9:市川男女蔵の奴一平
寛政六年五月河原崎座上演の「恋乳房染分手綱」による奴一平の役で、伊達の与作に味方をする役柄である。この絵は俗に「赤襦袢」と呼ばれている。この赤襦袢がこの絵を派手にしているし、歌舞伎の立回りの一瞬の兄得がまた派手にきまった形となっている。この絵では、男女蔵の表情を見るべきである。つまり立回りの場面の真剣な表情である。相手を見すえて、一刀を斬りつけようとする瞬間の緊張が顔面にあらわれている。それと同時に寛政元年に元服したという男女蔵の若さが、口もとにも、顔の輪郭にも、鼻の下からアゴにかけての線にも、はっきりととらえられている表現力にも驚かされる。そしてさらに、写楽はこの若い男女蔵を愛情をもって描いているように思われる。そこに絵全体に清新な、ほのぼのとしたものが感じられる所以がある。
市川男女蔵は、五世市川団十郎の門人で、若くして名声を得、文化文政時代の名優とうたわれ、文政六年には実悪(じつあく)の「功上々吉」にまでなった。天保四年六月、五十三歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寛政六年五月河原崎座上演の「恋乳房染分手綱」による奴一平の役で、伊達の与作に味方をする役柄である。この絵は俗に「赤襦袢」と呼ばれている。この赤襦袢がこの絵を派手にしているし、歌舞伎の立回りの一瞬の兄得がまた派手にきまった形となっている。この絵では、男女蔵の表情を見るべきである。つまり立回りの場面の真剣な表情である。相手を見すえて、一刀を斬りつけようとする瞬間の緊張が顔面にあらわれている。それと同時に寛政元年に元服したという男女蔵の若さが、口もとにも、顔の輪郭にも、鼻の下からアゴにかけての線にも、はっきりととらえられている表現力にも驚かされる。そしてさらに、写楽はこの若い男女蔵を愛情をもって描いているように思われる。そこに絵全体に清新な、ほのぼのとしたものが感じられる所以がある。
市川男女蔵は、五世市川団十郎の門人で、若くして名声を得、文化文政時代の名優とうたわれ、文政六年には実悪(じつあく)の「功上々吉」にまでなった。天保四年六月、五十三歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』