575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

さくら色の着物            愚足

2007年02月26日 | Weblog
 日曜美術館で染色家志村ふくみさんの業績を紹介していました。その中で「桜色」の染めについての味わいのある話しがありました。
 このことについてマレーシア在住の「牛男」さんのネットで次の様な記事を見つけました。少し長くなりますか紹介します。

 詩人・大岡信に、染色家志村ふくみとの桜にまつわるエッセイがある。
これは、中学校の教科書にも取り上げられていて、僕も大好きなエッセイだ。少し引用する。

京都の嵯峨に住む染色家、志村ふくみさんの仕事場で話していた折り、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸いこむように感じられた。
「この桜は何から取り出したんですか」
「桜からです」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際は、これは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮から、この美しいピンクの色がとれるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したようなえもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。


私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、もうまもなく花となって咲き出ようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。『詩・言葉・人間』大岡信

志村ふくみさんの作品は、京都にいる頃に何度か目にする機会があった。染色や織物に全くの素人の僕であっても、その色の深さと美しさには圧倒された。大岡信のエッセイは、これを言葉の問題に応用させて「言葉の力」について考察するのだけど、今回は、樹全体が懸命になって、ピンクのエッセンスを花びらに送っているイメージだけを楽しみたい。
コメント (3)
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