南風見田(はえみた)の浜の東端の岩場を回り込んだ所に忘勿石の碑が建っていますが、外からは見えま せん。碑の来歴については碑文を読んでいただくとして、「忘勿石」とは「波照間住民よ、この石を忘れるなか れ」の意味だそうです。
マラリアに罹患して亡くなった方84名の名前が、出身毎に左側上下二枚の石版に書かれてあります。 その中に、南出身の「慶田本トミ」の名前が有りました。私が泊まった民宿、けだもと荘の親類の方でしょ うか?(けだもと荘は現在の南集落に有ります)
「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字は、今でもこの碑の右下の岩盤に残っているそうです。後で知りまし た、残念!
強制疎開を命じた山下軍曹の名前は、竹富島でも80才半ばのご老人からも聞いた様な気がします。よほど 悪名高い人物だったようですな。終戦後生きながらえ、天寿を全うしたそうです。
尚、この件につき詳しい歴史を知りたい方はネットで「波照間島ー忘勿石ー終わらない戦争ー強制疎開ーマ ラリア事件ー」などのキーワードを検索して下さい。
大原から西へ向かうと豊原の集落、そこに有る真新しい記念碑。「豊原入植50周年記念」とある、そう此処 は戦後出来た集落なのです。琉球王朝時代から戦前に至るまで、何度も入植に挑みましたが、その都度マラリ アのため撤退の憂き目に遭ってきたのです。戦後に米軍主導でマラリアの撲滅に成功し、始めて定住が可能 となりました。
八重山諸島の内、石垣島や西表島などの山地地形が有り水が豊富な高島は、蚊の大量発生に不可欠な 水溜まり多く、マラリアが蔓延していたのです。このため水資源の豊富な西表島であっても、定住化が進まず集 落が発達せず、または次々と廃村になってしまいました。
豊原集落の日本最南端のバス停です。ここから西部の白浜まで島を三分の二周して一日六便、片道一時 間四十分の路線バスが走っています。私が乗ったときは観光客しか居らず、ガラガラの状態でした。
豊原の集落を過ぎれば県道215号線の終点です。この先は簡易舗装の道が南風見田の浜まで続きます。 途中に忘勿石の碑への分岐点が有り、看板が出ています。道成に林の中を進めば南風見田の浜へ出ます。
約1.0kmに渡って続く美しい南風見田の浜、漂流物が全く有りませんでした。細かいサンゴの砂にサンゴの 欠片だけです。浜辺に見える岩は津波石、明和の大津波(1771年)または2000年前の津波によって打ち上げ られた琉球石灰岩の塊です。明和の大津波では、宮古・八重山地方で一万二千人の人が亡くなったそうで す。
実は、西表島では特に目新しい話は無い。大きな島の割に、観光客の行く(行ける)場所が限られている。 ①海へ潜る②遊覧船に乗る③大原~白浜間の県道を車で走る④お決まりのツアーに参加する、ぐらいの選択肢 しか無い。なぜなら、古見・星立・祖納などの戦前からの古集落が一部に残っているものの、その他は戦後入 植した歴史の新しい島であること。西表国立公園であるため、浦内川から大富へ抜ける横断道以外には、島 内へ分け入る道が無い。上原周辺に集中して観光地化が進んでいる、他にはほとんどなにもない。したがっ て、私のように人の行くところには行きたくない、と言うアマノジャクには行く所が無い。かと言って、一人でジャ ングルの中へ踏み込んで行く気力も体力も無し。と言う訳で、この島は6日間で早々に引き上げた。まずは大 原集落周辺の観光写真から。
大原の集落から南風見田の浜へ向かう途中から見えた海。視界が良ければ水平線上に波照間島が見える のだが。サトウキビ畑に青い海、お決まりの観光写真です。
ノゲイトウの群落とサトウキビ刈り、向こうに見えるは黒島か新城島か?今回この二島へは行かなかった。
