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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

外房線・内房線シリーズ その1   「曽我駅から和田浦駅へ 車窓の風景」

2022年07月22日 | 関東あちこち

房総半島・安房の「和田浦」へ鯨料理を食べに出かけました。千葉県は早ければ大化元年(645年)頃から令制国として命名が始まり、

大宝元年(701年)に最終制定された大宝律令の旧国名で言うと「下総」「上総」「安房」の三国から成り立っています。

 その千葉県の「安房」の地は 四国徳島の「阿波」の地から忌部氏職能一族の住民が黒潮に乗って移住してきた土地です。参考資料⇒こちら。

 古代から近海鯨業が盛んな安房の「和田」で鯨料理を楽しみ、紀州から移住してきた人たちがその昔に建立した熊野神社や洲崎神社を訪ねました。

蘇我駅で 友人の印旛沼の里山住人Kさんと合流し、外房線特急「わかしお」に乗りました。☟蘇我駅ホーム

特急の車両の乗客はがらがらかと想像していましたが 七割がた席が塞がっているのには驚きました。東京駅始発の外房線特急「わかしお」は人気路線のようです。

茂原という地名は近くにある城下町である恩師の出身地「大多喜」の地名と共に忘れられない。

 今は 故郷大多喜町の稲葉家の菩提寺に眠る稲葉襄先生は紀州和歌山でも学ばれ 長く多くの学生を育てられて神戸の地で亡くなられた。

御宿の駅

車窓から見た外房の海

和田浦駅の跨線橋の上から

和田浦駅は無人駅だった。降りた駅でのスイカでの清算運賃2310円。 車内で購入した自由席特急券 900円だった。

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参考資料の一部から引用

:◎『古語拾遺』には、天富命が天日鷲命の孫を率いて肥饒地を求めて阿波国に渡来し、榖・麻の種を植えたが故に麻殖郡と名付けられた。」とあり、

吉野川市の前身である麻植郡の名称は、阿波忌部が植えた麻に由来するものです。吉野川市山川町忌部山には「忌部神社」が祀られ、

市内全域に阿波忌部に纏わる伝承地や史跡が今もなお数多く残されています。また、徳島県の旧国名である「阿波」も阿波忌部に由来しています。

ヤマト王権の成立にも大きな役目を果たしたと見られる阿波忌部は、吉野川を出発し、黒潮ルートで房総半島に渡り、

関東一円を開拓していきました。その足跡は伝承によれば、伊勢・讃岐・出雲・石見など全国に及び、榖・麻・農業・織物・陶芸・音楽などを伝えた

産業技術集団及び海洋民として伝えられています。

◎忌部交流会実行委員会の委員長は、館山市相浜「楫取神社」氏子である鈴木馨氏が担当。
当日は、勝浦市から自動車で移動し、南房総市白浜町「下立松原神社」、
館山市「神余」「神戸」「布良崎神社」「楫取神社」「洲宮神社」「安房神社」「忌部塚」
を、実行委員会メンバーの方々に案内していただいた後、午後から忌部交流会に臨んだ。
交流会は、予想を遥かに上回る来場者があり、大盛況の中でイベントが終了した。
阿波忌部族が房総半島へ渡来後、その過去の業績を称えるために、その末裔が正式訪問するのは、
実に約1700年ぶりのことであると考えられ、開拓した先人に、感謝の意が捧げられた。などなど。

 

 

 

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阪急十三駅はいつ降りても「昭和30年」代の雰囲気    12年前の今日 2010年7月22日に本ブログに掲載

2022年07月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

[第7芸術劇場]という小さな映画館は十三の歓楽街の中にある雑居ビルの6階にあります。

この日は袴田事件を描いた12時10分上映開始の「BOX 袴田事件 命とは」を観てから、

すぐその後に上映された「ザ・コーブ(入江)」の2本を観ました。

連続して2本、ほぼ4時間も映画を観たのは、10数年前に映画鑑賞を再開してから初めてです。

  結構重い主題の映画で喉が乾いたので、終わってから十三駅歩いて3分の居酒屋「十三屋」で、

軽く一杯やって一息つきました。店を出てから、今度は18時半から開始の阪神御影駅近くの「いく亭」の飲み会に参加するべく電車に乗りました。
珍しく殆ど家を空けた一日でした。
 阪急十三駅は大阪の進学校である「府立北野高校」の最寄駅らしいですが、西口も東口も昔ながらの飲み屋や

パチンコ屋、飲食店が多い雑然とした駅前風景で、なんとも落ち着きます。

 

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明治天皇は生涯京都弁を話された。   もし地球が100cmの球だったら    

2022年07月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年03月23日(月)

今日、読んだ本の中で知った話二つ。

○明治天皇は生涯京都弁で話された。

むかし新東宝がこの映画のヒットのお陰で、少しは生き延びたという「明治天皇と日露大戦争」。嵐寛寿郎が演ずる明治天皇はスクリーンの中で関東弁でしゃべった。

 映画を見たときはそのことに何の疑問も持たなかった。

しかしその後、明治天皇は先帝の孝明天皇の皇子として京都で生まれ育ち、成人されてから東京に移られたのだからおかしいなと思うようになった。

 人は例えよその土地や外国へ移っても、基本的に9歳頃(小学3年生くらい)までに覚えたアクセントから生涯離れることはないという。

ということは、映画の明治天皇のお言葉は間違いではないかと思った。やはりそうだったことがわかった。

「明治天皇はお体が大きく、お声も大きい方でしたが、お育ちが京都ですから京都弁です。ですからお言葉はお声の大きい割には、お優しいお言葉遣いでした」

明治天皇の皇女である東久邇宮聡子の「明治天皇 思い出の種々」・・木村毅の「明治天皇」という書に寄せた一文から。
(波'08十一月号)「即位と崩御」 保坂 正康 から

天皇陛下のことをいまも京都人は「天皇はん」と言うと聞くが、昭和天皇も明治天皇と同じように京都弁を使われていたら、あの戦争への道はどうだったのだろう?とか一瞬思ってしまった。

○「もし地球が100cmの球だったら」

地球の上の水は思ったより少なく、ココロ細い存在なんだ、とその後読んだ[地球がもし100cmの球だったら](永井智哉、世界文化社)で厳しく知った。

そうなのである、もし地球が直径100センチの球とすると、海水、淡水合わせた地球上の水は660cc程度しかない。ビール瓶の大瓶一本の量に過ぎないのだ。

(図書'08十一月号)「地球の壊し方」 椎名 誠 から

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7月20・21日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年07月22日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 href="https://t.co/c6V0a7nxk5">https://t.co/c6V0a7nxk5 #ニューズウィーク日本版 @Newsweek_JAPANより

— 阿智胡地亭 辛好 (@achikochitei2) July 21, 2022

 

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