人外花境

暇人の何でも自然観察日記

主に野歩き山歩き.たまに旅歩きの写真ブログ

長くなりますが、なぜ八重山だったのか

2007年07月05日 | 島旅:八重山諸島

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 3月から4月にかけて約一ヶ月間、八重山諸島を中心に旅をしてまいりました。旅立つ動機は、吹雪舞う寒 い北海道から逃れ、ともかく暖かい所へ行きたかったのです。沖縄本島から宮古・八重山諸島には、日本全国か ら多くの旅人が訪れており、各島の民宿ではユンタクで盛り上がり色々な人々との出会いが有りました。日本 の南の島を旅する人は、人それぞれの思いと訳が有り訪れていた様ですが、やはり共通するものとして意識・ 無意識にかかわらず「非日常の世界での癒し」を求めていた様に思えます。

 では何故沖縄(本島とその周辺)であり宮古・八重山なのでしょう。藍い海に青い空、まばゆいばかりの陽 光に白い雲、原色の花々が咲き誇る亜熱帯の森、そんな自然環境自体が都会生活に疲れ切った人々にとって は十分癒しの条件となります。

 でもそれだけでしょうか?今振り返って見れば、其処には日本人が遠い昔に忘れ去ってしまった日本文化 の基層の様な物が脈々と生き続けているからではないでしょうか。特に八重山諸島は日本本土は元より、沖縄 本島からも遠く離れた辺境の地です(でした)。さらに西暦1500年琉球王朝による石垣島オヤケ・アカハチの乱 平定を皮切りに、1522年与那国島征服(此処に登場するのがサンアイ・イソバ)、1609年島津侵攻、1879年琉 球処分、1945年沖縄戦と米軍統治、1972年本土復帰までは被抑圧の歴史が約500年間も続いたのです。悪 名高い人頭税が廃止されたのは、なんと1903年(明治36年)今から約100年前のことです。

 島々の自然環境は、飲料水もままならず農耕に適さない石灰岩の大地、度重なる台風の被害、一村全滅 に至るマラリアの猛威等々、過酷なものが有りました。物質的豊かさを求めるべきもない人々は、生きるすべを精 神世界に求めたとしても不思議ではありません。その心の救いを、仏教やキリスト教などの権力と結びつき新 たな抑圧の構造を生み出す形式化された宗教でなく、祖先崇拝・自然崇拝という一種の原始宗教に求め、さら にこれを村落共同体のアイデンティテイとした所に生存の知恵が有ったのではないでしょうか。

 日本人のいや人類の基層文化は、こうして八重山の人々の心の中に生き続けたのだと思います。現代の 日本人は、心で忘れていても八重山の島々へ行けば、直接DNAへ働き掛けてくる「なにか」を感ずるのではない でしょうか。それが「無意識の癒し」であり、それが故に人々は南の島へ旅立つのだと思います。

 沖縄の文化について書かれた文献は多々有りますが、ここで一つだけご紹介します。「沖縄文化論・忘れら れた日本」岡本太郎・中央公論新社です。その中の「何もないこと」の眩暈(めまい)の章は是非ご一読をおす すめします。これは1959年当時の話であり、その多くは本土復帰後に霞ヶ関官僚の手によって破壊され尽くさ れていますが、まだ幾分かは有形無形で残っているのを感じました。

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 今回は沖縄本島を含め10島を駆け足で回ってきたので、とても島々の深い所までは見聞出来ませんでした が、その中で私なりに気が付いた物を約2000枚程写真に撮ってきました。今までのブログでその極一部を掲 載しましたが、今後写真を見直して何か思い当たる事が有りましたら、ボチボチと拙い文章ではありますがご 紹介したいと思っております。最後に那覇市国際通りの県庁前交差点からお別れします。


小浜島その他あれこれ

2007年06月04日 | 島旅:八重山諸島

 テレビドラマ見たこと無いので「ちゅらさん」って何だか知らないが、小浜島は「ちゅらさん」だらけ。大岳頂上 からは360°の展望が開け、石垣島方面も西表島方面も全部見えるのに、誰も登ってこない。一方この「ちゅら さん展望台」は、西表島方面しか見えないのにこの人だかり。あやかりと、あやかりにあやかる観光客、ヤダネ こうゆう図式は。そう言うお前さんも行ったんだろう・・・ハイッ私も結構ミーハーなもんで。

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 小浜島桟橋ターミナルビル、ここまでくれば駄洒落。

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 島の西の外れの細崎(クバザキ)に有ったマンタの展望台。ここと西表島との間の海がヨナラ水道、マンタの 通り道に成っているらしい。

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 島の路線バスのバス停。ブロック塀に貼り付けてあるだけ。私が行った三月三十一日をもって路線バスが廃> 止になった。港から集落の民宿まで、最後のバスに乗ったのだ。最も人口600人前後、周囲16.6kmの島に路 線バスが有った事自体驚きだが。ちなみに、八重山諸島で路線バスが走っているのは石垣島・西表島・与那 国島のみ。