大原の集落から5km程西へ行くと南風見田の浜へ出る。画面左の岩を回り込めば、忘勿石の碑が建ってい る。知らないで行くと「無いじゃないか!」ということになる。
大原港から見た朝日です。
古民家とは言っても、この程度の建物はまだ幾らでも残っています。さらに現役の住居として利用されてい る。竹富島の様に意識的に保存しているのではなく、実際の生活空間で有るが故に手つかずの古い集落の形 態が残っているのです。八重山諸島の中では、波照間島の集落が最も自然な形で保存されています。竹富島 なぞは、ほとんどテーマパーク化されていて、かえって不自然な感じを受けます。
毎晩泡盛を買いに行った南共同売店です。共同売店とは雑貨屋であり、経営形態は本土の生協の様なも ので各集落に一軒ずつ有ります。名石集落の共同売店では弁当を売っています。ちなみにコンビニは有りませ ん。
幻の島酒と言われる「泡波」を製造している波照間酒造所です。この看板が無ければ唯の民家と区別付き ません。聞くところに寄りますと、従業員(家族?)三人だけで製造しているとのこと。島酒は島民が飲むもので、 大量生産して儲けてやろうと言う気はサラサラ無いようです。
冨嘉集落の畑の中に有った古い亀甲墓です。農地改良によって、今では畑の中にポツンと有りますが、か っては鬱蒼とした森の中に有ったのでしょう。集落以外は、農地改良によって全島真っ平らなサトウキビ畑に成っ てしまっています。霞ヶ関の農林官僚は、南の果ての島でここまでやるかと唖然として見てきました。
灯台が本当にサトウキビ畑の中に建っているのです。
現在波照間島の上水は、この海水淡水化施設から全集落へ送られています。海水淡水化とは言っても、若 干塩分の混じった地下水を脱塩しているだけです。取水施設は、大泊浜とシムスケー井戸の中間付近の海岸 に掘られた井戸です。夏場に取水量が増えると、井戸の水位が低下し海水が多く混じるため、節水に努めるよ う広報が流れるそうです。現在使用中の井戸は、カギの掛かった小屋の中に有りますが、使用中止になった 昔の井戸を見せてもらいました。水位は地表面から-5.0~-6.0m程度か。この井戸は島民がノミとカナズチで手 掘りしたそうです。
この取水ポンプ小屋から数十m東側の林の中に、時代不詳の古井戸が有りました。暇なオジサンの説明に よれば、この井戸は「ウダチ井戸」と言って子供の頃は毎日ここから水を汲んで運んでいたそうです。「美味い から飲んでみろ」と言って汲んでくれたので飲みました。非常に濃いミネラルウオータの感じ、甘い味がするの は僅かに塩分を含んでいるからでしょう。宿へ帰ってオカミサンに「古井戸の水飲んできました」と言ったら「あ んな汚い水飲んだらだめさー」、いいえシムスケー井戸ではなくウダチ井戸です、「あれなら飲める」と言われた ので一安心。そばに紐の付いたバケツが置いてありますので、何方か訪れたときには飲んで見て下さい。昔 の島民の生活、離島苦の片鱗を体験できます。
波照間島で砂浜と呼べるような浜は、この四箇所しか有りません。浜の名前を漢字で表記した場合と、読み 方が非常に紛らわしいので、方位の方言名について一講釈。特に私のように、トン・ナン・シャー・ペー・ハク・ ハツ・チュンが頭にこびり付いている人間にとってはなおさら。
東 西 南 北
沖縄本島 アガリ イリ ヘー ニシ
宮古諸島 アガル イル パイ ニシ
八重山諸島 アール イール ハイ ニシ
与那国 アガリ イリ ハイ ニチ
夕陽が最も美しいと言われるニシ浜(北浜)、連日曇りで滞在中は見えませんでした。
小振りながら波打ち際の曲線が美しいペ浜(南浜)、ここを南と呼ぶのは民俗方位でしょう。
ぶりぶち公園を下った所に有るブドゥマリ浜(大泊浜)、古代の船着き場だったらしい。
南の海岸に有るペムチ浜、漢字名は解りません。