房総半島・安房の「和田浦」へ鯨料理を食べに出かけました。千葉県は早ければ大化元年(645年)頃から令制国として命名が始まり、
大宝元年(701年)に最終制定された大宝律令の旧国名で言うと「下総」「上総」「安房」の三国から成り立っています。
その千葉県の「安房」の地は 四国徳島の「阿波」の地から忌部氏職能一族の住民が黒潮に乗って移住してきた土地です。参考資料⇒こちら。
古代から近海鯨業が盛んな安房の「和田」で鯨料理を楽しみ、紀州から移住してきた人たちがその昔に建立した熊野神社や洲崎神社を訪ねました。
蘇我駅で 友人の印旛沼の里山住人Kさんと合流し、外房線特急「わかしお」に乗りました。☟蘇我駅ホーム
特急の車両の乗客はがらがらかと想像していましたが 七割がた席が塞がっているのには驚きました。東京駅始発の外房線特急「わかしお」は人気路線のようです。
茂原という地名は近くにある城下町である恩師の出身地「大多喜」の地名と共に忘れられない。
今は 故郷大多喜町の稲葉家の菩提寺に眠る稲葉襄先生は紀州和歌山でも学ばれ 長く多くの学生を育てられて神戸の地で亡くなられた。
御宿の駅
車窓から見た外房の海
和田浦駅の跨線橋の上から
和田浦駅は無人駅だった。降りた駅でのスイカでの清算運賃2310円。 車内で購入した自由席特急券 900円だった。
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参考資料の一部から引用
:◎『古語拾遺』には、天富命が天日鷲命の孫を率いて肥饒地を求めて阿波国に渡来し、榖・麻の種を植えたが故に麻殖郡と名付けられた。」とあり、
吉野川市の前身である麻植郡の名称は、阿波忌部が植えた麻に由来するものです。吉野川市山川町忌部山には「忌部神社」が祀られ、
市内全域に阿波忌部に纏わる伝承地や史跡が今もなお数多く残されています。また、徳島県の旧国名である「阿波」も阿波忌部に由来しています。
ヤマト王権の成立にも大きな役目を果たしたと見られる阿波忌部は、吉野川を出発し、黒潮ルートで房総半島に渡り、
関東一円を開拓していきました。その足跡は伝承によれば、伊勢・讃岐・出雲・石見など全国に及び、榖・麻・農業・織物・陶芸・音楽などを伝えた
産業技術集団及び海洋民として伝えられています。
◎忌部交流会実行委員会の委員長は、館山市相浜「楫取神社」氏子である鈴木馨氏が担当。
当日は、勝浦市から自動車で移動し、南房総市白浜町「下立松原神社」、
館山市「神余」「神戸」「布良崎神社」「楫取神社」「洲宮神社」「安房神社」「忌部塚」
を、実行委員会メンバーの方々に案内していただいた後、午後から忌部交流会に臨んだ。
交流会は、予想を遥かに上回る来場者があり、大盛況の中でイベントが終了した。
阿波忌部族が房総半島へ渡来後、その過去の業績を称えるために、その末裔が正式訪問するのは、
実に約1700年ぶりのことであると考えられ、開拓した先人に、感謝の意が捧げられた。などなど。