです。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。

このような社会風潮へ対して、後の時代になって異議を唱える人もいました。
その一人が曽根綾子でした。
曽野 綾子 が産経新聞に連載しているエッセイの「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」で明快な反論を書いたのです。尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています。その2010年10月29日付の記事の一部抜粋を示します。
「今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず中国から脅しを受けながら、特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けたのです」と書いたのです。
 朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者(曽根綾子)にも書くことを許さなかったのです。
「私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかった」と書いたのです。
 40年前といいますからまさに1970年頃になります。共同通信社を含むほとんどの新聞は、日頃の言とは裏腹に己の目先の利益のために紙面を中国に売り渡したのです。
裏を返せば、紙面に載る中国関連記事は、報道、論説、論壇等を問わず中国の称賛だけがまかり通ったことになります。
 「北京の空は青かった」「ハエが一匹も見当たらない」「子供たちの眼は輝いていた」式の報道を私も読まされました。同時に馬鹿々々しいという反論も週刊誌などで読みましたが。
 曽野綾子は「私にいわせればマスコミは正気で『発 狂』していた」と表現し、当時の報道の責任を厳しく問い糺したのです。

あまり長くなるので今日はこの辺で止め、後は続編で書くことにします。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、甲斐駒岳の麓の山里で撮っ花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





日本人と欧米人の違い、心に思う光景の違い、補足

2018年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
2018年03月27日 に「日本人と欧米人の違い、心に思う光景の違い」という記事を掲載しました。
その記事で欧米人が心に抱く「宗教的な光景」を三つ選んで説明しました。
その三つとは次のようなものです。
(1)棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面。
(2)人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死ぬ場面。
(3)墓に葬られたイエスが生き返って、墓からイエスの遺骸が消えて無くなる場面。
今日はその補足として生き返ったイエスの胸の傷跡にトマスが手を入れてイエスが本当に生き返ったことを確認している場面を追加したいと思います。

1番目の写真の絵画がその場面です。この写真の出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/blog-post_29.html  です。
欧米人はこのような光景を子供の頃から見て育つのです。キリスト教を信じなくても欧米人はこの残酷な光景を記憶しています。
この絵画の描かれた経緯はヨハネによる福音書の20・19~31に書いてあります。
この福音書は世界中のカトリック教会で今日のミサで朗読されるのです。カトリックのミサは国が違っても世界中、みんな同じなのです。
福音書は理解し難いので、まず最初に2つの部分に分けて説明します。
(1)イエスが生き返って弟子達の前に現れた時、トマスは居なかったのです。その話を聞いたトマスはイエスが生き返ったことを信じなかったのです。
十字架上でローマの兵士に突かれた槍先の傷跡に自分の手をいれてみなければトマスは絶対に信じないと言い放つのです。
(2)8日後にイエスがトマスも含めた弟子達の前に再び現れて、トマスに語りかけるのです。槍先の傷跡に手を入れたトマスはやっとイエスの復活を信じたのです。

この経緯をヨハネによる福音書の20・19~31は以下のように書いています。
・・・その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

以上の部分で一番重要なところは、イエスがトマスに言われた言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
現代の世界中のカトリック信者達は生きているイエスには会えません。それでも信じています。見ないで信じているのです。
疑いながらも信じているのです。イエスは「私に会えなくても信じよ」と言っているのです。
これこそが今日のミサの趣旨なのです。

キリスト教が日本人に理解されない原因はこの辺にもあるのでしょう。
しかし翻って仏教のことを考えてみましょう。お釈迦様は遥か2500年も前の方です
遠方のインドの方です。
しかし多くの日本人はお釈迦さまの教えを信じています。
「見なくても信じる」のはどんな宗教にも共通する重要なことではないでしょうか?

皆様の平安をお祈りします。

遥かな隠れキリシタンの里、五島列島への旅の思い出

2018年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2015年の4月10日から2泊3日の旅で訪れることが出来ました。長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていました。
その2015年の春の五島列島への旅を懐かしく思い出しています。
五島列島には50余のカトリック教会があります。その大部分は明治6年キリシタン禁教が廃止された後の明治、大正、昭和の時代に造られたものです。建築の設計から施工を担当したのは鉄川与助という大工の棟梁でした。そのお孫さんが「おじいちゃんがつくった教会」(http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/)という資料をネットに掲載しています。

