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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

図書館の帰りにローカル中華料理チエーンの店「珍来」に寄って冷しワンタン麵と冷やし担々麵を食べた。

2022年07月27日 | 食べる飲む

あいかたは「冷やしワンタン麺」をオーダー。この東京都の東部の区や埼玉県の各地に多い町中華のチエーン店「珍来」のワンタンも実においしい。

私は「冷やし担々麵」

アルコールは勿論欠かせない。この日はチューハイを頼んだ。

図書館は21:30までやっており 涼しくなってから行けるし、歩いて帰る途中に24時まで営業している「町中華」の店があるのはありがたい。

 この日は予約の三冊の本が準備できたとメールが図書館から来ていた。

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今年初めてのビアガーデン           12年前の今日 2010年7月27日 本ブログに掲載

2022年07月27日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

ホテルオークラ神戸に行きました。JR三宮駅近くのミントビルからホテルのシャトルバスが20分に一本出ています。

プールサイドのビアガーデンは我々5人組の大声だけが響いていました。














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「虜人日記」・強靭な精神と肉体の、ある日本人技術屋の太平洋戦争終戦捕虜日記  ナマの日本人とは・・     2009年04月01日「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2022年07月27日 | 乱読は楽しい
 

1944年、小松真一(1911生)という台湾製糖㈱の醸造技術者(酒精工場長)が軍属としてブタノール生産のためにフィリピンに派遣された。

軍部の生産要請に応えようと知恵を出し、汗をかき、熱意に燃えて工場建設と工場運営に邁進するも、戦線は次々米軍との戦いに敗れ、

部隊とともに山中に逃げ込んだ。逃げ回っている間と、捕虜になってのからの体験を彼は密かに日記に書いた。そしてそれを戦友の骨壷に隠して帰国した。

しかし、1973年に脳溢血で逝去するまで、その日記の中身は家族の誰も知らなかった。

この本は小松さんの死後、家族がその日記を私家版としてまとめ、小松さんの友人・知人に配ったものが原型になっている。

 ♪まだ読んでいる最中ですが、この強靭な神経と体力を持つ日本男児の技術者が、発表するつもりなく記した体験の積み重ねの重さに、言葉がありません。

被爆者も空襲被害者も、あまりにつらい体験は自ら胸の奥底に押しこんで、人に語ることが最近までなかったと聞きます。

おそらくフィリピンの山野で地獄を見た小松さんも、この日記を書くことで吾が体験に蓋をし、そのことで日常の社会生活に復帰されたような気がします。

つまり自分が過ごしたフィリピンでの時空間を家族にも話す気は毛頭なかったようです。

 それにしても、偶然の巡り合わせで何度も命拾いをしている小松さん。まるでこの文章を書いて後世の日本人に残すために、

天がその命を預ってくれたような気さえする強運の持ち主でもあります。

 冷静沈着な人が戦争体験を書いたノンフィクションの凄さを感じる本でもあり、筆者の正直な人柄がモロに出ていてページを繰るのが待ち遠しい面白さを持つ本でもあります。

戦争という非常時に現れる日本人の体質と行動を、ここまで冷静に書けた技術屋がいたというそのことを知った喜びと、いまも我々の本質は変わっていないと思うつらさと両面を感じています。

小松さんは、技術屋だった亡父と同年生まれで、父が亡くなった翌年に逝去されており、他人事ではない思いで読んでいます。

この本を読むと、今も昔も、兵、下士官とそれ以下のシャバ(娑婆)の日本人1人1人の命の安さはホンマに「どうよ」と思ってしまいます。

この本は、ぜひ、ぜひ、お読みいただきたい一冊です。

「虜人日記」小松真一 ちくま学芸文庫 1300+税

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Wikipediaから

概要[編集]

太平洋戦争の終盤、フィリピンに送り込まれた小松真一の体験記。奇跡的に命拾いを重ねた異常な現実を捕虜収容所内で、豊富な絵と、簡潔な文章で記録。

このドキュメントは骨壺に隠し日本に持ち帰られ戦後30年間、著者が亡くなるまで銀行の金庫に眠っていた。

一個人の見聞きし体験したままの、この“絵日記”は希有で貴重な太平洋戦争の一次資料である。

内容[編集]

 
ジャングルで記したメモ

第1章:漂浪する椰子の実(1933年7月 - 1945年3月30日)[編集]

