11:嵐竜蔵の金貸石部金吉
この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する役で、敵討をする石井兄弟に助力する田辺文蔵の貧家に借金のとりたてにくる強欲な金貸しの役であるが、その因業さがその顔面によく描写されている。真一文字に結ばれた口、アゴの皺、そして両目のにらみと、袖をまくりあげた左手の構え、まさに迫力のある描写といえる。顔面、姿態のこの迫真の描写によって、画面の大部分を占めている黄八丈の着物の単調さが、むしろ効果を与えていると思われる。しかも、襦袢の黒襟が、強く画面を引きしめている。写楽の描写力と役柄の把握力が端的にみられる作品といえる。
嵐竜蔵は、実悪方として、当時は「上上白吉」(上上吉に届かないため吉の字を白抜きにしたもの)の位を与えられていた役者で、写楽はその特異な渋い風貌を好んだらしく、他にもこの役者を描いている。この竜蔵は寛政十年に三代目嵐七五郎を襲名しているが、その年の十一月に三十八歳で没したから、顔とちがって年齢的には若く、竜蔵このとき三十四歳であった。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する役で、敵討をする石井兄弟に助力する田辺文蔵の貧家に借金のとりたてにくる強欲な金貸しの役であるが、その因業さがその顔面によく描写されている。真一文字に結ばれた口、アゴの皺、そして両目のにらみと、袖をまくりあげた左手の構え、まさに迫力のある描写といえる。顔面、姿態のこの迫真の描写によって、画面の大部分を占めている黄八丈の着物の単調さが、むしろ効果を与えていると思われる。しかも、襦袢の黒襟が、強く画面を引きしめている。写楽の描写力と役柄の把握力が端的にみられる作品といえる。
嵐竜蔵は、実悪方として、当時は「上上白吉」(上上吉に届かないため吉の字を白抜きにしたもの)の位を与えられていた役者で、写楽はその特異な渋い風貌を好んだらしく、他にもこの役者を描いている。この竜蔵は寛政十年に三代目嵐七五郎を襲名しているが、その年の十一月に三十八歳で没したから、顔とちがって年齢的には若く、竜蔵このとき三十四歳であった。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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