後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の日記、東京スタジアムと調布飛行場

2019年10月20日 | 日記
今日は午前中はカトリック小金井教会のミサに行きました。
昼食後は1時間昼寝をし、その後1時間庭木の枝を短く切って束にしました。こうすると市役所が明日回収してくれます。庭木の束2つと雑草の大きな袋を4つ作りました。庭木の枝を切るのは私ですが、それを整理して大きな袋に詰めるのは家内がしてくれました。
これには大いに助かりました。
その後少しドライブしました。行き先は今夜ラグビーの大試合のある東京スタジアムと調布飛行場です。
東京スタジアムの周囲にはどのくらい人が集まっているか見に行ったのです。野次馬根性です。
午後3時半でしたので流石に観客は少なく警官だけが沢山いました。
テレビの今夜の日本ー南アフリカの試合が楽しみです。
東京スタジアムの後は隣の調布飛行場に行き大島通いの飛行機を眺めて来ました。
帰宅後風呂に入りました。
こうして平凡な一日が終わりそうです。晴れの穏やかな秋の一日でした。

1番目の写真は伊豆の大島へ行く飛行機です。調布飛行場は伊豆の島々と定期航路で結ばれています。
この見事な写真の出典は、http://iwanphoto.blog15.fc2.com/blog-entry-964.html です。

2番目の写真は調布飛行場の中心部分の風景です。

3番目の写真は東京スタジアムと調布飛行場の位置関係を示す写真です。左右に長く伸びているのが調布飛行場の滑走路です。
滑走路の左上に楕円形の東京スタジアムが写っています。調布市は私が住んでいる小金井市の隣町です。

「キリスト教の洗礼を受けると仏教が分かるようになる」

2019年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今から48年前の1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けました。
洗礼を受けても自分の悪い性格は一向に良くなりません。洗礼の効果はゼロです。
しかし洗礼を受けたお陰で良かったことが幾つかあります。
その一つは、「仏教が理解出来たこと」です。
勿論、仏教は奥深く、そしていろいろな宗派がありますから、その概略を少し理解出来たと言うべきです。少しでも理解出来たので大変親しみを感じるようにまりました。

キリスト教ではイエス様の教えを書いた新約聖書の中の福音書を非常に大切にしています。それから後の世のいろいろな優れた人の教えや儀礼や習慣も大切にしています。
宗教というものは教祖様の教えと、後の世のいろいろな優れた人の教えから成り立っているのが普通です。
佛教も例外ではありません。お釈迦様の教えと、後の世の人々の教えから成り立っています。
まずこの2者を区別して、整理すると理解しやすいのです。
お釈迦様の教えは般若心経に過不足なく、そして明快に書いてあります。お釈迦様が弟子のシャーリプトラへ教えた内容が書いてあります。
この世にある全てのものは空(くう)なのですよ。空なるものが物質の本質なのですよと何度も教えています。それを信じるとこの世の苦しみや悲しみは消えて無くなりますよと教えています。人間が苦しみや悲しみから解放されて幸福に生きるための考え方を教えているのです。
この宇宙にある全てのものは空(くう)だという宇宙観は西洋には無い卓越した哲学です。
お釈迦様の教えはこれだけです。一切のものが空なのですからお釈迦さんは死んだら遺骨は野に捨てなさい、お墓も作ってはいけませんと遺言しました。仏像も作ってはいけませんと明言しました。
ですからお釈迦様の死後400年以上は仏像の一切無い宗教だったのです。
現在、日本にある華麗なお寺も仏像もお釈迦様の言ったことに従わないで後の世の人々が作ったものなのです。
だからと言って、それらは悪いと言っているのではありません。宗教というものは永い間存続し継承されるためには、付随的なものや追加された教えも非常に重要なのです。
例えばイエス様は、現在のローマ法王と世界中のカトリック教会の組織を作りなさいと言いませんでした。あるいはマリア像を作り祈りなさいと言いませんでした。しかしキリスト教を長く継承するためには重要なのです。少なくともそのように信じている人々をカトリック教徒と呼ぶのです。
佛教でもお釈迦さまの教えを理解し、長く継承するためには座禅が重要だという考えがあります。その考えにもとづいた宗派が曹洞宗や臨済宗や黄檗宗などの禅宗の宗派なのです。
このように仏教を理解すると、一番大切なことはお釈迦様の教えだということが納得できます。
それぞれの宗派の教えが、お釈迦様の教え以上に重要だということは絶対に無いのです。主客転倒はいけません。
例えば、曹洞宗は、福井の永平寺を開山した道元禅師さまが中国から持って来た考えです。そして横浜の鶴見の総持寺を開山した瑩山禅師さまが広められた宗派です。
現在曹洞宗は、永平寺・総持寺の両大本山をはじめとして、約一万五千の寺、僧侶二万人、一千万人の檀信徒を有しているそうです。
この宗派では道元禅師さまや瑩山禅師さまの像がよく祀られています。そして 多くの人々はお釈迦様のことを忘れて道元禅師さまや瑩山禅師さまの像だけに祈っています。これは間違っていますね。
そんなことが洗礼を受けると理解出来るのです。

どんな宗教でもお釈迦様やイエス様のような教祖さまの教えと、後の世の人々の教えから成り立っています。
ですから教祖さまの教えを忘れてはいけないと私は信じています。そのように信じると仏教も分かり易くなると思います。

今日の挿し絵代わりの写真は京都の三十三間堂の写真です。昔の日本人の仏教へ対する熱い情熱を感じますね。いかがでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