今日は日曜日でミサに行きますので、その遥かな五島列島への旅の思い出を書いてみます。
長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
そして五島列島という大きな島を巡りいろいろな問題を考えました。
ここには古い日本の文化が残っています。しかし過疎化や経済の低迷など現代の問題も抱えているのです。
そしてこの島は遣唐使以来、中国大陸への航海の最後の寄港地として弘法大師の空海や伝教大師の最澄が風待ちで長く逗留した場所でもあります。仏教も盛んな土地です。立派な神社もあります。
その上、山上憶良のこの地にまつわる歌もあるのです。従って五島列島は万葉集時代から文化交流の十字路として重要な島だったのです。キリシタン信仰はずっと後になって江戸時代から入ってきたのです。
この五島列島の3日間で感じた特徴ある歴史や現在の社会問題などについてか「遥かな五島列島への旅」と題する連載として2015年の4月に何度か掲載しました。
今日は今回訪れた5つの教会の写真だけをお送り致します。

1番目と2番目の写真は井持浦天主堂です。



3番目と4番目の写真は堂崎天主堂です。



5番目と6番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。



7番目と8番目の写真は頭ケ島天主堂です。



9番目と10番目の写真は中ノ浦天主堂です。



そして11番目の写真はキリシタンが隠れていて、後に逮捕、処刑されたキリシタン洞窟、ハリノメンドの写真です。現在でも毎年供養の儀式が長崎大司教区がとりおこなっています。

現在、五島列島は福江のある下五島を五島市といい上五島は上五島町という2つの自治体になっていて上五島と下五島の人口の総数は約7万人です。
下五島のカトリック信者は人口の約10%で、上五島は25%位と言われています。
たった7万人の住民にたいして50もの教会が存在するのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「花の写真の選び方に関する夫婦の間の意見の違い」

2018年04月07日 | 写真
花の写真を何枚もインターネットに掲載する場合、私と家内とは写真の選び方に大きな違いがあるのです。
家内は花の咲いている環境が分るように撮った写真を選ぶのです。植物学的な配慮を重視します。
私は花をクローズアップして明快に見えるように撮った写真だけを選びます。花がどんな所に咲いていたかは重視しないのです。
読者の多くは花そのものの美しさを楽しんで幸せな時間を過ごしているのです。花がどういう環境に咲いているかという植物学的な情報は不要だと私は考えているのです。
今回の5枚の写真は家内が選らんだものです。花の咲いている京王フローラルガーデンとはどういう場所なのかが分る写真です。花をクローズアップした写真はありません。この今日の5枚と昨日の「美しい花園の作り方を考える」の記事の中で私が選んだ5枚との違いは明らかです。
このように夫婦というものは何十年も一緒に暮らしていてもいろいろ意見が違うものです。意見が違っても夫婦喧嘩にならないようにお互い努力しています。そして意見が違うから退屈しないのです。
そんなことを考えながら今日も平穏に過ぎて行きます。
皆様の平穏な日々をお祈りしています。









帆船カティサーク、帆船日本丸、そして私の帆舟、その三

2018年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨットを23年間、霞ヶ浦の土浦港に係留して帆走の趣味を楽しみました。
今日はまず自分のヨットの写真をご紹介したいと思います。そしてヨットの構造に込められた西洋人の知恵と情熱に驚いたたことを書きたいと思います。西洋の帆船と日本の北前船に代表される帆船との根本的な違いに愕然となったのです。
この帆船の構造と性能の違いこそが西洋人が世界中に植民地を所有する原動力になったのです。

1番目の写真は小さなキャビンを持ったヤマハ19というヨットです。長さ19フィートの約5m70cmありました。
1988年3月に琵琶湖湖畔の雄琴の藤田マリンから100万円で購入しました、霞が浦へは陸送しました。進水後7年の中古です。
藤田マリンの若いご主人が つくば水郷汽船マリーナまでトラックに乗って来てくれ、マストを立てステイ類をピンと張って帰って行きました。つくば水郷汽船マリーナのクレーンで水に浮かべ早速帆走の仕方をマリーナの佐藤敏雄さんに教わりました。彼にはそれから23年間お世話になりました。

2番目の写真は霞ヶ浦の土浦港の風景です。私のヨットは右側の岸壁に係留しました。茨城県の港湾局が管理する岸壁なので係留料金が年間20000円と安かったので非常に助かりました。もう一つ良いことは岸壁に車が入れ、ヨットの前に何日でも駐車出来たことです。

3番目の写真は土浦港の中を帆走している私のヨットです。
最初のヤマハ19に10年間乗ったあとにジョイラック26というヨットに13年間乗りました。この写真のヨットはジョイラック26です。長さ26フィートの約7m80cmありました。