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 朝一番の高速船で石垣島へ戻り、10:00発のフェリーよなぐにで与那国島へ向かう。与那国島の久部良港 へ着くのは14:30になるので、事前に昼食を買ってから乗船すること。


小浜島から見た海の色

2007年06月03日 | 島旅:八重山諸島

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 小浜島のほぼ中央に有る大岳(うふだき)は、標高99mで頂上に三角点と東屋が有る。ここから嘉弥真島方 向の海を見たらこんな色をしていた。本当にこんな色した海が180°広がっていました。今回八重山諸島で見 た海の中では、最も美しい海の色でした。恥ずかしながらこの私、何も考えず一時間ほどボーッと眺めていまし た。

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 小浜島は酪農家が多く、サトウキビ畑ばかりの他の島とは一味違う風景です。

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 小浜島のこの日の夜、三月三十日PM8:37で気温24°、湿度85%でした。布団に入ったらジメーッとしてい た。翌朝外に干しておいた洗濯物を取り入れたら、一晩干しても半乾き。恐るべし八重山の湿度。


竹富島その他あれこれ

2007年06月02日 | 島旅:八重山諸島

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 竹富港から歩いて集落へ向かえば、東集落の入り口に有るのがこのスンマシャーである。スンマシャーと は、集落の東西南北の入り口にあり、巨木とそれを取り囲むように石垣を積んだもの。風水思想に基づき、病 魔や凶事が集落に入り込まないように設けられたもの。国土交通省(旧建設省)や沖縄県土木課の役人も、こ れには手を付けられない。

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 これは西集落のはずれに有るスンマシャー、この路を進めば西桟橋に出る。ヤマトでは村はずれの道端に 道祖神やお地蔵さんが立っている。似たようなものか。

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 夕陽の絶景ポイントとして有名な西桟橋、この日は全くキレイでなかった。正面に大きく西表島と、手前に重 なって小浜島が見える。昔はここから小舟に乗って西表島まで出かけ稲作を行っていた。その時寝泊まりして いたのがマラリアの無い由布島です。

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 これが赤瓦の集落を見下ろせる「なごみの塔」です。もともとの役割は、この上から連絡事項をメガホンで怒 鳴る放送塔だった。塔の建っている基盤の岩石は琉球石灰岩ではありません。古生代~中生代にかけての硅 岩です。この種の岩石は一括して古生界石垣層群と呼ばれ、石垣島観音崎~竹富島~小浜島大岳~西表島 野原崎へと続いて分布しています。

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 ショウジョウソウとフサナリツルナスビの花


竹富島・・・の補足

2007年06月01日 | 島旅:八重山諸島

 写真帳(デジカメ写真のファイル)を捲っていたら、アッ こんな写真も有ったのか、と新しい写真を見つけた ので補足説明。

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 民宿の門柱の上で睨みを効かせていたボス猫と思われるヤツのUPです。ふてぶてしい顔でカメラ目線。

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 キツネ顔の猫とは、こんな顔です。

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 安里屋のクヤマは美味しい物を食っていたと書いたが、ではその当時の一般庶民は何を食っていたかと言 えばこの通り。人頭税を払うため、朝から晩まで牛馬のごとく働いてこの食事、長生き出来る訳がありません。

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 安里屋クヤマの屋敷跡のヒンプンに書かれてあった「安里屋ユンタ」のでだしの歌詞「安里屋ぬ(の)クヤマ によう、目差主ぬ(の)くゆたらよう」本来の安里屋ユンタの歌詞です。 琉球王朝の地方行政制度は、今の県ま たは複数の市町村をくくった行政単位に相当する「間切」と市町村に相当する自然集落単位の「シマ」から構成さ れていました。各シマには琉球王府から、大屋子(おおやこ)・与人(よひとorユンチュ)・掟(おきて)・目差(めざ し)と呼ばれる役人が派遣されていた。与人は村長相当、目差は助役相当だったらしい。すなわち安里屋のクヤ マは、助役をふって村長の妾(現地妻or賄い女)を選んだと言う訳でした。尚、この「シマ」と言う概念は、沖縄本 島から八重山諸島に至るまで、現在でも生きています。(参考文献「琉球王国」高良 倉吉著)


竹富島の安里屋クヤマ

2007年06月01日 | 島旅:八重山諸島

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 竹富島に住んでいた実在の美女「安里屋クヤマ(1722年~1799年)」生誕の地とされる屋敷跡。「サー、君は 野中のイバラの花よ、サーユイユイ」と歌われる「新安里屋ユンタ(節)」は、昭和九年コロンビアレコードが作っ たもので、本来の八重山民謡とは全くの別物。

