後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日のカトリック小金井教会のミサ

2019年10月06日 | 日記
今日は世界中のカトリック教会は年間第27の主日のミサを捧げます。そして同じ個所の聖書の朗読をします。
今日の新訳聖書の朗読はルカによる福音書で次ぎのような箇所でした。

ルカによる福音書、17章の5-10
5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。
6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。
7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

今日のカトリック小金井教会のミサの写真を3枚お送りいたします。





日本を愛したニコライを日本人は忘れない

2019年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事は以前に掲載したのでご記憶の方もいらっしゃると存知ます。
また掲載するのは忘れないためです。ご興味のある方はご一読下さい。

幕末にロシア正教を日本へ持ち込んで来たニコライ・カサートキンの一生を簡略にご紹介をしたいと思います。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。
 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。ニコライは書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。明治天皇を敬っていました。日本を強く愛していたのです。そして日本の土になったのです。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

その中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。
その葬儀の折には駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。神田のニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています。 

東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は、1891年、明治24年にニコライによって建てられました。
私は数年前に何度かニコライ堂を訪れ、ある日曜日には9時から12時までの3時間にわたる歌ミサにも出席したことがあります。
私はカトリックですが正教会の礼拝はカトリックに似ていて違和感を感じませんでした。
ニコライの日本への篤い想いを考えながら「イエスの体」のパン片を貰い、神父様の持った十字架へ軽く接吻しました。

ニコライの写真と彼の建てたニコライ堂の写真を掲載いたします。ニコライ堂の写真は数年前に自分が撮ったものです。ニコライ堂は日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。

このニコライ堂は一般開放しています。見学は自由です。
日曜日の9時からの歌ミサの礼拝式にも出席してみて下さい。信者でなくても歓迎してくれます。
一度ご覧になることをお薦めいたします

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









===参考資料;ニコライの経歴==================
Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。
日本へやって来たニコライは、スモレンスク県ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として1836年に生まれました。母は五歳のときに死亡します。
ニコライはベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学しました。
在学中に、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられるようになったのです。
そしてニコライは、函館の在日本ロシア領事館附属礼拝堂が司祭を募集しているのを知りました。すかさず志願して採用されたのです。

神学大学在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなっていたのです。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖されたのです。
そして翌年の1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任しました。

日本では、新島襄らから日本語を教ったそうです。かたわら精力的に正教の布教に努めます。
函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を得ました。その人は後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨です。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行います。
1869年、1879年に二度帰国しましたが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂の正教会本会で没します。
1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると腐らない遺体が現れたそうです。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖します。日本教会が独立して日本正教会となったのはこのときです。ニコライの遺体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっているそうです。
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行されました、(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)。
注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)されます。

タイで仏教の最高指導者を訪問するローマ法王

2019年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
フランシスコ教皇はタイと日本訪問の詳細日程を発表しました。
その詳細は末尾に示しました。
この日程で仏教国の日本に関係のある行事が一つだけあります。
それはフランシスコ教皇がタイで仏教の最高指導者を訪問する事です。
2019年11月21日(木)にバンコクの中心地にあるワット・ラーチャボピット寺院を訪問し仏教の最高指導者に会うのです。仏教とキリスト教の友好の為に訪問するのです。

ワット・ラーチャボピット寺院は、1869年にラーマ5世が建立した寺院です。
3枚の写真はワット・ラーチャボピット寺院です。
写真の出典は、https://東南アジア.net/thailand/bangkok_sightseeing_spots/7518/ です。





ご承知のようにタイでは人口の99%が上座部仏教の信者です。そのタイにも壮大なカトリック教会が幾つもあり18万人ほどのカトリック教徒がいます。
余談ながらこのタイ王国のことを少しだけご紹介します。
現在のタイ王国はチャクリー王朝で仏陀の入滅を紀元とする仏教歴を使っている国なのです。
この国は現在でもチャクリー王朝の王様の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。

