阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

ゆすらうめ(山桜桃梅)の実は酸っぱくておいしい

2013年05月27日 | 花・草・木・生き物
今年は実が大きく、数も沢山なりました。おさなが楽しみに食べています。
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朧月の花が咲きました

2013年05月27日 | 花・草・木・生き物
多肉植物の“朧月”は耐寒性が強く、冬季に露地に置いても神戸では問題ありません。また茎を挿せばいくらでも増えます。
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神戸市のマンホールのふたシリーズ

2013年05月27日 | 神戸あちこち
5月25日、建築協定連絡協議会の総会があって三宮の井門三宮ビル(旧三宮三和東洋ビル)の11階の貸会議室へ行きました。
ビル近くの神戸市役所の対面の歩道で、初めて見るマンホールの蓋に気がつきました。
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楠公武者行列  見てきました ふうっ

2013年05月27日 | 神戸あちこち
コース後半の元町大丸前や元町商店街で行列を見物しました。馬上の井戸兵庫県知事や行列の皆さんはもうかなりくたびれ果てておられました。
おそらくこの長いコース設定は、スポンサーの要望を取り入れてこう決まったのでしょうが、休憩時間をいれても6時間という長丁場は無理があるのでは。
 午後3時の時間帯となれば、祭りとも言えず、パレードとも言えず・・・。やはり湊川神社まで行かないといけないのでしょうね。

(この画像は湊川神社のHPから借用した5年前の写真)
 久しぶりに沢山の馬を目の前で見ることが出来たのは幸いでした。この馬たちの動員もご苦労があったと思います。







 驚いたのは兵庫県警が出した警官の数の多さです。この警官動員数の多さではなるほど5年に一回しか挙行出来ないだろうということと、アメリカのマラソンサイトでのテロが影響しているのかなと思いました。そうであっても、県知事・ガヴァナーが群衆の中を、すぐそこに馬に乗って通過しても、SPが横についている訳ではありません。
 アメリカと違って一般人がピストルやライフルを持てない国のお偉方の安全確保は、楽なもんだとも思いました。



神戸新聞NEXTから。
湊川神社の楠公武者行列

 湊川神社のHPから一部引用:

 楠公さんで親しまれている湊川神社(みなとがわじんじゃ)には、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の命に応えられて建武中興(けんむのちゅうこう)に大いなる功績を残された楠木正成公(くすのきまさしげこう)(大楠公(だいなんこう))をはじめ、御夫人、お子様正行公(まさつらこう)(小楠公)、弟君の正季卿(まさすえきょう)等御一族十六柱と菊池武吉卿(きくちたけよしきょう)がお祀りされています。

 湊川神社は、明治5年、殉節(じゅんせつ)された5月25日をもって御鎮座となりました。そしてこの日の新暦7月12日が例祭日(れいさいび)(官祭)と定められ、これに対して5月25日には、氏子等が賑々しく執り行う私祭としての楠公祭が行われることになります。そして明治7年には神輿渡御(みこしとぎょ)が行われ、大楠公を大将とする騎馬武者がこれに供奉したのです。これが御神幸楠公武者行列のはじまりです。

この武者行列は、今から670年以上も昔、建武中興に大いなる功績を残された大楠公が隠岐から御還幸(ごかんこう)の後醍醐天皇を、この神戸の地でお迎えし、京都へ先導された最も晴れやかなお姿を称えて行われてきた行列です。 殊に昭和10年の大楠公殉節600年祭の折には、大楠公を景仰(けいぎょう)する人々によって全国的に神社への崇敬も広がりました。この年5月24日~26日の3日間に行われた楠公祭は、機運が最高点に達したかのように、かつてない盛大且つ殷賑(いんしん)を極めた祭となったのでした。

 この年の楠公武者行列では、それまでの行列の姿を大きく変えたのです。なぜなら、南北朝当時の有職故実(ゆうそくこじつ)に即するよう、専門家による厳密な時代考証が行われたのです。そして、衣裳や武具などが出来るだけ往時そのままに新調整備され、実に巨額にのぼる氏子崇敬者の協賛によって一大行列の行装が整ったのです。

新しい装備の楠公武者行列を評して「延元(えんげん)の昔を髣髴(ほうふつ)せしめる南朝の時代風俗を如実に描き出した絢爛豪華な古典絵巻は、蜿蜒(えんえん)三十余町に亘る総勢三千余名の大行列」となり、「沿道の人出五十万人と称せられ」る中を行進、「おそらく空前絶後の武者絵巻を展開」と、その日の新聞(神戸新聞など)が報じているほどとなりました。それが当時の神社"楠公さん"への崇敬の現実の姿であったといえましょう。
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