阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

スコットランドのグラスゴーで見た倒産した造船所の跡と中華レストランの香港から来たボーイたち。     昭和50年代の海外あちこち記   その21  

2025年02月19日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)ある国際入札案件のコンサルタントがグラスゴーにある会社だったので、応札技術仕様の確認のため事業部の技術者チームとスコットランドに行きました。

グラスゴーでホテルからコンサルの事務所まで海岸沿いをタクシーで走りました。20分ほど走る間、高い塀で囲まれた工場がず~っと続きました。

塀の上から造船用と思えるタワークレーンが幽霊のように数十台も見えました。

 タクシーの運転手にこれは何ですか?と聞いたら、

「日本の造船会社が安値で船の注文を全部取っていくので潰れてしまった造船所さ、俺もここに勤続24年だったけど。

会社はクレーンを解体する金もないからそのままだよ」と言われ、その後、車の中はシーンと沈黙のままコンサルに着きました。

 

2)仕事が終わって夜、同行の人達とグラスゴーで一番と言われる中華料理の店に行きました。

確か中国本土が各国との公式国交回復の前の時期で、近くの席に黒っぽい人民服に身を固めた中国本土の政府幹部らしい集団が話もせず黙々と食事をしていました。

 異様な感じでした。

ナイフとフォークを使い、西洋皿で中華を食べさせる西洋レストラン式の中華料理店は後にも先にも初めての経験でしたが、

  ネットから引用の参考画像。当時の写真ではありません。

10人以上いるボーイは全員中国人で、聞くと3年契約で香港のコック・ボーイ派遣会社から来ているとのことでした。

 こんな遠くまで出稼ぎとは中国人はタフな連中やなとそのとき思いましたが、その後 アメリカに出張したとき、

ロスアンジェルスの日本料理屋で着物姿の仲居の女性と話をしたら 名古屋の板前・仲居派遣会社から何年か契約で来ていると聞き、

日本人も同じなんやと思いました。その頃急激な円高傾向の時期でドル払いの契約で来ているので

「なんしにアメリカまで出稼ぎに来たんやろ、これなら日本で働いていた方がまだましやったに」と彼女は嘆いていました。

 グラスゴーの造船所跡に関するサイト

画像引用元

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