日米安保体制の信頼を崩すトランプ大統領

2019年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領はアメリカさえ良ければ同盟国を見捨てるという考えのようです。アメリカとの同盟関係など自分の大統領再選のためには弊履の如く捨てるのです。
今回のトルコ軍のクルド人攻撃を容認したのはその実例です。
クルド人武装勢力はアメリカと同盟してシリア国内の強力なイスラム国殲滅に功績を上げた戦友だったのです。そのクルド人武装勢力を見捨ててアメリカ軍だけ本国へ引き上げてしまったのです。
その上、ペンス副大統領をトルコに派遣してトルコによるシリア北部の占領を容認する協定をトルコと締結したのです。
以下の昨日のニュ-スをご覧下さい。

「トルコ、シリア軍事作戦を停止 クルド部隊撤退後に終了へ」
https://www.afpbb.com/articles/-/3250079
【10月18日 AFP】(更新)トルコは、同国がシリア北部で進める軍事作戦を5日間停止することで同意し、クルド人が率いる部隊が安全地帯から撤退し国境から離れることを条件に作戦を終了する意向を表明した。ペンス米副大統領とトルコ当局が17日、明らかにした。
 ペンス氏はトルコの首都アンカラで、エルドアン大統領らと会談した後に記者会見し、トルコの軍事作戦が「(クルド側部隊の撤退)完了後、完全に終了する」と表明した。
ペンス氏はまた、米国が「今後120時間での秩序ある撤退を支援する」ためにクルド人勢力と協力すると説明。5日間の停戦中、米国はトルコに対し追加制裁は科さず、作戦終了後には最近発動した制裁を撤回する意向だと述べた。・・・以下省略

上記の「クルド人が率いる部隊が安全地帯から撤退し国境から離れることを条件に作戦を終了する」という意味はクルド人が武装解除し退却しない限りトルコによるシリア北部の占領を容認するという意味です。
クルド人が退却する筈がありませんからトルコ軍は何時迄もシリア北部に駐留しても良いことになります。アメリカはクルド軍とのかつての同盟関係を捨てたのです。

この事実は日米安保体制も例外ではないことを暗示しています。
アメリカが窮地の立てば日本から引き揚げ日本を丸裸にする可能性があるのです。
この可能性はトランプ大統領の就任以来日本側からも度々指摘されてきました。
その上、中国が強大になり一帯一路政策により日本も中国の勢力圏に取り込もうとしています。日本もアメリカ一辺倒では危険です。そこで来年には習近平国家主席を国賓として日本へ招待することにしています。

こんな情勢では日本人はアメリカ人みんなをトランプ大統領のように利己主義だと思いがちです。同盟関係を見捨てる人間だと思います。信頼出来ない人間と思います。
しかしそれは間違です。
一つだけ実例を書きます。それは1976年ベトナム戦争でアメリカが敗北した後の話です。アメリカ軍と同盟関係にあった南べトナムの政府関係者や軍関係者が陸続としてアメリカへ避難してきました。
その多数の避難民をアメリカの民間人が自分の家に受入れて就職の世話をしたのです。
私の友人のアメリカ人も自宅に数人のべトナム人を数週間泊め食事を供し就職の世話をしたそうです。
彼は、「同盟軍だった数人のべトナム人の世話をするのはアメリカ人として当然ことです」と言っていました。

アメリカ人みんなをトランプ大統領のように利己主義者で同盟関係を見捨てる人間だと思ったらとんでもない間違いです。
それにしてもトランプ大統領は困ったお人です。

今日の挿し絵代わりの写真はかつて住んでいたオハイオ州の州都のコロンバス市の紅葉の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





今日の日記、高齢者運転教習に行きました

2019年10月18日 | 日記
運転免許証は3年ごとに更新手続きをしなければいけません。
来年の1月の更新のために必要な認知症の検査を受け警視庁指定の教習所で高齢者運転教習を修了しなけばなりません。
認知症の検査は先月、警視庁の府中免許更新所で受け合格しました。
今日は警視庁指定の尾久自動車運転教習所で2時間の高齢者運転教習があり無事合格し東京都公安委員会発行の修了証を貰ってきました。これで来年の1月の更新のために必要な準備は全部終了しました。
最近高齢者による事故が多いので認知症の検査は非常に厳しいものになっていました。
高齢者運転教習では特に運転実技の検査がきびしかったです。特にバックで車庫入れをさせたり、後ろ向きに段差を上がるテストが厳しかったです。
毎日運転しているので実技には自信がありますが、確かに運転は年々下手になっていることが分かりました。
慎重に次の3年間を運転する決意で教習所から帰って来ました。足の悪い私を心配して家内が付き添ってくれました。
東小金井にある尾久自動車運転教習所の写真をお送りいたします。





そして何も無くなってしまった多摩川の河川敷

2019年10月17日 | 日記
午後に日野市の公園に行こうと思って甲州街道を走って行きました。
そうしたら先日の大水で日野橋が損傷を受けて交通止めです。
立日橋に迂回し渡っていると多摩川の河川敷に何も無くなっています。何時もは大きな樹々が茂っていた河川敷がただ白く広がっているのです。
こんな風景は60年近く多摩川を眺めていて初めて見る風景です。
車を堤防の脇の側道に入れ家内が堤防に登って何も無くなってしまった河川敷の写真を撮りました。
激流で石が動き川虫が出て来たのかカラスが集まって興奮しています。