4番目の写真は港から沖に出た時の風景です。ジョイラック26のコックピットから撮った写真です。霞が浦は日本で2番目に大きな湖で幅8Km、東西の長さが40Kmもあり帆走には充分の広さがあります。霞が浦から利根川に出て銚子まで下ると太平洋に行けます。そうして九州や沖縄まで帆走する人もいましたが私にはそんな元気はありませんでした。

5番目の写真はジョイラック26のキャビンの中の料理コーナーの写真です。
流しと2口コンロがついています。
夜になれば港に係留して、キャビンで簡単な料理を作ってビールを飲みます。
眠くなったら、そのままキャビンのベンチに蒲団を敷いて寝ます。家内と寒い冬でも泊まりました。お正月には重箱のお節料理を持ちこんで家内と食べて帰ってきたこともあります。
普通は一人でビールを楽しみますが、たまには昔の同級生やヨットで知り合った友人を招待して一緒にキャビンやデッキでパーティをします。一緒にレースにも参加します。

閑話休題。思い出話は止めて、驚異的な西洋の帆船の構造と性能をご紹介したいと思います。

西洋の帆船には、次のように日本の帆船に無い大きな2つの特徴があります。
(1)竪型の三角形の帆が付いていて風上45度まで登れる。
(2)船底に非常に重いキールがついていて転覆しても自分の復元力で起き上がれる。
   そして帆船の甲板の下は全て気密な空間になっていて、幾つかの船室になっているのです。

西洋の帆船が風上に登れる性能を持っていたことが決定的な違いでした。
日本の北前船は四角形の帆しか上げなかったので絶対に風上には登れなかったのです。
今日示した3番目と4番目の写真のヨットは風上45度に登っている時の写真です。
写真のような形の帆にすると帆の外側を通過する風の速度が内側より大きくなり帆を前方へ引きつけます。これは飛行機の翼が揚力を生む原理と同じなのです。これを学問的にはベルヌーイの定理と言います。
理屈ではなかなか理解が困難ですが、実際にヨットを風上へ走らせると実感として納得出来るのです。
しかし風に真正面から向かうことは不可能です。あくまでも45度の方向です。船の方向を変えながらジグザグに進めば結果として風に真正面から登ったことと同じになります。

このようにして西洋人は大型帆船で、逆風が吹いても大西洋を横断して南米の植民地を領有し、アメリカ合衆国を作り上げたのです。

結論です。前の記事にある日本丸の写真を見ると横型の四角形の帆と竪型の三角形の帆が付いています。四角形の帆は追い風を受けて風下へ疾走するための帆です。竪型の三角形の帆は風上へ登るための帆です。帆船の秘密兵器はこの竪型の三角形の帆なのです。

このような理屈はいくら読んでも分かり難いものです。それには大型帆船に乗って体験すれば感覚的に納得するのです。
帆船「みらいへ」は、日本で唯一、一般の人が自由に乗ることができる帆船です。
詳しくは、http://www.miraie.org/ をご覧下さい。この帆船は神戸港を基地として瀬戸内海を走り、太平洋に出ます。そこで竪型の三角形の帆を多数装着して、狭い海峡も帆走で通れるような帆の設計になっていることにご注目下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい花園の作り方を考える」

2018年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム
よく訪れる花園に感心しています。花々の色彩を考え、その配置を工夫しているのです。自然の野原にこんな花々の咲いている場所もありますよと語りかけています。自然界にそんな場所など無いと分かっていてもそんな気分になってしまいます。
それは背景にいろいろな植物の緑の葉を上手に使っているからです。
何処に何時、何を植え付けたらどのような花園になるかを熟知した人が設計図を描いてから、植え付けの作業を始めるのでしょう。
この花園には土にまみれた女性が熱心に花々の世話をしています。枯れた花殻を丁寧に取り除き、如雨露で花を慈しみながら水をかけています。何やら肥料らしきものを少しずつ上げています。
美しい花園の作り方はまづ色彩の配置の設計図を描くことです。
そして毎日、毎日、根気よく花々を愛しながら手入れをすることです。美しい花園は人間の知恵と愛情の結晶なのです。
そんなことを教えてくれるのが京王フローラルガーデンなのです。詳しくは、http://www.keio-ange.info/event/ にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













「色とりどりのチューリップの花の写真をお送りいたします」

2018年04月05日 | 写真
桜の写真を撮るのに忙しく、ご無沙汰していた京王フローラルガーデンを久しぶりに訪問しました。自慢のマグノリアが全て散っていました。その代わり実に色とりどりのチューリップの花が咲いています。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。