575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

陽は跳ねて囀り木々にこそばゆし  郁子

2018年04月15日 | Weblog

春の日差し。光は喜んで跳ねているようです。
その光のなか、小鳥たちも囀っています。
木は、こそばゆく感じているのでしょう。

視覚と聴覚を、皮膚感覚に転換した句でしょうか。
作者らしい感性の一句です。

跳ねる光がこそばゆい。
囀りがこそばゆい。
どちらか一方でも、十分句になりそうです。

              遅足

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さえずりや母なき庭に寄り添いて   麗子

2018年04月14日 | Weblog

庭にやってきた小鳥の囀りを聞いています。
ふと、母といた頃を思い出しました。
今は母は居ません・・・

下五の「寄り添いて」をどう読むのか?
二つの読みが可能です。
ひとつは、母のいない庭。その庭に寄り添う。
まるで母に寄り添うように。

もう一つは、母のいない庭にいて、誰かと寄りっている。
その人と母のことを話しながら。
そうすると母に寄り添っているように感ずる。

「母なき」という表現からは、
母は、この世にいないという意味合いが
強く感じられます。
ちょっとサミシイ句ですが、
明るい季語の囀りが寂しさを救っています。遅足


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若狭の海幸山幸絵巻 ⑧~高橋氏文(たかはしうじぶみ)のこと~竹中敬一

2018年04月13日 | Weblog

若狭の内外海(うちとみ)半島の先端、泊(とまり)地区の高橋家は、代々、村の鎮守、
若狭彦姫神社の禰宜(ねぎ)を世襲してきました。
その高橋家は、古代の文書「高橋氏文」(たかはしうじぶみ)と関係があるのでしょうか。
残念ながら、今のところ何の証拠も見つかっていません。でも、ちよっと気になるので、
絵巻物の話から逸れますが調べてみました。

福井県若狭町の歴史文化館発行の図録に、昭和8年、若狭町脇袋(わきぶくろ)にある
西塚古墳の調査を行った時の図面が載っていますが、そこに、「磐鹿六雁(イワカムツカリ)
墳墓」とあります。
このことについて、若狭地方の古墳に詳しい地元の考古学者、入江文敏氏に聞いてみました。
それによると、「日本書紀」の景行天皇53年10月に、イワカムツカリがハマグリを細かく
切りナマスにして、天皇の食膳に供し、その功を賞されて膳臣(カシワデノオミ)の姓を
賜ったが、その膳臣の子孫が高橋氏であることがわかりました。
イワカムツカリ以来、高橋氏は天皇の食膳の調理を担当する内膳司(ないぜんし)を
務めてきましたが、その長官、次官の職をめぐって、高橋氏と安曇(あずみ)氏の間で
勢力争いがあり、高橋氏が自家の優位を示すために書き残したのが、「高橋氏文」だと
いうわけです。
若狭町脇袋にある膳部山(ぜんぶやま)は、膳臣の名に由来しているそうです。

「高橋氏文」ついては 、江戸時代の国学者で若狭小浜藩士の伴信友(ばんのぶとも)の
「高橋氏文考註」があります。とても、難しそうで、とても手に負えないと思っていたら
関西の大学や高校の先生による「上代古文を読む会」が「高橋氏文」の輪読を重ね、
併せて伴信友の「考註」も取り入れながらまとめた「高橋氏文註釈」(翰林書房)があるのを
知りました。
「高橋氏文」の文体は独特の漢文で、解読が難しいようですが、少し、紹介します。
景行天皇の53年8月、東国巡幸の折、イワカ ムツカリの命(みこと)がハマグリやカツオを
料理して、天皇に献上した様子が細かく綴られています。そして、この魚貝を獲った
場所は、葛飾(かつしか)の浜辺ではないかとする説などを紹介しています。
イワカ ムツカリの命が病で亡くなった時、景行天皇は大いに悲しみ、次のように
仰せになりました。
「六雁命」(むつかりのみこと)の御魂を、膳職(かしわでのつかさ)としてあがめ、
将来にわたって奉仕させることにしよう。(中略) 若狭の国は、六雁命の子孫たちの
永遠の所領とするがよい。後々まで決して違反するまい。」(「高橋氏文註釈」現代語訳)

膳臣(高橋氏)は、ヤマト政権と深く関わりながら、若狭の国造(くにのみやつこ)を務めたと
思われます。また、若狭の膳臣は中央(ヤマト政権)の膳臣とは同族ではなく、同盟関係か
上下関係にあったとする説もあります。まだ、文字がなかった時代の話とあって、
確ある証拠がなく、様々な考え方があるわけです。

