「俳句は技術である」(平井洋城・著)を読んでいたら
「言葉の置き換え・レトリック」という項目がありました。
例として
欠伸せる眼中に入る秋の山
欠伸せる口中に入る秋の山 高浜虚子
荻原先生の受け売りで「言葉をずらす」と言うのも同じ意味です。
なぜ、こうした技術が有効なのでしょう?
出来事を伝えるために、日常に使っている言葉を使わざるを得ません。
葉桜のなかの無数の葉がさわぐ
これでは説明であり、俳句にはなりません。
つまり、その場に立ち会っている臨場感が感じられません。
ライブ感といったら良いでしょうか。
先生は、また、言葉を見つけ出す前の状態が大切とも。
出来事の現場に立ち会っているように、という意味でしょうか。
有名な句は、こうなっています。
葉桜のなかの無数の空さわぐ 篠原梵
言葉をずらす、という技術の目的は、ライブ感を獲得することにあるのでしょうか。
応答の一日一句
夕映えの合掌造り柿落葉 孝
渋柿や餓鬼大将の泣きっ面 亜子
「言葉の置き換え・レトリック」という項目がありました。
例として
欠伸せる眼中に入る秋の山
欠伸せる口中に入る秋の山 高浜虚子
荻原先生の受け売りで「言葉をずらす」と言うのも同じ意味です。
なぜ、こうした技術が有効なのでしょう?
出来事を伝えるために、日常に使っている言葉を使わざるを得ません。
葉桜のなかの無数の葉がさわぐ
これでは説明であり、俳句にはなりません。
つまり、その場に立ち会っている臨場感が感じられません。
ライブ感といったら良いでしょうか。
先生は、また、言葉を見つけ出す前の状態が大切とも。
出来事の現場に立ち会っているように、という意味でしょうか。
有名な句は、こうなっています。
葉桜のなかの無数の空さわぐ 篠原梵
言葉をずらす、という技術の目的は、ライブ感を獲得することにあるのでしょうか。
応答の一日一句
夕映えの合掌造り柿落葉 孝
渋柿や餓鬼大将の泣きっ面 亜子