タイの上座部仏教はインドで大乗佛教が生まれる以前のものでお釈迦さまの教え通りの佛教なのです。
そのタイの佛教の最高指導者をフランシスコ教皇が訪問するのです。意義深いことです。
フランシスコ教皇が日本で佛教指導者に会わない理由は簡単です。日本には仏教の宗派がいろいろあって誰が最高指導者かが分からないのです。タイの上座部仏教はまとまった一つの組織なのです。最高指導者が分かり易いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料「フランシスコ教皇の詳細日程」================
今年11月に行われる、教皇フランシスコのタイ王国と日本への公式訪問の具体的なスケジュールがバチカン広報局より発表された。
教皇フランシスコは、この二カ国の訪問で、タイ王国を2019年11月20日から23日まで、そして、日本を11月23日から26日まで訪れる。
教皇の日本到着は、11月23日(土)の夕方となる。
4日間にわたる訪日期間を通じて、教皇は東京を滞在の拠点としながら、訪問2日目の11月24日に長崎と広島に赴かれる。
教皇の日本訪問の日程は次の通り、

2019年11月23日(土)バンコクから東京へ
教皇は、タイの首都バンコクを、現地時間の午前9時半、日本に向け出発され、日本時間の同日17時半過ぎ、東京の羽田空港に到着。同空港で教皇は歓迎式に臨まれる。
この後、教皇は都内のローマ教皇庁大使館で、日本のカトリック司教団とお会いになる。

2019年11月24日(日)東京から長崎、広島へ
早朝、教皇は空路で長崎に向かわれる。午前9時過ぎに長崎空港に到着後、「長崎爆心地公園」で核兵器をめぐりメッセージを述べられる。
続いて、西坂公園の日本二十六聖人の記念碑を訪れ、殉教者にオマージュを捧げる。ここで教皇は挨拶を述べ、お告げの祈りを唱えられる。
次いで、教皇はビッグNスタジアム(長崎県営野球場)でミサを司式、説教を行われる。
同日16時半頃、教皇は長崎を後にし、空路で広島へ。広島には18時前の到着を予定している。
教皇は、広島市内の平和記念公園で平和のための集いを行い、この中でメッセージを述べられる。
同日夜、教皇は空路で東京に戻られる。

2019年11月25日(月)東京
この一日、教皇は都内で様々な行事を予定している。
午前中、教皇は東日本大震災被災者との集いをベルサール半蔵門で行い、この席で言葉をおくられる。
教皇は皇居を訪問され、天皇陛下との会見に臨まれる。
続いて、東京カテドラル聖マリア大聖堂での青年との集いを開催、講話を持たれる。
午後、教皇は、東京ドームでミサを司式、この中で説教を行われる。
この後、教皇は官邸を訪問し、首相と会談。同じく官邸で開かれる要人および駐日外交団らとの集いで、教皇は講話を行われる。

2019年11月26 日(火)東京からローマへ
早朝、教皇は上智大学のクルトゥルハイム礼拝堂で、イエズス会員らと私的にミサを捧げられる。次いで、イエズス会SJハウスで、イエズス会員と朝食、病気や高齢の司祭を見舞われる。この後、教皇は上智大学を訪問される。
教皇は、最後の公式行事である、羽田空港での送別式を経て、同日午前11半過ぎ、日本を後にし、ローマへの帰路につかれる。
教皇は、ローマに現地時間同日17時過ぎに到着の予定。
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一方、日本訪問に先立ち、2019年11月20日から23日まで行われるタイ訪問では、教皇は首都バンコクにおいて数多くの行事を持たれる。
教皇のタイ訪問の日程は以下の通り。

2019年11月19日(火)ローマからバンコクへ
イタリア時間19時、教皇はタイの首都バンコクに向けて、ローマから特別機で出発される。

2019年11月20日(水)ローマからバンコクへ
現地時間正午過ぎ、教皇はバンコクの空軍基地に到着。同基地で歓迎式に臨まれる。

2019年11月21日(木)バンコク
バンコクのタイ政府首相府で、歓迎式典。首相府内で、教皇は首相との会見、同国各界代表・駐在外交団との集いを行われる。
ワット・ラーチャボピット寺に、仏教の最高指導者を訪問。
セントルイス病院で、医療関係者との出会いや、患者や障害者へのお見舞いを行われる。
アンポーン宮殿に、ワチラロンコン国王(ラーマ10世)を訪問。
そして、教皇は、国立競技場でミサを司式される

