諏訪湖面の氷がせり上がる御神渡り(御渡り)の判定と神事をつかさどる八剱神社(諏訪市小和田)は「小寒」の6日朝、諏訪湖の結氷状況の監視を始めた。
宮坂清宮司や宮坂平馬大総代、氏子総代ら18人が集まり、同市豊田の舟渡川河口で湖面を観察して水温を計った。宮坂宮司は「今季は温かい気候が続いたが、
大寒に向かって結氷し、御神渡りが現れると期待したい」と2季連続の出現を願った。
年末年始の諏訪は平年よりも強い冷え込みが続いていたが、この日の最低気温は平年より高い氷点下3・4度で、湖面は波立っていた。宮坂宮司は
「小寒にしては例年より寒くないが、風が強いので体感温度は低く感じる」と述べた。監視役を務める渋崎地区総代の笠原清一さん(61)は
「これからの冷え込みに期待したい。全面結氷したらうれしい」と話していた。
日本気象協会長野支店によると、諏訪は10日に平年より冷え込み、11~14日ごろは平年並みの寒さが続くと予想している。
御神渡りは、諏訪湖が全面結氷し、氷点下10度近くまで冷え込む日が2、3日続くと現れる。昼夜の寒暖差で氷が膨張と収縮を繰り返し
隆起する。昨季は厳しい冷え込みで5季ぶりに出現した。
2016年01月01日 | 身辺あれこれに掲載
八剱神社(クリック)は阿智胡地亭家の本貫の地の産土神(うぶすなかみ)です。つまり小和田地区の氏神さまです。
八剱神社は諏訪大社の摂社ですが、今年は諏訪大社は7年に一度の御柱祭の年に当たります。
八剣神社は諏訪市小和田(こわた)にあります。諏訪が豊臣軍に占領されていたとき、秀吉の命を受けて配下の武将「日根野高吉」が
諏訪湖の中にあった「高島」という島に城を築きました。その城が高島城です。八剣神社は高島の島内にあった島民の氏神ですが、
島民が高島から現在の小和田の地に移された時、神社もともに移設されました。 この立ち退きのとき、島民は日根野氏と巧みな交渉を行い、
諏訪湖全域の漁業権と、新たに広大な農地を獲得しました。我が家の先祖はこの半農半漁の島民の一人だと聞きます。八剣神社はまた、
古来より諏訪大社の摂社(筆頭子社)で、諏訪湖の冬の自然現象“御神渡”を検定し、諏訪大社に出来を報告する役割を担ってきました。
小和田に移った住民は、移住以来、藩主(日根野氏が他に移ったあと、諏訪氏が戻り、明治のはじめまで諏訪氏が殿様だった)の支配を受けず、
行政は住民の自治によって行われました。諏訪湖から湧く温泉を引いた共同浴場で、裸の住人たちが侃々諤々論議を戦わせ、祭の拠出金や
揉め事など自分たちで全てを決めていったそうです。
私も小学生のころ、夏休みに諏訪に行ったとき、まだ使われていた大きな共同風呂にイトコたちと入った楽しい思い出があります。
八剱神社の由緒 Wikipediaから部分引用。
当社は元々、諏訪湖中高島の里に鎮座していたが、豊臣秀吉の高島城築城に際し、現在地に遷座した。江戸時代には高島藩諏訪家が居城鎮護の神として崇敬し、
明治以降は小和田村の産土神として庶民からの信仰を集め現在に至る。
諏訪湖御渡神事[編集]
当社の特殊神事として、御渡神事(みわたりしんじ)がある。「御渡り拝観の神事」として一般に知られているこの神事は、当社の神職によって行われる。(御神渡も参照のこと)
諏訪湖で御渡が観測されると、当社では臨時の総代会を開き、拝観式の日を決める。その後、宮司以下神職、および氏子総代は、自宅の門戸に注連縄を張り、
精進潔斎に入る。拝観式当日は、まず社殿で修祓を行い、諏訪湖へ向かう。現地では湖周を周り、一之御渡・二之御渡・佐久之御渡を拝観して下座と上座の
湖岸地点の検分を行なう。そして、社殿へ戻り、御渡の状況を祭神へ報告する「奉告祭」が行われる。引き続き、その状況により当年の農作物の作柄、
世の中の吉凶、気候等の年占が行われる。御渡の状況と年占の結果は「注進状」に纏められ、後日、宮司と氏子総代が諏訪大社上社へ出向いて「御渡注進式」を行い、
神前に捧げられる。これを受けて諏訪大社は、この内容を宮内庁と気象庁へ報告する恒例となっている。(かつては幕府に奉告されていた)
直近では2013年にこの神事が行われ、1月22日御渡を観測・臨時総代会、1月25日拝観式、2月17日注進式の日程で行われた。
なお、「奉告祭」と「注進式」は御渡の観測されない年でも行われ、「御渡は無かった」旨の報告がなされる。
特に、御渡の無かった年の諏訪湖は「明けの海」と呼ばれる。/font>
そのまま残っているそうです。