575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

2007年02月28日 | Weblog
これは名句とされていますが、私には名句とは思えません。
そこで、少し調べてみました。

この句は、明治33年の子規庵句会の即吟の句。
一座の評価は低かったそうです。
最初にこの句に注目したのは、歌人。
斉藤茂吉が称賛したそうです。
もちろん虚子編の「子規句集」にも入っていません。
事態が急変するのは、戦後の昭和25年。
俳壇で巻き起こった「鶏頭論争」

斉藤玄という人が、鶏頭の七八本もありぬべし、でも
良いじゃないか、と良さを否定。
これに対して、山本健吉が著書・現代俳句のなかで
「現実の鶏頭を対象として七八本と、十七八本とどちらが
美しいかの判断は、庭師にまかせておきたまえ。・・・
この句の鶏頭は、現実の鶏頭よりも現実的な、力強い存在性と
重量感を持って立っている世界の鶏頭なのだ」と、反論。
以降、名句の評価が定まったようです。

現実の鶏頭より現実的とは、どういう意味でしょうね。

   


  鶏頭の十四五本もありぬべし 

名句の美学の著者・西郷竹彦さんは
この、ありぬべし、に注目しています。

  鶏頭の十四五本もありにけり

では、眼前の鶏頭を捉えた表現です。

  鶏頭の十四五本もありぬべし

ありぬべし。こうなると、現実の鶏頭ではなく、
想像の鶏頭を読んでいることになる、というのです。

たしか鶏頭というモノは十四五本のグループになって存在するものなのだ。
まさに鶏頭というもののひとむれは、十四五本もあるぬべし、と認識、
表現せざるを得ない強制力をこの句はひめていて、
この句が名句であるゆえんである。

鶏頭の理想のあり方という虚構の世界を作り上げたことが
この句を名句としているというのですが・・・

  鶏頭の十四五本もありぬべし

そう読めます?
まだまだ修業が足らないのかな?

    遅足






コメント (2)
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