2019年11月22日(金)バンコク
教皇は、バンコク市内の小教区、セント・ピーター教会で、タイの司祭、修道者、神学生、カテキスタとの集いを行われる。
福者ニコラス・ブンカード・キトバムラングの巡礼聖堂で、教皇は、タイの司教団およびアジア司教協議会連盟関係司教らとの出会いを行われるほか、隣接の会場でイエズス会の会員らと私的な集いを持たれる。
続いて、教皇はチュラロンコン大学で、キリスト教の諸教会や諸宗教の指導者らとの集いに参加される。
この後、教皇は、バンコクのカテドラル、アサンプション大聖堂で、若者たちとミサを捧げられる。

2019年11月23日(土)バンコクから東京へ
教皇はバンコクの空軍基地で送別式に臨み、日本訪問のため、午前9時半、東京に向け出発される。

孫氏の兵法に従って韓国の憲法の問題点を理解すると

2019年10月04日 | 日記
皆様こんにちは。今日は、少しだけ今後の韓国との外交交渉について書きたいと思います。
さて、ある国と戦争をする場合に孫武は2500年も前に教訓を残しています。
この有名な孫子の兵法は戦争の場合だけでなく現在の外交交渉でもよく使われています。それだけではありません。経営者やビジネスマンに愛用されているのです。その兵法の一部だけを示します。
彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。
彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。
実に明快ですね。日本が真珠湾攻撃をし、その後アメリカに敗れたのは、「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」の通りだったのです。

さて将来の韓国との外交交渉で、韓国を説得するためには日本人は韓国の実態を徹底的に知ることが必要です。
それこそが「 彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」なのです。

日本が避けて通れない問題に韓国併合があります。それこそが日韓の交渉を難しくする反日政策や反日教育の原因になっているのです。
ご承知のこととは存じますが、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実です。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いたのです。これはまぎれも無い明白な歴史的な事実なのです。このことは皆様よくご存じです。

しかし多くの日本人はこの韓国併合を土台にして現在の韓国の憲法が出来上がっていることをご存知ありません。ここに重大な知識不足があると私は考えております。

韓国の憲法の前文の抜粋を見てみましょう。
「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定された」

この前文の冒頭にある「大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」という部分を日本人の多くは知りません。当然、無視しています。
三・一運動(さんいちうんどう)とは、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの独立運動です。ですから現在、韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。

以上のように韓国の憲法に書いてあることはまぎれもない事実です。
このように書くと1919年に上海で成立した「大韓民国臨時政府」は架空のもので、その首班の李承晩はハワイに居たという感情的な反対をする人がいます。感情的になればなるほど外交交渉において日本の利益は守れないのです。

たとえ脆弱な臨時政府だったとしても韓国の憲法に「現在の韓国政府は1919年の臨時政府から始まる」と明記してあるのは事実なのです。
日韓関係が良くない原因はいろいろありますが、その根本はこの憲法の前文にあると私は考えています。

さて、この上海の臨時政府のあった建物を2015年の9月に韓国の朴槿恵大統領が訪問しています。
朴槿恵大統領は上海の「大韓民国臨時政府」の旧庁舎の改装オープン式典に出席したのです。
この小さな出来事を知らないと日韓の間の外交交渉で日本が利益を増大することは困難になる可能性があるのです。

1919年に上海に亡命した人々が大韓民国臨時政府を組織したのですが、その代表に選ばれたのが李承晩でした。
しかし世界情勢は韓国にとって不利でした。第一次世界大戦で戦勝国になった日本を尊重し、欧米各国はこの上海の臨時政府を承認しませんでした。

