若狭の内外海(うちとみ)半島の先端、泊(とまり)地区の高橋家は、代々、村の鎮守、
若狭彦姫神社の禰宜(ねぎ)を世襲してきました。
その高橋家は、古代の文書「高橋氏文」(たかはしうじぶみ)と関係があるのでしょうか。
残念ながら、今のところ何の証拠も見つかっていません。でも、ちよっと気になるので、
絵巻物の話から逸れますが調べてみました。
福井県若狭町の歴史文化館発行の図録に、昭和8年、若狭町脇袋(わきぶくろ)にある
西塚古墳の調査を行った時の図面が載っていますが、そこに、「磐鹿六雁(イワカムツカリ)
墳墓」とあります。
このことについて、若狭地方の古墳に詳しい地元の考古学者、入江文敏氏に聞いてみました。
それによると、「日本書紀」の景行天皇53年10月に、イワカムツカリがハマグリを細かく
切りナマスにして、天皇の食膳に供し、その功を賞されて膳臣(カシワデノオミ)の姓を
賜ったが、その膳臣の子孫が高橋氏であることがわかりました。
イワカムツカリ以来、高橋氏は天皇の食膳の調理を担当する内膳司(ないぜんし)を
務めてきましたが、その長官、次官の職をめぐって、高橋氏と安曇(あずみ)氏の間で
勢力争いがあり、高橋氏が自家の優位を示すために書き残したのが、「高橋氏文」だと
いうわけです。
若狭町脇袋にある膳部山(ぜんぶやま)は、膳臣の名に由来しているそうです。
「高橋氏文」ついては 、江戸時代の国学者で若狭小浜藩士の伴信友(ばんのぶとも)の
「高橋氏文考註」があります。とても、難しそうで、とても手に負えないと思っていたら
関西の大学や高校の先生による「上代古文を読む会」が「高橋氏文」の輪読を重ね、
併せて伴信友の「考註」も取り入れながらまとめた「高橋氏文註釈」(翰林書房)があるのを
知りました。
「高橋氏文」の文体は独特の漢文で、解読が難しいようですが、少し、紹介します。
景行天皇の53年8月、東国巡幸の折、イワカ ムツカリの命(みこと)がハマグリやカツオを
料理して、天皇に献上した様子が細かく綴られています。そして、この魚貝を獲った
場所は、葛飾(かつしか)の浜辺ではないかとする説などを紹介しています。
イワカ ムツカリの命が病で亡くなった時、景行天皇は大いに悲しみ、次のように
仰せになりました。
「六雁命」(むつかりのみこと)の御魂を、膳職(かしわでのつかさ)としてあがめ、
将来にわたって奉仕させることにしよう。(中略) 若狭の国は、六雁命の子孫たちの
永遠の所領とするがよい。後々まで決して違反するまい。」(「高橋氏文註釈」現代語訳)
膳臣(高橋氏)は、ヤマト政権と深く関わりながら、若狭の国造(くにのみやつこ)を務めたと
思われます。また、若狭の膳臣は中央(ヤマト政権)の膳臣とは同族ではなく、同盟関係か
上下関係にあったとする説もあります。まだ、文字がなかった時代の話とあって、
確ある証拠がなく、様々な考え方があるわけです。
写真は、福井県若狭町発行の「若狭町歴史文化館 図録」より。
写真右上 脇袋(わきぶくろ)の谷では古墳が5基 確認されています。
背後の山は膳部山(ぜんぶやま)と呼ばれています。
写真下方の図面は昭和8年に制作されたもので、磐鹿六雁(イワカムツカリ)即ち
膳臣(かしわでのおみ)の墳墓。高橋氏の先祖です。