写真は、福井県若狭町発行の「若狭町歴史文化館 図録」より。
写真右上 脇袋(わきぶくろ)の谷では古墳が5基 確認されています。
背後の山は膳部山(ぜんぶやま)と呼ばれています。
写真下方の図面は昭和8年に制作されたもので、磐鹿六雁(イワカムツカリ)即ち
膳臣(かしわでのおみ)の墳墓。高橋氏の先祖です。


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ようやく  麗

2018年04月12日 | Weblog
更新遅くなりました。

母の入院に続いて、毎日お見舞いに行っていた90歳の父もぎっくり腰で起きあがれず。
私はまた4日ほど大阪に帰りました。

他人の世話になることを恥と思う父。ようやく介護申請を受け入れてくれました。
お弁当の宅配も始まりました。
入院中の母に手紙を書く父。それを読み聞かせても母の反応は薄し。。。かわいそうなお父さん。

         晩春や介護認定申請す  麗

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俳句上達の秘訣は?   遅足

2018年04月11日 | Weblog
ある程度、俳句に親しんだ頃にスランプが。
誰もにも起きることですが、スランプ脱出の秘訣はなさそうです。
私が学んだのはスランプを否定的にとるのではなく肯定的に捉えること。
ステップをひとつ越えた証として。

とは言っても何もしないわけにはいかず・・・
栴檀句会の先生は、自分の句の感想文を書くとよいと教えて下さいました。
そして他の人に読んでもらう批評をうけることと。
そこで私も感想文を書いてみました。

  転生と定めたる樹や囀れり

祖父が亡くなった頃にちょうど孫が生まれると、
「おじいさんの生まれ変わり」と言ったものです。
今では、こうした輪廻転生を信ずる人が減っていますが、
目元が似ている、とか、鼻がそっくりなど、とは言います。

最近、樹木葬が静かなブームです。骨となって大地に還る。
自分の元素の一部が樹となって生き続けたい、という気持ち。
春になったら小鳥の囀りを聞きたい。
新しい輪廻転生を詠もうと思ったのですが・・・。

転生、という言葉が適切か?がポイントだと思うのですが・・・

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4月句会ちかづく。   遅足

2018年04月10日 | Weblog

今回の題詠は「晩春」です。
季語の世界では春を3つに分けています。
初春、仲春、晩春。
晩春は弥生、いまの四月にあたります。

よく似た季語に「行く春」「春惜しむ」があります。
こちらは時間の流れを意識しています。
晩春は、春の終りの、どことなく茫洋として、
おおらかな感じを重視しています。

  晩春の庭に咲く花終る花  稲畑汀子

こんな句もあります。

  晩春の穴を出たまま貝ボタン 星野早苗

          

我が家のリフォームもいよいよ後半へ。
今晩からお風呂に入れるようになる予定です。
これまでスーパ-銭湯を2つほど体験してきましたが
やはり家のほうがゆったり出来ます。
          
  
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満願?知多四国  

2018年04月09日 | Weblog
歩いて巡拝(まいる)・知多四国に行ってきました。
いつもは姉か娘に同行してもらってのお遍路ですが
今回で満願になることもあって、初めてひとりで参加しました。

内海の駅まで行けば、地図を渡され、あとは大勢の皆さんと連れ立っての寺巡りです。
ご朱印帳に寺ごとの印を押してもらえますが
今年は開創210年ということもあり特別な印もいただけるとあってなかなか盛況です。

野間大坊を含む48番から57番札所が今回の寺でしたが
山越えあり、田園地帯を延々歩く10.5キロの難コース。
ひとり黙々と歩けば
見事なウグイスの谷渡りが幾重にも聞こえ、遠くに波の音・・それはそれは豊かな時間です。


源頼朝の父義朝が討たれた御湯殿跡や
織田信長の三男信孝自刃の最後を見届けたという安養院
由緒書きの立札をみれば
信孝無念のあまり割腹の際、自分の腸を投げつけたという血のついた掛け軸があるらしい
(ひえーっ!)
「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」と呪いのような辞世の歌も。
折しも、椿の大木の根元が落花で赤く染まっていてゾクゾクものです。
歴史好きの麗子さん誘っていたらブラレイコできました。(笑)

大満足で朱印帳を夫に見せたら
あら!40番から43番が抜けています?
(がっくり)
満願が遠のきました。
お遍路をはじめたのが2013年ですから6年目の春となりました。

          鈴の音を話し相手に遍路道  郁

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吾が影に囀りの止むガラス越し   結宇

2018年04月08日 | Weblog

鳥の鳴く声が聞こえます。
聞いたことのない声です。どんな鳥なのか?
そっと窓ガラスに近寄ると・・・
囀りは止み、姿も目当たりません。
いち早く作者の影に気づいて飛び去ってしまいました。