それにしても今度の台風では多くの犠牲者が出ました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
そして家が洪水で流されたり泥水に浸かったりした被害者に心を寄せ一日も早く立ち直れるようにお祈り申し上げます。

何も無くなってしまった多摩川の河川敷の写真をお送りいたします。





「豊かな朝鮮文化を少しだけ知ろう!」

2019年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
我々日本人が学校で習う朝鮮の歴史はおもに3件の出来事です。大和朝廷と高句麗、新羅、百済との交流と、豊臣秀吉の李朝時代の出兵と、1912年の朝鮮併合のことです。すべて政治的な事件です。
その一方、朝鮮半島に花咲いた文化についてはほとんど教えません。
ですから現在の日本人は朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことは一切教えません。
日本に萬葉集や源氏物語や古事記や日本書紀があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
これを知らなければ韓国や北朝鮮との友好関係は難しくなります。

さて朝鮮文化を知る第一歩として、韓国の世界遺産を見ることから始めてみましょう。観光案内のように気軽にお読みください。
そしてその次に韓国の古典文学を概観してみましょう。萬葉集や源氏物語に相当するような文学作品をみましょう。
その次に韓国人なら誰でも知っている「春香伝」、「沈清伝」、「薔花紅蓮伝」など文学作品のあらすじを読んでみましょう。

さて韓国の世界遺産です。以下にその一覧を示します。
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年に認定)
海印寺大蔵経板殿- (1995年に認定)
宗廟 - (1995年に認定)
昌徳宮 - (1997年に認定)
華城 - (1997年に認定)
慶州歴史地域 - (2000年に認定)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年に認定)
朝鮮王陵 - (2009年に認定) 
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年に認定)
南漢山城 - (2014年に認定)
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年に認定)

以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある李朝の朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。
2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)
そして同じく世界文化遺産の首都のソウルにある昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。
鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用さました。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。
その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。
1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)

それでは李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真と昌徳宮などの写真を示します。

1番目の写真は李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真です。

2番目の写真は昌徳宮の全体の写真です。

3番目の写真は昌徳宮の大門の前の風景です。

4番目の写真は韓国の世界遺産の南漢山城の写真です。

5番目の写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。

さて次に朝鮮の古典について概観してみましょう。
その為にいろいろ調べましたら次の研究論文が明快な概説だと感心しましたので、その概要を示します。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子著/
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から古代前後期,中世前後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。

碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。

それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。
私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
末尾に「春香伝」の粗筋を示しましたのでお楽しみ下さい。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===春香伝とは============================
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子・李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘・成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の任期が終わり、夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。新たに赴任した卞府使は、春香の美貌を聞きつけて我が物としようとするが、春香は夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は春香を拷問し投獄します。都に帰った夢龍は科挙に合格して官吏となり、南原に潜入します。夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し、春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。
韓国人なら誰でも知っている話です。
「沈清伝」「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D

ラグビー、セラピードッグ、クルド人難民を助けるNPO

2019年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様こんにちは。今日は新聞を見ながら想ったニュースを3件書いてみます。
昨夜の日本とスコットランドとのラグビー戦と、大木トオルのセラピードッグのこと、トルコとクルド人の戦争の難民のことです。3つの話題は関係ありませんが、この地球という青い美しい惑星の上で起きた出来事です。

(1)日本とスコットランドとのラグビー戦

昨夜のテレビをハラハラしながら見ました。日本が敗けると思いながら手に汗がにじみました。
ところが日本が28-21で勝ってしまったのです。
終盤のスコットランドの追い上げは凄いものでした。振り切って1次リーグ4連勝を飾り、A組首位で初の決勝トーナメント進出を決めたのです。快挙です。
スコットランドに先制トライを許しながら、松島のトライなどですぐに追いつくと、後半の序盤までに4連続トライで大きくリードします。その後はスコットランドの意地の猛攻で2トライを奪われましたが、残り26分を耐え抜いてやっと勝ったのです。最後の数分がとても長く感じる相手の猛攻でした。日本は20日の準々決勝で南アフリカと対戦することになります。

1番目の写真は日本対スコットランド 前半、トライを決めるWTB福岡です。(撮影・鈴木みどり)写真の出典は、https://www.nikkansports.com/sports/rugby/photonews/photonews_nsInc_201910110001098-12.html です。

2番目の写真は日本対スコットランド 後半、コンバージョンキックを決めるSO田村優です。
写真の出典は1番目の写真と同じです。

(2)ブルースで有名な大木トオルと感動的なセラピードッグの物語
大木トオルは1947年に生まれた日本の有名なブルースの歌い手です。
読売新聞の「時代の証言」に今朝で30回の連載を終了しました。
連載の前半はブルースの歌い手としてアメリカで活躍した話で後半はセラピードッグを沢山訓練して老人達を慰めた話でした。
大木トオルは1976年に渡米し、自らのトオル・オオキ・ブルースバンドを率い全米ツアーを成功させたのです。その後3度、ミシシッピ・デルタ・ブルース・フェスティバルに参加し功績が認められ永住権を取得します。
大木トオルはブルースマンとしての活躍とともに36年間にわたり、国際セラピードッグ協会の代表でした。捨て犬と被災犬の救出とセラピードッグ育成を行い広くセラピー活動を続けてきました。
幼少時に一家離散で愛犬と別れざるを得なくなった悲しい経験から動物愛護センターで殺処分の直前に多くの捨て犬を救出しました。
特に捨て犬のチロリと運命的な出逢いをします。大木トオルは全身全霊を賭けてチロリをセラピードッグに育てます。
そして捨て犬・捨て猫の殺処分ゼロを目指す活動に取り組んでいるのです。
活動の詳細は彼の著書「名犬チロリ」(岩崎書店)に詳しく述べられています。
虐げられた黒人たちの魂の叫びであるブルース。殺される直前に救出された捨て犬たち。
大木トオルは「ブルース」と「捨て犬」によって彼自身の魂の救済に成功するのです。

