ロシアによるウクライナ侵攻の悲惨な状況を連日、テレビでみながら
時々の教科書にも出てくる盛唐の詩人 杜甫の「国破れて山河在(あ)リ」を思い出しました。
安禄山の反乱で賊軍に囚われの身となった時の作だそうです。
吉川幸次郎著「新唐詩選」(岩波新書)によると、「国破れて」は「敗戦ではなく…狂人がでたらめにハサミを入れた紙切れのように
ぼろぼろになってしまったこと」とあります。まさに、今のウクライナの状況です。
「山河在(あ)り」の「在」に深い意味があります。
「依然として、確固として、存在する」ということです。
ウクライナのように建物は破壊され、ボロボロになっても、昔からの自然は何事もなかったかのように存在しているということでしょう。
この心境は戦争を体験した者でないと、なかなか理解できないのではないかと思います。
私には少年時代の不思議な体験があります。終戦の日の8月15日、
国民学校5年生だった私は玉音放送をラジオで聞いたものの意味がわからず、父に聞いたら、「日本は負けたらしい」と言う。
それを知った途端、私は「これから私たちはどうなるのだろうか」と思いながら、わけもなく外へ出ていました。
気がついと、いつもよく行く小川沿いの細道を歩いていました。
「あゝ、これでアメリカ兵がこの村にも来て、皆殺しにあうのだ」と思いました。しかし、その時は不思議と怖いとも悲しいとも思いませんでした。
いつも変わらぬ風景がそこには在(あ)り、小川の水面が残照を受けてキラキラと光っていました。この光景が妙に頭に焼きついて今も離れません。
杜甫の「国破れて山河在り」に続く「城は春にして草木深し」について吉川幸次郎は
「… 春はことしも、めぐり来た。人間はその秩序を失っても、自然はあくまでもその秩序を失わない。
人影もない城壁のほとり、草木は青々と、めぐみ、しげる。
芭蕉が、「城春にして草青みたり」とこの句を引用するのは、記憶のあやまりであろうか、わざと改めたのであろうか。」と書いています。
「青みたり」がひっかかるようですが、私には俳句のことはよくわかりません。
多分、芭蕉は、「在」の認識がなかったと言いたかったのではないかと思います。
「国破れ」の体験のない芭蕉にそれを求めるのは無理だと思います。 竹中 敬一