 「安里屋ユンタ」には、本場竹富島で歌われていたものと、石垣島で歌われていた物の二通りが有る。前者 の歌詞の内容は、助役クラスの役人から現地妻にとの申し込みが有ったのに対して、先に村長クラスの役人 から話が有ったのでヒジ鉄をくわした、という話。

 後者は、琉球王府から派遣された村長も助役も断り、島のただの男の元へ嫁いだという話で、島の女の心 意気を歌った物で此方の方が有名。でもこれは話の中身が当時の社会の現状と会わないため、明治初期廃藩 置県の後に作られたものであろう言われている。

 本当のところ、美女クヤマは琉球王府から派遣された村長の妾となって末永く幸せに暮らしたとさ、まあ現 実とはこんなもんでしょう。だって、十八世紀の八重山で77才まで生きたんだから、よっぽど美味い物を食ってい たんだろうね。(参考文献「新南島風土記」新川 明著)


竹富島の猫たち

2007年05月30日 | 島旅:八重山諸島

 竹富島には何故か猫が沢山居る。この民宿では、十数匹飼っているそうだが庭先には常時5~6匹姿を見 せている。みな警戒心が強く、なかなか遊んでくれないが中に一匹だけ積極的にスリスリして来るのが居ました な。この猫はシーサーよろしく門柱の上で縄張りを見張り中です。

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 早朝集落を散歩中、同じく散歩中の猫に会いました。なぜかこの界隈の猫は、鼻先がとがったキツネ顔が 多く、みな一族郎党の様だ。

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 コンドイビーチのかき氷屋の車の下で寝ていた猫。別にかき氷屋の飼い猫ではなく唯の野良猫みたい。周り の観光客の存在を完全に無視して、悠然と何処かへ行ってしまった。

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竹富島の三点セット

2007年05月29日 | 島旅:八重山諸島

 八重山諸島の中の超観光地、竹富島については今更申す事も御座いませんが、一応この観光写真三点セ ットを載せておきます。竹富島の街並みは、あまりにも整いすぎ・出来すぎ・やりすぎ・作りすぎで、殆どテーマ パーク化しています。島民の方々の生活感が感じられません。ややこしい事は考えず唯観賞するのみに置い ては「美しい」の一言に尽きますが。

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その1:なごみの塔から見下ろした赤瓦屋根の竹富集落

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その2:朝掃き清められた白砂の路

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その3:コンドイビーチ


石西礁湖

2007年05月28日 | 島旅:八重山諸島

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 石垣島と西表島の間の海を「石西礁湖」といいます。この写真には大小九つの島が写っていますが、全部 解る貴方はかなりの八重山病です。左から石垣島・竹富島・黒島・小浜島・嘉弥真島・上地島・下地島・由布島・ 西表島です。

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 竹富港に上陸すれば、まずはこんな状況に成っています。何もなかった鳩間島から来てみれば、いかに観 光地化された島かを実感します。

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 でもお出迎えは観光業者だけではありません、竹富島はネコの島と聞いていました。家ネコ・野良ネコ・半 野良ネコなどが沢山居るそうです。


鳩間島その他あれこれ

2007年05月27日 | 島旅:八重山諸島

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 鳩間島集落には、決して立派とは言えない民家が多い。中には住居なのか、物置なのか判断に迷う建物も 有る。同宿者の中に、環境調査の仕事で度々八重山諸島へ足を運んでいる方が居たので聞いてみた。「農業 でもないし、漁業をしている様にも見えない、まして観光で成り立っているとは思えない、島の人達は何で生計 を立てているのだろう?」。彼曰く「この辺の島の人達はそんなもんですよ、それで結構生活している」とのこと でした。

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 八重山諸島の中で、銀行の支店が有るのは石垣島の石垣市街地のみ。他の島は郵便局だけで、私も現金 引き出しに利用させてもらった。郵政民営化反対論者ではありませんが、やはり離島に郵便局は必要です。

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 公民館とは広辞苑によれば「・・・市町村に設置され・・・各種事業を行う施設」とある。ここ八重山では「町内 会」または「自治会」の意味です。

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 島の人口を考えると、何でこんなに大きく立派な学校施設が有るんだろうと不思議に思える。確かにこれ は、廃校にはしたくないだろう。

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 かって島の人達の命を支えた古井戸で、今は拝所となっている。

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 何もない島なので、こんな物も結構目に付く。

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 夕方暗くなってから鳩間仲森へ上がってみれば、ヤエヤマオオコウモリがバッサバッサと音を立てて飛んで いる。羽を広げれば40cm以上はあります。椰子の実などをガリガリ音を立てて囓っている。フルーツバットの仲 間なので、全身ムクムクの毛に覆われカワイイ。

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 黒潮に洗われる海洋島なので湿度が高く、朝日もこんな様に見えます。

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 てなわけで、また高速船に乗って西表島経由で石垣島へ戻り、折り返し竹富島へ向かいます。