姿を見せなかっただけに心に残ります。

男性は女性より目からの情報に敏感だそうです。
太古から狩りの生活をつづけて視力が成否を分けたからとか。
恋の始まりも目から。
源氏物語でも、男性はその姿を求めて・・・
やはり鳥の姿が気になりませんか?      遅足


 
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さえずりや透ける命をふと思う  えみ

2018年04月07日 | Weblog
小鳥の囀りを聞いています。次第にトーンが高まっていきます。
その時、ふっと命が透けてゆくような感じを受けました。
小鳥のいのち、私のいのち。いのちとは透けるものなのか・・・
という句意でしょうか。

中七の透ける命、をどう読むか?

囀りは恋の歌。命の限り歌います。
歌が極まって、鳥の命が透け、あの世との境まで・・・
そんな恋の喜びを詠ったのかも。

下五の「ふと思う」が必要か?どうか?
いのちの透けるまで、とすることも可能です。
読者によって分かれるところでしょうか。

                 遅足

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若狭の海幸山幸物語 ⑦ ~絵巻に出てくる老人とは~竹中敬一

2018年04月06日 | Weblog

若狭彦姫神社に伝わる「秘密縁起」の海幸山幸物語に出てくる「浦人」は、国学者、本居宣長が云うように、
漁の経験が豊富で、潮の流れや天気にも詳しい老人だったでしょう。
それでは、その「浦人」は特定できないものか、私の生まれ故郷、若狭の内外海(うちとみ)半島に残る
言い伝えを探ってみました。

内外海半島の先端に、僅か23戸の泊(とまり)という集落があります。私は何度かここを訪れていますが、
その度に、どうして、若狭彦姫神社の鎮座する遠敷(おにゅう) の地から遠く離れた泊の集落に同じ社名を
もつ小さな社(やしろ)があるのか不思議に思っていました。
口伝えや文献を調べているうちに、どうも 、この泊の集落にある社が始まりであるように思えてきました。

代々、この泊の若狭彦姫神社の禰宜(ねぎ)を世襲してきたのは、高橋家でした。高橋家の表札には、今でも
高橋刀禰(とね)と出ています。刀禰(とね)とは、村の頭(かしら)、つまり首長のことです。
5年前、訪れた時、当主の高橋豊彦さん(78)が、先祖からの言い伝えとして興味深い話をして下さいました。
「蘇洞門(そとも) の千畳敷に上陸された神様は、うち(我が家)の山であるトンビヤスの中腹から、
"トト、トト…"と、村の長(おさ) である私の先祖を呼び、やがて村に来られた。神様はしばらくここに
おられたが、やがて"杉千本 生える地へ行きたい"と申され、遠敷(おにゅう) の地へ行かれた、と聞いている」

泊地区にある蘇洞門は、久須夜岳(くすやだけ) の北山麓に奇岩が連なる景勝の地です。近くには、異国の船を
繋留した唐船島もあります。

もともと、海幸山幸神話はインドネシアを起源としていることが、定説となっています。それが、中国、朝鮮
半島に伝わり、渡来人によって、若狭の地にもたらされたとしても不思議ではないと思います。
また、古墳時代には、すでに九州との交流もあつたことがわかっており、その際、日向神話にある海幸山幸の
物語が口伝えで持ち込まれ、それが、若狭地方固有の神話と合体したのかもしれません。

若狭彦姫神社に伝わる「秘密縁起」に出てくる「浦人」は、内外海半島の先端にある泊の浦に辿り着いた渡来人か、
または、その渡来人から色々と教えを受けた高橋氏の先祖をはじめ、泊の浦人ではなかろうか、と思っています。


写真は福井県小浜市の内外海(うちとみ) 半島の先端に位置する泊(とまり)地区。戸数23。
背後の山はトンビヤス、久須夜岳(619m)の南側で内海になっていますが、この山の北側は
外洋で、近くには外国船を繋留した唐船島もあります。




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ブラレイコ 岩崎城編  麗 

2018年04月05日 | Weblog
ふと思い立って、郁子さんの車で日進市にある岩崎城に行きました。ブラタモリならぬブラ麗子&郁子。

今から400年以上前の1584年、犬山市楽田にいた秀吉方と、小牧城にいた家康方は膠着状態にありました。

このにらみ合いを破るべく「三河中入り」という作戦を池田恒興は秀吉に提案します。
家康に見つからないように岡崎城に攻め込み、家康を小牧から岡崎に帰らせて、秀吉軍を有利にさせる作戦です。

