575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「虚子と子規」

2020年08月29日 | Weblog


正岡子規と高浜虚子が最初に会ったのは、意
外なことには松山の野球場です。中学生の虚
子が野球の練習をしているところへ通りかか
った大学生が参加。虚子がボールを投げた相
手が子規でした。

小説家を目指していた虚子は、友人の河東碧
悟桐<かわひがしへきごとう>を通じ子規に手
紙を書くようになります。子規からの手紙は
美しい文字で丁寧に記され、いつも俳句が詠
まれていたことから、虚子は俳句に傾倒して
いきます。

子規の本業は新聞記者です。陸羯南<くがか
つなん>が社主の「日本新聞」の社命により
日清戦争で従軍記者として取材をしています。
しかし、劣悪な戦地の環境により持病の結核
が悪化。帰国し神戸の病院への入院を余儀な
くされます。当時、結核は不治の病いとされ
隔離されます。しかし、感染を恐れることな
く子規の好物である苺を病室に届けたのが虚
子でした。

献身的な虚子に、子規は自らの俳句の後継を
依頼します。しかし、虚子は困惑します。子
規は「古今和歌集」を新聞で痛烈に批判。子
規宅に反論者が押しかけます。ところが、子
規は病いで床に伏せています。激昂する彼ら
に虚子は苦慮したようです。

子規に最も近い存在でありながら、矛盾する
ように距離を置く虚子。こんなエピソードが
あります。ある時、虚子は新聞記者から子規
との関係について質問されます。しばらく、
考えた虚子は記者にこう答えます。

「私は 子規を失望させている」

やがて、子規の病状が悪化。虚子は毎日、根
岸の居宅まで出かけ毎日新聞に投稿する子規
の短文の口述筆記を務めます。

この毎日新聞の短文をまとめた句集が「病床
六尺」となります。子規が亡くなった夜、虚
子は子規宅で仮眠をしていました。子規の妹
の律が子規の死を伝えます。そして虚子が詠
んだ句。

「子規逝くや 十七の 月明かりに」<虚子>

虚子の子規に対する尊敬と逡巡。子規の死に
より清算されたのでしょうか。虚子のさらり
とした句が物語っている気がします。

文と写真<殿>
コメント
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