![]() | 甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯門田 隆将講談社このアイテムの詳細を見る |
【一口紹介】
◆内容紹介◆
『甲子園への遺言』は、平成16年7月1日、多くの野球人、生徒たちに惜しまれつつ世を去った、不世出の打撃コーチ・高畠導宏氏の生涯を描いたノンフィクション作品です。
高畠氏は古くは南海の藤原、ロッテの落合、高沢、西村、そして最近ではイチローや田口、小久保など、数多くの名選手を育てたプロ野球界伝説の打撃コーチです。多くのプロ野球選手たちが彼に教えを乞い、30年にわたって第一線の選手たちの技術面と精神面の支えになりつづけました。
ところが、その高畠氏は五十代半ばにして一念発起をします。
通信教育で教職の勉強をはじめ、プロ野球球団のあまたの誘いを蹴って高校教師の道を選んだのです。
そして、平成15年春、福岡県の私立筑紫台高校に新人教師として着任します。社会科教諭として教鞭をふるう一方、野球部を甲子園に連れて行きたいと考えたのでした。
諦めや疲労感に支配される五十代に、なかなかできることではありません。ところが、長年の無理がたたったのでしょう。高畠氏の体はそのとき重大な病気に冒されはじめて……。
こんなに凄い高校教師がいた!──高畠氏はなぜ転身を決意し、そして、そうまでして高校生たちに何を伝えようとしたのでしょうか。
◆内容(「MARC」データベースより)◆
プロ野球でのべ30人以上のタイトルホルダーを育てあげ、50代で一念発起して教員免許を取得。
社会科教師として教壇に上がり、「甲子園」を目指した天才打撃コーチが、教え子たちの心の中に遺したものとは…。
◆著者からのコメント◆
昨年6月30日、私はプロ野球界伝説の打撃コーチ、高畠導宏さん(享年60)を飯田橋の厚生年金病院に見舞いに行き、そしてわが目を疑った。
目の前に横たわる高さんは、すでに意識を失い、無呼吸状態に陥っていたのである。
前夜突然の危篤。
傍らでは、妻の聡子さん、息子の陽平君が泣き、岡山から上京してきた兄・謹也さん(66)が、意識のない高さんに語りかけ、肩を揺さぶっていた。
5月上旬に癌で「余命6か月」の宣告を受けて僅か7週間。
連日、プロ野球界の教え子たちの見舞いを受け、明るく気丈に振る舞っていた高さん。
しかし、大学の後輩でもあり、高さんに最後の本を託されていた肝心の私は、高さんが胸に秘めていた思いを聞く前に、本人の生命の灯が突然尽きてしまったのである。
余命6か月の診断を信じた自分の愚かさに対する怒りと、高さんへの申し訳なさが、その後の取材にかけるエネルギー源となった。
南海の藤原、ロッテの落合、最近ではイチロー、小久保や田口、福浦といった名選手を育てたこの天才打撃コーチは、誰もが疲労感やあきらめに支配される50代に一念発起し、通信教育で教員免許をとり、社会科教師として教壇に上がり、甲子園制覇を目指した。
敵ベンチに盗聴器までつけて戦った諜報野球全盛時代のプロ野球。
その中で生きた高さんは、投手の手首の腱に出る皺や、グローブの微妙な角度から球種を読みとる天才だった。
そして、あらゆる創意工夫と洞察力によって、独特の練習法を編み出し、実に7球団で打撃コーチとして手腕を発揮する。
そんな高さんは、なぜ最後に日本野球の原点・高校野球に帰っていったのか。
語ることなく逝った高さんの「遺言」を探す旅は一周忌の日、300を超す本となった。
旅の過程で、「俺だけの先生」を涙ながらに語るプロ野球のスター選手や高校の教え子に出会った。
「人を教えるのではなく、育てた男」。
これほどまでに懸命に生きた生涯を私は知らない。
◆著者◆
ジャーナリスト。1958年、高知県生まれ。中央大学法学部卒。雑誌中心に、政治、経済、司法、事件、歴史、スポーツなどの幅広いジャンルで活躍しています。
著書に、『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)、『ハンカチ王子と老エース』(講談社)があります。
【読んだ理由】
テレビドラマ化もされた話題のベストセラー。
【印象に残った一行】
とにかく選手をほめるのである。ほめてほめてほめまくる。たとえたくさんの欠点が目についても、その選手のよさを探し出してほめまくるのだ。短所を直すより先に長所を伸ばし、そして、気がつくといつの間にか欠点が克服されている。それが、高畠の指導法だ。
【コメント】
プロ野球ファンであるが、同郷のしかも同じ倉敷市出身の伝説の打撃コーチ高畠さんの存在を生前私はあまり知らなかった。
50歳を過ぎて通信教育で教員免許をとり、甲子園での優勝目指し高校教師となり、突然の病魔に冒されこの世を去った彼の無念を思うと胸が熱くなった。

