貴重な鳥観図は花の四日市スワマエ商店街さん(click)から引用。
図の中の「第二埋立地」の中の千歳橋を渡って海に向う道に面して一群の工場付随社宅があった。その社宅の一つで私は生まれた。
図にはすわや諏訪神社や熊沢製油などの文字も見える。
2017年10月に現地で撮影⇒こちら(click)
ここで家族が暮らしたのは24時間操業の工場の隣にあった社宅だった。
当時工場全体の設備担当だった技術屋の父が設備のトラブル発生時に真夜中でも数分で駆けつけるためにその社宅に長く住んでいた。
街中や住宅地ではない工業地域にある社宅だったので近所に幼稚園もなく、私自身世の中に幼稚園というものがあることさえ知らずに育った。
1月12日 追記
四日市高校の先輩Oさんからこのエントリーを見てメールを頂いた。
「珍しい古地図をありがとう。
昔話
あの工業地帯には海軍の燃料廠があったので終戦直前に大空襲があった。
昭和20年6月20日夜のことですが、B29の30機編隊が襲来し、市街地は一晩で焼野原になったね。
小生は第一国民学校に入学2ケ月目だった。」
阿智胡地亭は就学の前年に父の転勤で四日市を離れ、西宮市仁川を経て若松市立(現北九州市若松区)島郷小学校に入学、尼崎市立塚口小学校に4年生で転校し
小学校6年生の時に再度四日市に転居した。四日市では今は廃校になった納屋小学校から港中学にすすみ憧れの三重県立四日市高校に入学したが
また父の転勤で四日市高校はわずか1年の一学期のみの通学で兵庫県立芦屋高校へ転校せざるを得なかった。
従って自分は四日市高校の卒業生でもないのにOさんを高校の先輩と申し上げるのは間違いかも(笑)。
参考 :
四日市空襲
概要[編集]
- 海軍第二燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市は、アメリカ軍の重要攻撃目標とされた。
- 1945年(昭和20年)6月18日午前0時45分、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下。
- 人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化した。
- 以後、8月8日まで合計9回の空襲を受け、海軍燃料廠をはじめとする工場群は壊滅的被害を受けた。
- 全空襲による人的被害は、被災者49,198人、死者808人、負傷者1,733人にのぼった。
日程[編集]
- 空襲のあった日は昭和20年6月18日、22日、26日、7月9日、24日、28日、30日、8月2日、8日の計9日間であった。