阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

有楽町の「さがみ」で旧知の三人が40年ぶりに飲んだ。 1月24日長野県歌「信濃の国」について 記事追加

2020年01月19日 | 東京あちこち

昭和40年代の中頃に三人は大阪支社で部門は違ったが、同じフロア―で勤務していた。そして昭和50年代には神田の美土代事務所で働いていた。

その頃のある休日に三家族はそれぞれの子供を連れて秋川渓谷で一日楽しく遊んだこともある。うちの一家は千葉県流山市の南柏の会社のアパートから出かけた。

 1月某日その三人が午後三時半にJR有楽町国際フォーラム口で落ち合って、定年退職者の昼のいろんなグループの一杯会の集まりでいつも満員で賑やかな「さがみ」へ向かった。

     ちょっと早くついたので駅の周辺をぶらぶらした。

「さがみ」は新有楽町ビルの地階にある。

この店には「真澄」があるのでオーダーした。話はあの人は今どうしてるとか、“赫赫”たる病歴の数々とか近況とか話は尽きず

楽しく時間を過ごした。結果、真澄の量は〆て一升四合だったとか!、いやあ お二人は強い!!

 

生垣さんから「千字文」と「信濃の国」の額装を頂いた。書の資質は自分には全く欠落しているので生垣さんの作品には感嘆するしかない。もう趣味の域ははるかに越えているのでは。

3人ともに信濃の国になんらかの縁があるので「信濃の国」を書いたとのことだった。

千字文とは、中国の梁(りょう)の時代に、武帝(在位502年~549年)が周興嗣(しゅうこうし)に命じて作らせた、文字習得のための教材です。

書聖と呼ばれた能書家、王羲之(おうぎし)の筆跡を模写して作られ、書道の手本として広く利用されました。

1000字の異なる漢字を使い、250の4字句からなる韻文で構成されています。(ネットから引用)。

信濃の国』(しなののくに)は、長野県県歌である。1900年明治33年)発表。

作詞は旧松本藩士族の浅井洌1849年 - 1938年)、作曲は東京府出身の北村季晴1872年 - 1930年)により、1900年明治33年)に成立した。

元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれている。(wikipediaから部分引用)

追加記事

2006年01月20日(金) ブログ「阿智胡地亭の非日乗」掲載。


[信濃の国]と言う歌

ある仕事の関係もあり、一時期、近畿長野県人会に入会していたことがあります。(長野県生まれでなくても、出身者の2世の入会は認められていました。)集まりがあると、会の席の配置が面白いといつも思いました。
 長野、松本、伊那、佐久、飯田、諏訪と言うように、盆地ごとに分かれて卓が作られるのです。遠い昔からこの各地はお互いに張り合って、何事も競ってきたのだそうです。
 ところが会の終わりには、間違いなく必ず皆が仲良く心を一つにして斉唱する歌があります。それが[信濃の国]です。
 聞いたことはありますが、私は歌えないので口パクでお茶を濁しましたが、山国信州から出てきて、浪速の街で長年商いをして生き抜いてきた60、70歳代の男女の会員のお顔はいつも晴れ晴れと嬉しそうでした。
 県の中ではそれぞれの盆地は、他とはあまり仲が良くないそうですが、日本の県では接する他県が一番多いと言う県なので、外部に対しては負けないように団結して信州人として一本化する?・・んだそうです。
ちなみにぐるりを接する他県とは;富山県・新潟県・群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・岐阜県・愛知県ですが、旧国名では十州になります。
「信濃の国」はこんな歌ですが、今も老いも若きも信州人が二人集まれば必ず歌うと言われています・・んなわけはないか。