時が流れ、第二次大戦が終了すると韓国は独立します。そしてこの臨時政府代表だった李承晩が初代大統領になったのです。当然ながら李承晩大統領は反日的な政策を次々と実行します。
そして出来上がった韓国の憲法の前文には独立運動の1919年の三・一運動が明記されたのです。
この憲法に忠実に従って槿恵大統領は上海まで行ったのです。
韓国の独立運動の拠点となった「大韓民国臨時政府」が使っていた旧庁舎を改装しオープン式典が行われたのです。

一方、伊藤博文を暗殺したトマス安重根の記念室がハルピン駅にあります。
余談ながら、これらの記念室や臨時政府庁舎の整備は本来韓国の費用でするべきであるのは当然ですが、全て中国政府が出したという事実も忘れないようにしたほうが良いと思います。

皆様は上海に1919年、韓国の臨時政府が出来、李承晩がその代表だったことはご存知でしたでしょうか?私は知りませんでした。
今更、日本人が朝鮮の併合を卑屈に謝る必要はありません。
しかし上海に1919年から韓国の臨時政府が存在し、現在の韓国政府はその臨時政府の延長にあると憲法の前文に明記してあることだけは知っておく方が良いのではないでしょうか?これこそが孫子の兵法の「敵を知れば百戦あやふからず」です。

ついでに韓国における反日教育について、ある韓国人が告白したネット記事を抜粋してご紹介します。
( 以下は、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212123017 からの抜粋です。)

「私は日本に住んでいる20代の韓国の男です。 恥ずかしい話なんですが韓国の小学生時代、学校の先生に反日教育を受けてました。
当時の私の年齢だとごく一部のことじゃなく全学生がそういう教育を受けてると言っても間違いない位です。
"日本は悪い国""日本製の品物は買っちゃダメ""日常生活で気づかなく使われてる日本語使用禁止""日本語書き込むことなど一切禁止"などです。
この反日教育のお陰で。韓国人の9割以上はこういう傾向がありました。 それが当たり前のことだと思いますし、そういう教育で洗脳されてた私の場合は、たまにどこかに書いてある日本語の文字が目に当たるとすごく嫌な気持ちになってなんか悪いことでもしたようないやらしい気持ちになってたりしました。今はそんなことないですが当時には日本語の文字ってすごく不良な形って感じでした。(今思ったら笑っちゃいます)」以下省略。

さてここで私の書きたいことを書きます。
まず日韓両国民は現在の感情的な日韓関係と距離を置いて少し客観的に考えることが重要なのです。
そして韓国人が日本のことを悪く思い、憎むのは韓国人自身の人格を傷つけ、自分が不幸になっていることに気づくべきです。それは韓国人の問題で外国の人にはどうすることも出来ないのです。
同じように日本人が韓国人をさげすみ悪く言うのは、自分自身の人格を傷つけ、自分が不幸になっていることに気づくべきです。それは日本人自身の問題であり韓国人とは関係の無いことです。

日韓両国民はかなりの距離を置いてお互いに他人同士として尊敬しあい、建設的な態度をとるべきだと私は思います。
それが迂遠ではありますが、日韓友好への道になると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は上高地の紅葉の写真です。
写真の出典、https://yamahack.com/2178 です。





にわかラグビーファンとテレビのスポーツ番組

2019年10月03日 | スポーツ
テレビでラグビーを観た9月28日のことです。日本ーアイルランド戦を見てにわかにラグビーファンになった人が多いようです。私もその一人です。
何せ勝てると思っていなかった日本が見事なプレーを見せて堂々と勝ったのです。
安っぽい言葉ですが本当に感動しました。写真をもう一度見ましょう。

1番目の写真は日本ーアイルランド戦後半に福岡(手前)が逆転のトライを決めた場面です。

2番目の写真は9月20日の日本ーロシア戦の後半に突進する山中(右から2人目)の快走の場面です。

3番目の写真はアイルランドに勝利しスタンドに挨拶するリーチ・マイケル主将たちです。

それにしてもリーチ・マイケルの言葉が良いのです。「日本中が敗けると思っていましたが私達だけは秘かに勝つと信じていました」。彼は試合前に沈黙を守って闘志を燃やしていたのです。
15歳の時にニュージーランドから来日し札幌山の手高校に入学し後に日本国籍をとったのです。日本語の上手な思慮深い男です。

