40:都座楽屋頭取(篠塚浦右衛門)口上図
この図は、都座の楽屋頭取(多分篠塚浦右衛門)が舞台で口上の巻をひろげてつぎに上場する狂言や役者名、役名を読み上げている図である。
楽屋頭取とは、こうした口上の読み上げのほか、楽屋全体の取締りや舞台の進行をはかる役目であって、かつては一流の役者ではないが芝居のこと、故実やしきたりのことに精通し、そのうえ役者たちにも顔のきく古参の役者がこの位置につくのである。
この図を見ても、その顔面描写に、その年輪のほどがうかがえて、まことに写楽の顔面描写の卓抜さには驚嘆すべきものがある。
世界の肖像画家としての技量は、この一図だけでも認められていい。
しかもこの絵は僅かに柿色の裃と藍地の単衣だけの色彩である。
それでいて、絵にこれだけの厚みと奥行きがあるのである。
巻の裏からすけて見える文字は、「自是二番目新板似顔奉入御覧候」とある。
これによって、本図は、第一期につづいて、第二期作品の序図と見るべきである。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この図は、都座の楽屋頭取(多分篠塚浦右衛門)が舞台で口上の巻をひろげてつぎに上場する狂言や役者名、役名を読み上げている図である。
楽屋頭取とは、こうした口上の読み上げのほか、楽屋全体の取締りや舞台の進行をはかる役目であって、かつては一流の役者ではないが芝居のこと、故実やしきたりのことに精通し、そのうえ役者たちにも顔のきく古参の役者がこの位置につくのである。
この図を見ても、その顔面描写に、その年輪のほどがうかがえて、まことに写楽の顔面描写の卓抜さには驚嘆すべきものがある。
世界の肖像画家としての技量は、この一図だけでも認められていい。
しかもこの絵は僅かに柿色の裃と藍地の単衣だけの色彩である。
それでいて、絵にこれだけの厚みと奥行きがあるのである。
巻の裏からすけて見える文字は、「自是二番目新板似顔奉入御覧候」とある。
これによって、本図は、第一期につづいて、第二期作品の序図と見るべきである。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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