未だ未だ会社では駆け出しの頃、一緒だった戦友の渡辺嘉孝氏が69の若さで鬼籍入してしまった。
晩年はそれぞれ別の道に歩み、卒業してしまい、年に1度のOB会で顔をあわし、二言三言お互いの元気さを確かめ会う程度で距離が離れてしまったが、インターネットの謹告情報で、訃報が流され再びお会いすることが出来なくなってしまった。
真っ直ぐ歩けないとか、自律神経に変調をきたし、外出も控える時もあったようであるが、不治の病と言われる、急性の白血病で、急な逝去であった。
写真は1962年、国土全体が建設ラッシュで沸き、その中の一つ、中国地方で初めての製鉄所の高炉が建てられたが、その建設工事に一緒に汗を流した思い出の地である。
「ちょっと行ってきてくれ」の一言で建設に沸き返る呉の製鉄所に赴き、日々息つく暇もない突貫工事に明け暮れた毎日であった。せいぜい2、3カ月と思ったが東京からコートを着て出かけ、そのまま一夏を越し、再びコートを着る時期に帰ると言う、長い赴任生活であった。
巨大なクレーンにつり上げられる構造物、工事用車両が砂ぼこり立て走り、時には溶接の火の粉を浴びながらの、まさに3Kの男臭い、最前線であった。
取り分け我々の担当の制御装置の稼働は、何時も工程の最終段階にあり、工事の遅れのしわ寄せが来るため、セレモニーが行われる前の徹夜は当たり前のようにあった。
建設過程で、氏も帰社し、一人取り残され孤立無縁の中で会社の代表として、責任の重さと、現地のサービス拠点の社員や工事業者との連携にも神経をする減らし、逃げ出したくなることもしばしばであった。
場所柄、工事の円滑な進行をするために「やあさん」が、現場事務所に毎月時訪れ、正々堂々と寺銭まがいの請求に来る場所でもあった。
忙中暇あり、建設隙間の休日に氏はご自慢のカメラを持ち、音戸の大橋、呉の自衛隊基地など一緒に周り、時には足を延ばし広島迄出て、束の間の休日を楽しんだ。
余り刺激のない旅館と現場の往復に氏の謹厳な生活振りは長逗留したあわじ屋の女将の心打ちお見合いの話も出るぐらいであった。(成就しなかったが)
無我夢中で過ごした駆け出し小僧時代の艱難辛苦がプロとしての厳しさを芽生させるともに、一緒に過ごした氏との関わりが鮮明に思い出される場所でもあった。ご冥福を祈る。
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