3番目の写真は築地川銀座公園にある元捨て犬のセラピードッグ、名犬チロリと子犬たちが銅像です。
名犬チロリのことは最近の教科書にも載っているそうです。

(3)トルコのクルド人攻撃による難民の救済をする日本のNPO
10月9日、トルコ軍がシリア領内のクルド人支配地域に侵攻し攻撃を始めました。。
トルコ当局は「平和の泉作戦」と名付けて軍事作戦を開始し、ツイッターで10日に181箇所に空爆、地上戦などで攻撃したと発表しています。トルコ軍はシリアのテルアビヤドとラスアルアイン近郊の4カ所から越境し、コバニやカミシリなども攻撃をしました。
攻撃開始から3日間ですでに10万人が避難民として家を追われています。
220万人が住む地域に攻撃の可能性があるのです。今後30万人が避難民となる可能性があるそうです。
1979年に日本で生まれた特定非営利活動法人 難民を助ける会のAAR Japanはこの攻撃で起きたシリアの難民も救済しています。

4番目の写真は越境したトルコ軍のクルド支配地の空爆の様子です。

5番目の写真はシリア難民キャンプの様子です。
トルコの攻撃に対してクルド側は激しく応戦し続けているので難民の数がますます増える情勢です。
実に困った事態です。

今日はこの地球という青い美しい惑星の上で起きた3つの話題を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は 成城教会の山本量太郎司祭のミサに参加しました」

2019年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はカトリック小金井教会ではなく、カトリック成城教会のミサに行きました。
成城教会の山本量太郎主任司祭が司式なさるミサに参加するためです。
山本神父さまは個人的にご縁の深い方です。尊敬している素晴らしい神父さまです。
神父さまは私共がカトリック立川教会で1971年に塚本金明神父様に洗礼を受けた時、代父をして下さった山本大二郎先生のご子息だったのです。当時はまだ神学生でした。
その後、関口教会で山本神父さまの叙階式に参列したことを鮮明に憶えています。
叙階式の後しばらくご無沙汰していましところ、2000年に突然私どもの小金井教会の主任司祭として来られたのです。
その時は本当に嬉しく、そして不思議なご縁に感動しました。
2000年から2010年迄の10年間、私共の小金井教会の主任司祭をして大変お世話になったのです。

山本神父さまはイエスさまが傍にいるような感じの説教をなさいます。起承転結の明快な感動深い説教です。そして私どもが神に愛されている、イエスさまに愛されていることを感じさせる力強い説教なのです。
2010年に小金井教会を去られたときは非常に淋しく感じたものです。
小金井教会の後、本部の関口教会の主任司祭を6年なさってから2016年の6月から成城教会に着任されました。今日お会いしたらとてもお元気そうなので嬉しく感じました。

今日は成城教会の山本神父が司式するミサに出席して、恩人の塚本金明神父様や、代父をして下さった山本大二郎先生の為にも神に祈って来ました。
人生における人間の絆の有難さを想います。
そして神様の愛を今日も強く感じました。
写真は今日のカトリック成城教会のミサの風景です。









紅葉の風景を見ながらクルド民族の悲劇を想う

2019年10月12日 | 日記
台風が来て次第に秋が深まってきました。
山に分け入り紅葉を楽しむ季節です。しかし年老いると遠出は億劫になります。
そこで紅葉の風景をインターネットで楽しんでいます。インターネットには世界中の美しい紅葉の風景写真が沢山掲載してあるのです。
沢山の中から今日は3枚の風景写真を選びました。
尾瀬の草紅葉と、岡山県の恩原ダム湖と、志賀草津道路の渋峠の紅葉風景です。
じっと眺めていると自分の体も紅葉に染まるような気分になります。
写真をお送りいたします。

1番目の写真は日本最大の山岳湿地を染め上げる尾瀬の草紅葉の風景です。、
出典は、https://www.onestory-media.jp/post/?id=2281 です。
1949年に発表された唱歌「夏の思い出」によって一躍有名となった『尾瀬』は秋の「草紅葉」も他の季節とは異なった風情があります。

2番目の写真はのどかな高原に紅葉に染まる恩原ダム湖です。
出典は、https://www.onestory-media.jp/post/?id=2281 です。
岡山県と鳥取県の境、標高約700mの『恩原(おんばら)高原』に位置する『恩原ダム』がせき止められてできた『恩原湖』です。鏡面のような湖に映し出される紅葉もさることながら、足元にはカラマツの落ち葉が敷き詰められ、まるで黄金色の絨毯のようです。

3番目の写真は紅葉の平原を縫うように流れる沢や池塘が煌めく渋峠からの風景です。、
出典は、https://www.onestory-media.jp/post/?id=2281 です。
『草津白根山』と『横手山』を通過する国道292号(志賀草津道路)に位置する『渋峠』は、標高2,172mと、国道の標高では日本一の高さを誇ります。

この様な平和な風景の一方で世界のあちこちでは戦争の悲劇が起きているのです。
特に最近のマスコミはトルコとクルド族の間で激しい地上戦や空爆来が起きているのです。
この戦争の原因はトルコとクルド人の歴史的な反目と闘争にあるのです。
しかし現在のトルコとクルド人の戦争は次のいきさつで起きています。

