39:四世松本幸四郎の新口村孫右衛門 中山富三郎の梅川
この図は、寛政六年八月桐座上演の二番目狂言、近松の梅川忠兵衛の「冥途の飛脚」を書き替えた「四方錦故郷旅路」の新口村の段を描いた作である。
恋ゆえに金につまって封印切りの大罪を犯してしまった亀屋忠兵衛は、恋人傾城梅川と死出の旅に立つ。
最後の一月、実父新口村の孫右衛門に会いたいと親里を訪ねる。
そこではからずも、孫右衛門に出会い、もちろん孫右衛門は梅川とは知らなかったが、草履の鼻緒の切れたのを直したり、何くれとない親切に、これが息子に大罪を犯させた梅川と知り、追っ手を逃れる抜け道をそれとなく教えて二人を落としてやるという情味豊かな場面である。
その二人の心の交流が、この絵にはあふれている。
ことに富三郎の姿(演技といってもいい)に、舅につくす心情が、こよりをよる指先にまでにじみ出ている感じで、
そこには遊女でいながら遊女らしくない、女としての美しさが見られるところに写楽の偉大さがある。
役者を描き、その役柄の心情までも描写しているこの作品は傑作の一つといっていい。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、
忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、
現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この図は、寛政六年八月桐座上演の二番目狂言、近松の梅川忠兵衛の「冥途の飛脚」を書き替えた「四方錦故郷旅路」の新口村の段を描いた作である。
恋ゆえに金につまって封印切りの大罪を犯してしまった亀屋忠兵衛は、恋人傾城梅川と死出の旅に立つ。
最後の一月、実父新口村の孫右衛門に会いたいと親里を訪ねる。
そこではからずも、孫右衛門に出会い、もちろん孫右衛門は梅川とは知らなかったが、草履の鼻緒の切れたのを直したり、何くれとない親切に、これが息子に大罪を犯させた梅川と知り、追っ手を逃れる抜け道をそれとなく教えて二人を落としてやるという情味豊かな場面である。
その二人の心の交流が、この絵にはあふれている。
ことに富三郎の姿(演技といってもいい)に、舅につくす心情が、こよりをよる指先にまでにじみ出ている感じで、
そこには遊女でいながら遊女らしくない、女としての美しさが見られるところに写楽の偉大さがある。
役者を描き、その役柄の心情までも描写しているこの作品は傑作の一つといっていい。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、
忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、
現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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