もう一度、9月28b日の記事を読んでみましょう。
・・・コパスタジアム(袋井市)で、日本が1次リーグA組の2試合目に臨み、優勝候補のアイルランドを19―12で破った。通算10回目の対戦で初勝利で、前回大会で強豪の南アフリカに勝ったのに続く金星を挙げた。2連勝でA組首位に立ち、史上初の8強入りへ前進した。前日までアイルランドの世界ランクは2位、日本は9位だったが、この勝利によって日本のランクは過去最高の8位になった。
 日本は前半、2トライを奪われたが、田村優の3本のペナルティーゴール(PG)で食い下がった。後半も運動量は落ちず、3点を追う18分、途中出場の福岡堅樹のトライで逆転し、その後も追加点を挙げて逃げ切った。
 5チームずつ4組に分かれて総当たりの1次リーグは、各組上位2チームが決勝トーナメント(8強)へ進む。A組の日本は10月5日に愛知・豊田スタジアムでサモアと戦った後、同13日に横浜国際総合競技場でのスコットランド戦に向かう。・・・

元来私はスポーツが全て下手で嫌いでした。新聞のスポーツ欄は見ません。
しかしテレビのスポーツ番組はよく見て楽しんでいます。
何が面白いのかと言えば2つの理由があるのです。
(1)よく練習を重ねた人間の運動能力に感心します。動きが実に美しいのです。
(2)スポーツには必ずルールがあります。そのルールを活用して相手に勝つための頭脳プレーが欠かせません。そのメンタルな部分が面白いのです。選手の個性と感情の動きが面白いのです。
上の理由の(1)は運動音痴の私に深い感動を与えます。人間の素晴らしさが分かるのです。
理由の(2)はテレビでスポーツ番組を楽しむための必須条件です。
幸い家人はほとんど全てのスポーツのルールを知っているのです。
その上選手たちの生い立ちや家庭背景まで知っているのです。特にプロ野球や大相撲の力士のことは詳しいのです。箱根駅伝やスケートなどは特に詳しいのです。
ですからルールは家人から教わります。
例えばラグビーではトライが5点、ゴールが2点で、反則のノックオンやノーリリースやスクラム中の反則を知っていると面白くなるのです。何せラグビーでは反則でのゴールキックの得点が勝敗を決める場合が多いのです。そこで相手チームの反則を誘うメンタルな動きが重要になってきます。ラグビーは一見力対力の野蛮なスポーツのように見えますが実は大変な頭脳プレイが混じっているのです。トライの魅力、パスの美しさ、スクラムの力強さなどに感動します。

結論を言えばスポーツの好きな家人のお陰で私はテレビのスポーツ番組を楽しめるのです。
さてラクビーの日本ーサモア戦とスコットランド戦はどうなるでしょうか。日本の勝利を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

中国建国70周年の軍拡と一帯一路政策の推進

2019年10月02日 | 日記
中国は現在アメリカとロシアに次ぐ軍事力を保有しています。そして経済力ではロシアをはるかに抜いて今やアメリカに迫っています。GDPがアメリカを抜くのは数年以内です。
今回の建国70周年記念軍事パレードの光景はソ連時代のモスクワでの軍事パレードとよく似ています。
しかしソ連はあまりにも経済力が脆弱でした。それが原因で1990年頃にソ連が崩壊しました。
しかし中国は経済的に世界中と密接に交流しアメリカとも相互依存の関係にあります。
昨日の大規模な軍事パレードでアメリカを直撃出来る核弾頭搭載の大陸弾道弾も誇示しました。
その上、一帯一路政策の推進で西アジアとヨーロッパを中国の経済圏に抱えようとしています。
中国はアメリカと並んで世界の覇権国家になるのは確実です。
こんな考えで昨日の中国建国70周年軍事パレードの4枚の写真をご覧下さい。