(1)クルドとアメリカが共同でシリア北部のイスラム国を壊滅してシリア北部をクルド武装勢力が占領し治めていた。

(2)一方トルコ国内ではクルド人がトルコからの分離、独立の武装闘争をしていました。
この武装闘争を支援ていたのはシリア北部のクルド武装勢力です。
当然、トルコはこのシリア北部のクルド武装勢力を攻撃したかったのです。

(3)そんな折にアメリカのトランプ大統領は同盟軍のシリア北部のクルド武装勢力を見捨てたのです。アメリカ軍を撤収させてしまったのです。トルコに攻撃をしても良いと誤解させる軽率な決定でした

(4)トルコ軍は長年の宿敵のシリア北部のクルド武装勢力を空爆し地上部隊がシリア北部のクルド武装勢力の支配下にある町や村を占領しました。
クルド人は激しく応戦したのでシリア北部は地獄になりました。戦争の悲劇です。

さてクルド人口が最も多いのはトルコで約1,144万5千~1,500万人が居住しています。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送り、おもな居住地はトルコ南東部です。
クルド人はトルコからの分離、独立運動をしていました。
一方、トルコは独立運動を徹底的に鎮圧したいのです。

今度の戦争の責任はトランプ大統領の軽率な決定にもあるのです。彼はお金の節約のためには同盟軍を見捨てるのです。アメリカの多くの人はトランプ大統領を非難しています。困った人です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===クルド人とは?==================
https://ja.wikipedia.org/wiki/クルド人
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の言語がありますが国家を持たない世界最大の民族集団です。人口は2,500万~3,000万人といわれています。
中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多く宗教はその大半がイスラム教に属します。
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。おもな居住地はトルコ南東部および東部であった。

日本人の記憶に残る宮沢賢治の銀河鉄道の夜

2019年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治は悲しい、美しい物語を沢山書きました。
その物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。
彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。時代が変わっても宮沢賢治の作品は日本人の記憶に残り愛されているのです。
この私のブログでも賢治の鳴らしている鐘の音を聞こうと何度も記事を書いては掲載してきました。
過去に掲載し記事の一覧を、末尾に示します。それぞれの記事の後ろに掲載年月日が示してあります。
ブログは、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama です。
そして特に「銀河鉄道の夜」を詳しく書きましたので、下に2編の記事を再録致しました。どうぞ貴方自身の「銀河鉄道の夜」を探す旅にお出かけ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===2013年月25日掲載記事:あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会、===

宮沢賢治の作品には彼の心象風景や謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから読む人はその心象風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。
そうすると宮沢賢治の作品は彼から少し離れて、読んでいる人特有のものになるのです。大げさに言えば宮沢賢治の作品は読者の数だけ違ったものになるのです。
あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」とはそういう意味を込めているのです。ですから、私の「銀河鉄道の夜」も、読む自分の年齢にしたがって違ってきます。賢治の作品を何度も読み返している人が沢山いるのはそのせいもあるのでしょう。
そこで筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」をもう一度読んでみました。
第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。
その中で何故か「銀河鉄道の夜」には、私にとって理解できない謎が沢山あって、気になって仕方が無い作品なのです。
しかしいずれは私もこの銀河鉄道に乗って旅立つのです。自分がこの世と別れて「銀河鉄道」に乗ったと考えて、この作品を読んでみると書いてあることがよく分かるのです。
この作品のあらすじです。
夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友のカンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れそうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、水死したのです。一方ザネリは助かるのです。
カンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処でカンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」という名前は書いてありませんが私はそのように想像しています。
最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。涙が出て来るのです。
もう一度読んでみてこの作品のキーは死んでしまった愛する人と再会するという奇蹟です。
再会出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。
カンパネルラは川に落ちたザネリを救って、自分が死んでしまうのです。
友のために死んだ者は天国へ行くのです。
行方不明になったカンパネルラの捜索を見ながら、彼の父が自分の腕時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。ですからこそジョバンニは死せるカンパネルラともう一度会わねばなりません。
そして銀河鉄道の中でカンパネルラを見つけるのです。(続く)

この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。
38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。(終り)

今日の挿し絵代わりの写真はハップル宇宙望遠鏡から撮った星々の写真です。
写真の出典は、https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/327803/040900003/ です。





==下は宮沢賢治についての私のブログの掲載記事です==
(後藤和弘のブログ、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)

(1)宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:2013/10/27
(2)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など 2013/10/26
(3)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会 2013/10/25
(4)宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道、2013/10/24
(5)「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 2013/10/24
(6)金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 
(7)みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥 、13/04/04
(8)宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01
(9)日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと、    2012/05/09
(10)宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩、       12/05/09
(11)宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明、12/05/08
(12)宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  2012/05/08 
(13)宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08
(14)宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序、12/05/08
(15)37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山、12/05/04
(16)宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治、12/05/03
(17)宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う、 12/05/02
(18)宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版、2012/04/20
(19)宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から、12/04/20
(20)宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、樺太、大島への旅、12/04/17
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品、12/04/16
(22)宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院、  12/04/15
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃、2012/04/05
(22)盛岡高等農林学校と宮沢賢治、12/04/04 
(23)宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃、12/04/03
(24)突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします、11/11/01
(25) 時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されている 2015年12月16日

