加藤楸邨の一○○句を読む(石寒太)を読んでいたら、この句に。
575のリズムから遠く離れた句です。
石さんは、本のなかでこう書いています。
長崎の浦上天主堂の壊れた壁を詠んだ句。
原爆によって破壊された壁、そこにあった天使は、
腕も消え、首もなくなったが、なお天使として立っている。
意味は明瞭ですが、ごつごつした句です。
後に、楸邨自身、この句についてこう述べています。
「いま読み返してみると、ずい分気負いたっているように見える。
しかし、それを恥ずかしく思ってはいけないのだと思う。
何か俳句では背負いきれないような出来事にぶつかった時、
避けて通ることは、俳句を無気力にしてしまう。
その結果は俳句を詠むのに都合のよいことだけに
俳句を限ってしまうことになる。
そのあげく、おそろしいのは、俳句になるものしか見なくなるのだ。
私はときには俳句が傷だらけになってしまうような詠み方も
敢えてしてゆくほかないと思っている」。
10年以上、俳句を楽しんでいます。
ついつい俳句になるものしか素材に選んでいない。
そんな自分に気づかされてハッとしました。
今日は母の日です。
母の日のきれいな風が吹いてくる 遅足
575のリズムから遠く離れた句です。
石さんは、本のなかでこう書いています。
長崎の浦上天主堂の壊れた壁を詠んだ句。
原爆によって破壊された壁、そこにあった天使は、
腕も消え、首もなくなったが、なお天使として立っている。
意味は明瞭ですが、ごつごつした句です。
後に、楸邨自身、この句についてこう述べています。
「いま読み返してみると、ずい分気負いたっているように見える。
しかし、それを恥ずかしく思ってはいけないのだと思う。
何か俳句では背負いきれないような出来事にぶつかった時、
避けて通ることは、俳句を無気力にしてしまう。
その結果は俳句を詠むのに都合のよいことだけに
俳句を限ってしまうことになる。
そのあげく、おそろしいのは、俳句になるものしか見なくなるのだ。
私はときには俳句が傷だらけになってしまうような詠み方も
敢えてしてゆくほかないと思っている」。
10年以上、俳句を楽しんでいます。
ついつい俳句になるものしか素材に選んでいない。
そんな自分に気づかされてハッとしました。
今日は母の日です。
母の日のきれいな風が吹いてくる 遅足