恒興隊は岡崎への進軍の途中、徳川方の岩崎城の近くを通りかかります。岩崎城には城主の留守を預かる
弟の16歳の丹羽氏重がいました。
進軍を食い止めようとした氏重。懸命に戦いますが、
7000名の恒興隊に対し、岩崎城の兵はわずか300名。全員討ち死に4月9日、落城となりました。

この「岩崎城の戦い」で氏重は亡くなりましたが、家康はその後の長久手の戦いに勝利し、城主であった兄の丹羽氏次は家康のもとで活躍し、関ヶ原の戦い以降は豊田市で一万石の大名になりました。

岩崎歴史記念館には優しい学芸の方がいらしゃいました。
小牧・長久手の戦いというが、実は愛知・岐阜・三重三県にまたがる大きな戦いであったことを教えてくださいました。

そして、私は今、小牧に住んでいるのでこの長久手まで車で1時間足らずで来たことがなんだか申し訳なく、6世紀の古墳も出土する岩崎城が戦国の歴史の舞台であったことを初めて認識しました。

ちなみに池田恒興はその後、長久手古戦場で殺されています。

さて、ブラレイコ。次回はどこになるのか?歴史の旅に時々出かけたいものです。

              戦国の亡者も集う桜かな  麗
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囀りの聞けぬ地球にならぬやう  佐保子

2018年04月04日 | Weblog

温暖化による砂漠化など、地球から緑が消えています。
レイチェル・カーソンの警告の著書「サイレント・スプリング」
囀りのない沈黙の春が現実のものに感じられる昨今です。

現代社会に警鐘を鳴らす一句ですが、
直接、俳句に詠むのは難しいテーマです。
この句の「聞けぬ」「ならぬ」と、二重否定。
このレトリックから作者の気持ちが伝わってきます。

          

昨日はひさしぶりに足助の香嵐渓へ行ってきました。
カタクリの花はもう終わっていましたが、
スミレなど可愛らしい花が春を競っていました。
遠くでうぐいすが鳴いています。
母の実家に住む叔母さんを訪ねました。
95歳でまだ畑仕事を続けているそうです。
百年草でお風呂を楽しんで帰ってきました。 遅足






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校庭の大樹揺らして囀れり  亜子

2018年04月03日 | Weblog

校庭の大樹。囀りが聞こえて来ます。
やがて囀りは大きくなり、木を揺らしているようです。

戦後間もないころ校庭で見た大きな木。
その記憶を呼び起こして作られた句とのこと。
私の小学校の校庭にも大樹があったことを思いだしました。
小さかったので、大きく見えたのかもしれませんが。

大樹揺らして、という中七は、大げさかな?
しかし、囀りの聞いているうちに、
幼いころのことが走馬燈のように思い出されてきます。
同級生たちの声も聞こえるようです。
子どもだった作者の声も聞こえてきそうです。

心が揺さぶられる感じ、それを大樹揺らして、と。
風景と心象が混然となった表現でしょうか。

                     遅足

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囀りや野辺の地蔵のおつむから  立雄

2018年04月02日 | Weblog

囀りが聞こえてきます。近いところで鳴いているようです。
お地蔵様の頭に止まった小鳥でした。
人を怖れないヒタキでしょうか。

絵本のような世界。
映像がしっかりしています。

作者に実景ですか?とお聞きしたら
「いや想像です」とのお答え。
子どものような生き生きした想像力。
うらやましい限りです。

        

晴天がつづきます。
今日からお風呂のリフォーム。
一週間ほど家のお風呂が使えません。
銭湯へでも行くか、と思いましたが・・・
もう随分前から廃業してました。

                遅足

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満開の名古屋へ帰ってみれば・・・  遅足

2018年04月01日 | Weblog
リフォーム工事の我が家を脱出、一週間ほど蓼科へ行って来ました。
桜の咲き始めた長野県から満開の名古屋へ・・・
帰宅してみると、リビングはすっかり新しくなっていました。

最初にとりかかったのは、電話、インターネット、テレビを使えるようにすること。
複雑な配線を復旧させるのに想定外の悪戦苦闘。すっかり忘れているんです。
色違いのテープを張っておいたおかげで、小一時間かかりましたが
無事つながりました。ああ、どっと疲れました・・・

テーブルはいまだ寝室に。キッチンとはかなり離れています。
朝の食事の支度も、何回も往復、倍くらい手間と時間がかかります。
工事も半分ほど終わりました。明日からはお風呂が使えなくなるとのこと。

いま何時?と、見上げる先に、あるべき時計がない生活。
台風や地震で被災された方々の苦労の一端がしのばれます。


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