「中国の文化遺産、本当の桃源郷のような地、西逓と宏村」

2019年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
中国の南部にある黄山の麓に広がる安徽省の農村地帯には山に囲まれた古い村落が散在し、昔から桃源郷と言わています。
中でも西逓村と宏村の2つの村は世界遺産として登録されているのです。そこには明時代や清時代の暮らしが現在もそのまま伝えられているのです。西逓村と宏村は20Km離れていますが同じ地域です。
今日は中国の世界遺産の「安徽南部の古村落 - 西逓・宏村」の風景写真をご紹介したいと思います。
この2つの村についてはいろいろ調べましたが、長谷川 大さんの写真と紀行文がしみじみとしていてとても感動的だったのでご紹介いたします。
長谷川 大さんの『世界遺産ガイド』は、https://allabout.co.jp/gm/gc/325134/ に掲載されています。

・・・この西逓村と宏村については中国人にさえほとんど知られていない辺境の村なのだそうです。それが世界文化遺産に登録されたのです。
村には、かつての繁栄を物語る白壁の独特な住居が立ち並び、周囲の美しい山々の景色とあいまって、まるで桃源郷のようなのです。・・・

2005年、中国中央テレビが2万以上もある中国の村落(鎮)の中から、特に魅力的な「十大名鎮」を発表しました。ここでも見事選ばれたのが、安徽省の西逓と宏村だったのです。
4~5世紀の詩人・陶淵明は、『桃花源記』の中で、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を描いています。
中国人は外界から隔絶したこの2つの美しい村を「桃源郷」と呼び理想郷として憧れて来たのです。

前置きはこのくらいにして、それでは早速、写真で西逓村と宏村をご紹介致します。

1番目の写真は西逓の北20kmにある宏村の、明・清時代の家並みと南湖です。白と青の淡い色彩がとても美しいです。

2番目の写真は村の宏村南湖の風景です。桃源郷と間違えられるだけある美しい景色です。

3番目の写真は宏村の街角風景です。西逓と宏村は家並み全体が世界遺産に登録されており、この中で人々は日々の生活を送っています。外には田園と山岳が広がっている農村七尾です。

4番目の写真は外の畑から農産物を昔ながらの天秤棒で運んでいる光景です。

5番目の写真は西逓の店です。

長谷川 大さんの紀行文によると、西逓・宏村の両村を歩いていて感じるのはなんといっても素朴さです。大都会とは空気が圧倒的に違うそうです。
それは世界のどこでも同じようにある田舎の村のやさしさです。
たとえば何かを忘れても盗まれることはないだろうな、困ってその辺に立っていたらきっと誰か助けてくれるだろうな、そんな安心感があるのです。
街角で子供たちが駆けている。おばあさんが水路で野菜を洗っている。お母さんが籠にお茶を入れて道端で売っている。井戸端会議に花が咲いている。軒下で麻雀をしている。こんな何気ない日常の光景がたまらなく美しいのです。
陶淵明が描いた桃源郷は天国でも黄金の国でもなく、人々が日々天地と会話しながら農地を耕す、ごくごく普通の農村だったのです。

西逓村と宏村はいつか見たことのある懐かしい風景ではないでしょうか?何故か旧懐の情が胸を温かくします。
ヨーロッパの田舎へ行って古い中世の村を歩くと同じような風景があります。旧懐の情が強く湧いてきます。しみじみとした人の一生を感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===2村の歴史を詳しく知りたい方々の為に==============
西逓;;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%80%93%E6%9D%91
西逓村は中華人民共和国安徽省黄山市黟県西逓鎮にある村である。
11世紀、宋朝の元祐年間にある河川の西岸にできた。そのため、元の名を「西川」といった。物資輸送の駅として使用されたため西逓(「逓」は宿場)と呼ばれるようになり、また「桃花源裡人家」とも呼ばれた。
この村を支えていたのは胡氏である。10世紀、唐の昭宗の子が変乱から逃れてこの地に隠れ住み、胡姓を称した。胡氏は1465年に商売を始めて成功し、土木、建築、修祠、道路整備、架橋などを行った。17世紀中ごろ、胡氏から官僚が出たため、さらに発展した。18世紀から19世紀にかけて、西遞の繁栄は頂点を極め、600もの豪邸が作られた。
西遞村の中心には東西を貫く幹線道路があり、その両脇に並行する道路との間に沢山の路地がある。敬愛堂、履福堂、刺史牌樓の公共施設も設けられていた。現在でも明清建築の124棟が観光用に保全されており、そのほとんどが一般に公開されている。そのほかの主要建築物に、1578年に作られた青石牌坊、1691年に作られた大夫第(医師屋敷)などがある。
2000年11月30日、オーストラリア ケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、宏村と共に世界遺産に登録された。

宏村;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E6%9D%91
この村は中国安徽省黄山市黟県宏村鎮にある村。2000年に世界遺産に登録され、2001年に中国政府国務院により中華人民共和国全国重点文物保護単位に、2003年に中国歴史文化名村に指定されている。明清代の歴史建築が数多く残る村落で、家々をめぐる水路が完全な姿で残っており、「牛」の形に例えられる村の配置は徽州の村落の典型的な代表例である。
安徽省南部黄山市にある黄山の南西麓に位置する。黟県の県城からは東北へ11kmの位置にあり、現在は宏村鎮がこの集落に置かれている。集落は黃山の余脈である雷崗山を背後にし、西に邕溪河と羊棧河に面している。全村面積は約28万平方m。
11世紀、北宋時代の政和3年(1113年)に汪氏一族により、集落が結成された。汪氏一族は、村が作られる前から宏村に居住し、今では汪氏一族の住まいとなっている。明朝の万暦頃に、村内にある泉を掘り、そこに川の水を引き入れ、南湖を造った。
清朝中期になると、当時の村名「作弘」が6代皇帝乾隆帝の名に当たるとして、「宏村」に改名された。村内には、清の建物がおよそ140現存する。これらの建物は全て、徽州を基盤とする設計がされている。
村内には水を供給する整備がされている。村の全景がはっきりと牛に例えられ、村内向かって西の丘が首、出入り口が角、村の前後の橋が足となっている。
2000年11月30日、オーストラリアケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、西逓村と共に世界遺産に登録されている。