昨日の中国建国70周年軍事パレードに関する記事です。
・・・【北京時事】https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100100142&g=int
建国70周年を迎えた中国・北京の天安門広場一帯で1日午前(日本時間同)、近年で最大規模となる軍事パレードなどの記念行事が行われた。習近平国家主席(中央軍事委員会主席)は演説で「いかなる勢力も中国人民の前進を阻むことはできない」と言明。パレードでは米国本土を射程に収めるとされる大陸間弾道ミサイル(ICBM)「東風41」を含む多くの新兵器を公開。習氏は世界第2位の経済大国として自信を示し、強大な軍事力を内外に誇示した。
そして中国軍は未知数の実戦能力を軍事パレードで誇示したのです。
 今回の軍事パレードは、米国との貿易戦争が長引き、香港で反政府抗議活動が続く内憂外患の状況で実施された。習氏は「(台湾の)平和統一と(香港の)一国二制度の方針を堅持する」と述べ、台湾や香港をめぐる問題で強硬なトーンを抑えた。
 一方で「断固として国家主権、発展の利益を守る」よう兵士に呼び掛けた。習氏は軍事パレードを通じて、中国の発展ぶりを国民に印象付け、国威発揚と求心力の強化を図った形だ。 ・・・

この軍事力だけを考えるのは片手落ちです。
中国の一帯一路政策の最近の進展では地中海の港湾開発を中国が実行しているのです。中国海軍の基地が地中海のイタリア、ギリシャ、イスラエルに出来ようとしているのです。
以下の記事はイタリアのジュノバの中国による港湾開発に関する記事です。

・・・ <国際社会からの批判をしり目に自国の利益を優先させたつもりのイタリアだが>
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/03/post-11886.php
イタリアは主要7カ国(G7)のメンバーとして初めて、中国の巨大経済圏構想「一帯一路」への正式な支持を表明した。これがEU(欧州連合)とアメリカの怒りを買っている。
中国の習近平国家主席は2019年3月21日から3日間の日程で、ユーロ圏3位の経済大国で2018年末から景気後退に苦しむイタリアを訪問した。イタリアが一帯一路に関する覚書に署名したことで、署名国は124カ国に達した。
2013年に提唱された一帯一路は、地域の協力や開発、連結を促進するインフラ投資・建設プロジェクトに重点を置いた大陸横断プロジェクトだ。加盟国は貿易やエネルギー、交通などのネットワークへのアクセスを与えられるもので、中国はこれを「双方に発展をもたらすウィン・ウィンの関係」と謳っている。
だが中国の真の狙いについては、世界での影響力を拡大することではないかとか、一帯一路に参加すれば中国に依存することになりかねない、など懐疑的な見方も少なくない。現に一帯一路は現在、世界人口の3分の2をカバーし、同構想へのこれまでの投資総額は1兆ドルを超えたとみられる。・・・

5番目の写真は中国が投資することになったイタリアのジェノバ港です。この港は地中海で最も重要な港の1つと言われています。

イタリアの他ギリシャでも同じようなことが起きているのです。

・・・債務危機に陥ったギリシャは2016年に、中国の国有企業、中国遠洋海運集団(コスコ)に同国最大の港、ピレウス港を運営する港湾会社の株式67%を売却する契約を結んだ。中国はピレウス港を大々的に再開発する計画を打ち出したが、ギリシャの考古学評議会が、港とその周辺は遺跡の一部だと主張し、計画の見直しを命じている。・・・

そして最近はイスラエルの地中海の港を中国が開発する契約が出来たのです。
再開発の後の港湾の運営は中国が行うのです。

つまり地中海の港に中国の海軍艦艇が補給のために自由に入港出来るのです。海軍基地のようなものです。

このような中国の世界戦略を深く考えると中国は間違いなく世界の覇権を握ることになります。
アメリカの上にはなりませんが、世界第二の大国になるのです。
さて日本はどうしたら良いでしょうか?
来年は習近平国家主席を国賓として日本に招待するそうです。
賢明な外交戦略が必須の時代になったのです。(続く)