575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

熱田神宮の「花の撓 (とう)」今昔 ⑴  竹中敬一

2017年05月26日 | Weblog
熱田神宮に伝わる踏歌(とうか)神事などの年中行事については、
古い文献などをもとに、すでに、研究がなされていますが、
なぜか「花の撓(とう)」については神宮関係者に聞いても、
資料が乏しく詳しいことはわからないということです。
熱田神宮発行の「熱田神宮史料」や月刊誌「あつた」の中に
特殊神事の一として「花の撓」が簡単に紹介されている程度です。

「熱田祭典年中行事古事考」によりますと、その由来については、
江戸時代、釈迦の誕生日に当たる4月8日、本宮拝殿と勅使殿に
人形などの飾り物を設けて神事が行われ、この行事が後に
「花の撓」になったようです。この運営に当たるのが、
「郷補頭人(ごうほとうじん) 」、つまり、村々から選ばれた
世話役とその補佐役の2人で、飾り物を並べた後、その前で
神官との酒宴となったと記されています。
また、この日は家々の屋根に卯の花を葺いて祝ったそうです。
これを「葺籠(ふきこもり) と云います。

今のように飾り物を公開して、参詣人が農作物の豊凶を
占うようになったのは、どうも明治時代になってからのことのようです。
「花の撓」の期間中、飾り物を見て、神官が描いた「豊年祭絵図」が
参詣者に頒布されますが、熱田文庫にこの絵図の中で一番古い
明治25年の刷り物が残っていました。
そこには、今と同じ畑所、田所を模した飾り物が墨で描かれています。
きっと、この頃から「花の撓」が始まったものと思われます。

明治時代になって、熱田神宮で「花の撓」が行なわれると、村々の代表が
飾り物を見に訪れ、「豊年祭絵図」を持ち帰って、今度は、それぞれの村で
この絵図を参考に独自の飾り物を造るようになりました。
(ここまで調べ上げるのに随分、時間がかかりました。)

「花の撓 」の初日には、各地区の代表が来るはずと聞いていたので、
西楽所前で待っていましたが、それらしい人は数人しか見受けられませでした。
それでも、西楽所の扉が開けられると同時にその人たちが「豊年祭絵図」の
刷り物を買い求め、田所、畑所に配された人形などの位置を確認した後、
それぞれの地区へ足早に消えていきました。
やっと、愛知県半田市の成岩(ならわ) 地区から来たという当番役の二人に
話を聞くことができました。
これから、地区の「とりで観音」で絵図を参考に飾り物を並べるということで、
私も行ってみることにしました。その模様は次回、お伝えします。

写真は、豊年祭絵図です。

コメント (1)
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