秩父の紅葉と和同開珎物語

2019年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
先日はるかな山国の秩父を訪ねて次の記事を掲載しました。
「遥かな山国、秩父の三十四ヶ所観音霊場を訪ねて」(2019年10月06日掲載)
この秩父は旧石器時代から人が住み大和朝廷の頃には良質の自然銅を産出しました。
この銅の献上を喜んだ朝廷は「和銅」という元号を作り、さらに「和同開珎」という銅貨を作ったのです。「和同開珎」は日本で初めて広く流通した貨幣なのです。
それはさておき秩父は紅葉の綺麗な山里としても有名です。

そこで今日は秩父の紅葉をまずご紹介したいと思います。その後で和同開珎にまつわる面白い話をお送りします。
それでは秩父の紅葉の写真をお楽しみ下さい。
写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/kouyou-chichibu/ です。









さて秩父は古代、良質の馬や銅の産地でした。
豪族の知々夫氏が大和朝廷から国造に任命され秩父を治めていました。
和同開珎の話を始める前に秩父の歴史を簡略に書いておきます。
(1)708年(和銅元年)、秩父から献上された銅を使って和同開珎が鋳造されました。
(2)713年(和銅六年)頃 「知知夫」が「秩父」と大和朝廷によって改名されました。
(3)1884年(明治17年)に秩父事件が起きます。日本史上最大規模の民衆蜂起とされる事件です。
経済危機に苦しむ秩父地方の農民たちが自由民権運動の影響を受けて困民党を結成し、井上伝蔵や田代栄助らの指揮下で10月31日に武装蜂起を決行した事件です。
政府は警察や憲兵隊それに陸軍の兵を動員し、11月9日までに徹底的な武力鎮圧を行いました。事件後の裁判の結果、田代ら死刑7名を含む4000名余が処罰されたいました明治時代の内乱です。

さて和同開珎の話に戻します。
和同開珎は、708年8月29日(和銅元年8月10日)に日本で鋳造、発行されました。皇朝十二銭の1番目にあたります。
鋳造に使われた自然銅を掘り出した場所は秩父市黒谷で和銅採掘露天掘跡を中心として埼玉県指定旧跡になっています。(和同遺跡の露天掘り跡、https://ja.wikipedia.org/wiki/和銅遺跡 )

元明天皇の時代に武蔵国秩父から自然銅(ニギアカガネ)が発見され、708年(慶雲5年)正月11日に朝廷に献上されたのです。
これを大いに喜んだ元明天皇は同日に元号を「和銅」に改元し、その後、日本最初の流通通貨となる和同開珎を発行しました。
その和銅が採掘されたとみられる露天掘跡は、今なお残されており、1922年(大正11年)には埼玉県指定史跡、1961年(昭和36年)に埼玉県指定旧跡となっております。
2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」にも選ばれました。
和銅採掘露天掘跡の近くには、和同開珎を模した巨大モニュメントも建てられています。
和同開珎は直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式です。
表面には、時計回りに和同開珎と表記されています。裏は無紋です。
形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じです。
律令政府が定めた通貨単位である1文として通用しました。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとも言われています。

我々高齢者は和同開珎を学校では和同開寳と習いましたが同じことです。珎の字は寳のことなのです。
なお和同開珎の以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られています。
1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆ると大きく報道されました。
しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられているのです。
現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であると考えられています。

今日は秩父の紅葉をまずご紹介しその後で和同開珎にまつわる面白い話をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

コスモスの写真と与謝野晶子のコスモスの詩

2019年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の夕方はコスモスの花の写真を撮りに行きました。いつも行く三鷹花と緑の広場です。
例により家内があちこち歩き回って撮った写真です。お楽しみ下さい。










コスモスの花を眺めながら与謝野晶子がこの花の詩を作ったことをぼんやり思い出しました。
帰宅後いろいろ調べましたらやはり2篇ありました。

『コスモス』 与謝野晶子

一本のコスモスが笑つてゐる。
その上に どっしりと
太陽が腰を掛けてゐる。
そして、きやしやなコスモスの花が
なぜか、 少しも撓(たわ)まない、
その太陽の重味に。

『無題』 与謝野晶子

うす紫と、淡紅色(ときいろ)と、
白と、萠黄と、海老色と、
夢の境で見るやうな
はかない色がゆらゆらと
わたしの前で入りまじる。
女だてらに酔ひどれて、
月の明りにしどけなく
乱れて踊る一むれか。
わたしの窓の硝子ごし
風が吹く、吹く、コスモスを。

昨日はコスモスの花を眺めて暮れていきました。夕方に行きましたのでほの暗くなります。
秋の日の暮れるのは早いものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===付録として詩をもう一つお送りします========
この与謝野晶子の詩は明治維新以来の富国強兵一色の日本の社会に深い影響を与えましたので取り上げました。
文学作品としての評価より社会への問題提起として高く評価することも出来ます。