 1 信濃の国は 十州に
 境連ぬる国にして
 聳ゆる山は いや高く
 流るる川は いや遠し
 松本 伊那 佐久 善光寺
 四つの平は 肥沃の地
 海こそなけれ 物さわに
 万ず足らわぬ 事ぞなき  
 2 四方に聳ゆる山々は
 御獄 乗鞍 駒ケ岳
 浅間は殊に 活火山
 いずれも国の 鎮めなり
 流れ淀まず ゆく水は
 北に犀川 千曲川
 南に木曽川 天竜川
 これまた国の 固めなり 
 3 木曽の谷には 真木茂り
 諏訪の湖には 魚多し
 民のかせぎも 豊かにて
 五穀の実らぬ 里やある
 しかのみならず 桑とりて
 蚕飼いの業の 打ちひらけ 
 細きよすがも 軽からぬ 
 国の命を 繋ぐなり 
 4 尋ねまほしき 薗原や 
 旅のやどりの 寝覚ノ床 
 木曽の桟 かけし世も 
 心してゆけ  久米路橋 
 くる人多き 筑摩の湯 
 月の名に立つ 姨捨山 
 しるき名所と 風雅士が  
 誌歌に詠みてぞ 伝えたる 
 5 旭将軍 義仲も 
 仁科の五郎 信盛も 
 春台 太宰先生も 
 象山 佐久間先生も 
 皆此国の 人にして 
 文武の誉 たぐいなく 
 山と聳えて 世に仰ぎ 
 川と流れて 名は尽ず 
 6 吾妻はやとし 日本武
 嘆き給いし 碓氷山 
 穿つ隧道 ニ十六
 夢にもこゆる 汽車の道 
 みち一筋に 学びなば 
 昔の人にや 劣るべき 
 古来山河の 秀でたる 
 国は偉人の ある習い
 (長野県知事から、関西でよく信州の広報に勤めおると、鯉の甘煮の一折くらい送ってほしい)  

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豊作願い「田舞」 諏訪大社上社で田遊神事  諏訪大社下社で筒粥神事 長野日報

2020年01月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

諏訪大社上社で田遊神事

2020年1月16日 6時00分

田遊神事で豊作を願い、「田舞」を踊る2人のみこ=15日、諏訪大社上社本宮

諏訪大社上社の田遊神事は15日、諏訪市の本宮の斎庭で行われた。豊作を願って神職が「田植唄」を歌い、みこが「田舞」を踊った。大総代、氏子総代、区役員らが参列し、多くの氏子が神事を見守りながら五穀豊穣や地域の安全を祈った。

田遊神事は、斎庭に水田に見立てたござを敷き、神職が四隅と中央で木製の農具を使って田起こしから種まきまでの一連の農作業を所作で繰り返した。続いて2人のみこが「田舞」を踊った。息の合った所作の一つ一つを、多くの氏子らが見入っていた。

世の中「三分五厘」 諏訪大社下社で筒粥神事

2020年1月16日 6時00分

下諏訪町の諏訪大社下社春宮で14日夜から続けられてきた「筒粥神事」は15日朝、釜で炊き上げたヨシを割って今年の世相と農作物の豊凶を占った。五分を満点として、世の中は3年連続で「三分五厘」、農作物は43品目のうち漬け菜など16品目が「上」、カリンなど6品目が「下」だった。

大社によると、春のような日差しの穏やかな年明けで、筒(茎)への粥の入りはばらつきが大きかった。秋には台風と豪雨が発生する可能性があり、果物と野菜の栽培には注意が必要な一方、コメは豊作になるという。世の中の「三分五厘」は「昨年より悪いので、注意が必要」とした。

神事は午前5時ごろから始まり、一晩中炊き上げた44本のヨシの茎を神職が1本ずつ小刀で割り、粥の入り具合を確かめて占った。氏子たちは神職の言葉を熱心に聞き入って結果を記した目録を受け取ると、胸に抱いて大事そうに持ち帰っていた。

平穏願い恵方に矢 諏訪市で山の神祭

2020年1月18日 6時00分

山の神祭で今年の恵方に向け矢を放つ関係者ら=諏訪市双葉ケ丘の山之神社

諏訪市双葉ケ丘の山之神社で17日、山の神祭が行われた。同神社の不動尊を管理する地元の南沢町、北沢区から約30人が参列。今年の恵方の西南西に向けて矢を放ち、区民の安全や区内の平穏を願った。

江戸時代から続くとされる伝統の行事。祭事に続く放射の儀では、両区の役員ら8人が、ヤナギの枝で作った弓を持ち、「山の神様三千牛王」と唱え、スズタケでできた矢を放った。恵方に矢が飛ぶと参列者から歓声が上がった。

当番区・南沢町の北村正則区長(65)は「昨年は県内で台風による大きな災害があった。今年は南沢町、北沢区の両区が平穏で、災害のないよう過ごせたら」と話していた。




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