「君死にたもうことなかれ」
旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

秩父と巾着田の彼岸花の写真

2019年10月07日 | 写真
秩父の三十四ヶ所観音霊場の第7番目の法長寺の裏の墓地の斜面に一面彼岸花が咲いていました。

1番目の写真は法長寺の裏の墓地の斜面に咲いていた彼岸花です。

2番目の写真も法長寺の裏の斜面に咲いていた彼岸花です。
帰り道に有名な日高市の巾着田の彼岸花の写真を撮ろうと行ったところ車と人が一杯で近づくことが出来ません。お借りした写真をお送りします。

3番目の写真の出典は、https://tabichannel.com/article/257/kinchakuda です。
埼玉県の日高市にある巾着田の近所には日本の田舎の原風景が広がるとてものどかな場所です。 行ったのが土曜日で人が多すぎました。行かれる方は平日にお出掛け下さい。

遥かな山国、秩父の三十四ヶ所観音霊場を訪ねて

2019年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教に関心のある方は四国88カ所の四国霊場の遍路にご興味があると存知ます。
信仰上は空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)に四国霊場を開いたと信じられています。しかしそれは史実ではありません。
史実であろうが無かろうが関係無く日本人なら四国霊場を空海と結びつけて考えています。
遍路を巡り歩く時は同行二人と言って空海、弘法大師さまが一緒に歩いてくれるのです。
私は弘法大師さまを尊敬しています。大好きです。何時かは同行二人で四国88カ所を歩いてみたいと思っていました。
しかし四国はあまりにも遠方です。そこで関東地方の遍路と霊場を調べてみました。
すると数多くある霊場のうち坂東33カ所霊場と秩父34カ所霊場が群を抜いて有名で遍路をする人が多いと分かりました。
そこで先週の土曜日に遥かな山国、秩父の三十四ヶ所観音霊場を訪ねてみました。

今日はその訪問記をお送りします。
とにかく秩父は遠かったです。青梅、飯能を経て正丸峠を越え3時間かかりました。
写真に従ってご説明します。

1番目の写真は山々の囲まれた狭い盆地にある秩父市です。この周囲の山里に三十四ヶ所観音霊場のお寺が散在しているのです。この盆地が東京の荒川と隅田川の源流です。

2番目の写真は武甲山です。秩父盆地の南側にあり標高は1,304メートルです。日本二百名山の一つです。 秩父セメントの原料の石灰岩を産出しています。

3番目の写真は三十四ヶ所観音霊場の第7番目の法長寺の山門です。

4番目の写真は法長寺の本堂です。御朱印帳に印と墨書きをしてくれる納経所があります。

5番目の写真は三十四ヶ所観音霊場の第6番目の卜雲寺(ぼくうんじ)の石段です。

6番目の写真は卜雲寺の本堂です。納経所があります。

7番目の写真は卜雲寺の本堂の前のお地蔵さんです。

さて観音霊場に行ったら何をするのでしょうか?
慈悲深い観音さまへ助けて下さいとお祈りします。悩み事を解消してして下さいと祈ります。家族の健康を祈ります。慈悲深い観音さまは33も姿を変えて全ての祈りをかなえてくれるのです。
お祈りが終わったら納経所へ行って自分が書き写したお経を納めます。
お経は何でも良いのですが普通は次の般若心経を書きます。
佛説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。・・・・・

ところが現在はお経を墨書きする人はいなくて単に御朱印帳に印を押して墨書きをして貰いお金を払って次のお寺へと急ぎます。
例が適切ではありなせんがスタンプ・ラリーのようです。

全国の観音菩薩霊場は、https://nippon-reijo.jimdo.com/掲載霊場の一覧/観音霊場/ に数百出ています。
関東地方では坂東三十三観音霊場 、円覚寺百観音霊場、葛飾坂東三十四観音霊場、武蔵野三十三観音霊場 、多摩川三十四観音霊場などなど数十の霊場があります。
三十三ヶ所の観音霊場巡礼は8世紀頃始まったといわれていますが、江戸時代になって、庶民の間で観音霊場巡礼が広まり坂東三十三ヶ所や西国三十三ヶ所巡礼が流行しその結果各所に新たな札所が設けられたのです。
秩父三十四ヶ所観音霊場は、文暦元年(1234)の開設といわれています。
江戸時代の観音霊場のお寺の宗派はいろいろです。
それに比較すると四国霊場88カ寺の宗派は真言宗が圧倒的に多いのです。
https://e-systems.co.jp/blog/aquahenro/welcome/kb03/ によると、
真言宗:80ヶ寺
臨済宗: 2ヶ寺
曹洞宗: 1ヶ寺
天台宗: 4ヶ寺
時宗 : 1ヶ寺  合計88のお寺です。

最後に四国のお接待文化について書きます。感動的な地方文化です。
四国には「お接待」という文化が根付いています。お遍路さんにお菓子や飲み物などを無償で施すのです。
お接待にはお遍路さんへの施しだけでなく、弘法大師・空海に対するお供えの意味も含まれています。お遍路さんは「同行二人」という考えのもと、弘法大師とともに四国を巡っているのです。
物を与えるだけがお接待ではありません。お遍路をしていると、「頑張ってください、ご苦労様です」と声をかけられるのです。四国では当たり前で小学生からお年寄りまでお遍路さんに声をかけるそうです。
素晴らしらしい四国地方文化です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)