太平洋戦争の終盤、石油の供給を絶たれた日本軍にとり、ガソリンに代わる燃料を確保出来るか否かは死活問題であった。当時、小松真一は32歳、二児の親。醸造醗酵分野で先端技術を身に付けていた 。台湾でブタノールの量産に結果を出し、軍によりフィリピンの戦場に招聘された。マニラ赴任当初、深刻な日本の空気とは逆に、現実逃避で緩みきった戦地の現実に戸惑う。危険極まりないフィリピンの島々を技術指導のため、 命懸けで往き来する。最終的にはネグロス島で、空爆とゲリラの襲撃をかろうじてかわしながら燃料増産に邁進する。しかし米軍上陸と同時、遂にジャングルに逃げ込む。

第2章:密林の彷徨(1945年3月30日 - 1945年9月1日)[編集]

軍関係者と一般人共々、武器や食料の準備もなく山岳ジャングルを逃げまどう。投降までの半年間、米軍の攻撃や餓えで半数が命をおとす。究極の非常事態にむき出しになる人間模様、そして軍組織の崩壊。どのようにして真一は命をつなぐことが出来たのか?生と死の狭間の逃避行。

第3章:虜人日記(1945年9月1日 - 1946年12月11日)[編集]

投降後も捕虜生活は飢との戦いが続く。収容所をたらい回しに移動させられ、様々な種類の日本人と接する。帰国まで1年半の間にこの日記を書き終える。日本の捕虜にとって収容所は、思想的真空地帯だった。軍国主義は瓦解し、しかし民主主義はまだ届いていない。この特殊な状況下で日本人の様々な特性が浮かび上がってくる。

出版まで[編集]

 
真一の日記集

オリジナルの日記[編集]

オリジナルとなる小松真一の日記は、「漂流する椰子の実」(第1巻)、「密林の彷徨」(第2巻)「虜人日記」(第3・4巻)からなる4冊の日記と5冊の画集、計9冊で構成される[2]

これらのノートは手製の和綴じで、表紙は梱包用クラフト紙、中はタイプ用紙、和綴じの糸はカンバスベッドのカンバスをほぐして作ったものが使われた。日記は鉛筆で書かれ、絵は鉛筆のスケッチの上にマラリアの薬であるアテブリン錠を水で溶いたもの(黄色)、マーキュロクロム液(赤)などで彩色されていた[3]。序章で「(略)幸か不幸かレイテの仲間から唯一引き抜かれて、ルソン島に連れて来られ、誰一人知った人のいないオードネルの労働キャンプに投げ込まれた。話相手がないので、毎日の仕事から帰って日が暮れるまでの短い時間を利用して、記憶を呼び起こして書き連ねたものである。」と記したことから、小松はこの日記をオードネル収容所に移された1946年(昭和21年)4月頃以降に書き、それ以前の記録については、自身の記憶と軍隊手帳等に書かれたメモを基に日記に書いたと推測される[4]

そして、小松はこの日記を骨壺に隠して日本に持ち帰った。オリジナルの日記は、以後銀行の金庫に約30年間眠ることとなった。

私家版[編集]

1973年(昭和48年)1月に著者の小松真一が没後、由紀夫人の編集により1974年(昭和49年)1月10日に私家版として出版された[5]

私家版『虜人日記』は友人、知人等の関係者に配られただけであったが、知人らによって読み広げられてゆくうちに、やがて月刊『現代』講談社)の笠原編集長の手に渡り、笠原が山本七平に本書を紹介した[6]。そして、山本によって本書の論説が『現代』1974年(昭和49年)8月号に『もう一人の異常体験者の日記--あれから三十年--私を感動と共感の渦に巻きこんだ一冊の戦記』というタイトルで掲載された。また、山本は本書を基とした連載を『野性時代』(角川書店1975年(昭和50年)4月号から1976年(昭和51年)4月号まで行った。この連載は後に『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』(角川oneテーマ21)として出版された。

筑摩書房版[編集]

前述の山本七平による『現代』での紹介をきっかけとして数社から『虜人日記』出版の申し出を受けた。「永く読み続けられるために、文庫になることを考慮して」という山本のアドバイスもあり、本書は筑摩書房から出版された[7]。筑摩書房版はオリジナルの4冊の日記のほとんどすべてを収録し、画集から抜粋された絵を挿入、部分的に注釈を加えて編集されたもの[2]1975年(昭和50年)6月30日に出版された。また、2004年(平成16年)には文庫本として同じく筑摩書房から再刊行された[8]

論評[編集]

山本七平は、本書を最初に取り上げた『現代』で以下のように紹介した。

戦争と軍隊に密接してその渦中にありながら、冷静な批判的な目で、しかも少しもジャーナリスティックにならず、すべてを淡々と的確に記している。これが、本書のもつ最高の価値であり、おそらく唯一無二の記録であろうと思われる所以である。
山本七平、もう一人の異常体験者の日記―あれから三十年、私を感動と共感の渦に巻きこんだ一冊の絵入り比島戦記と日本人[7]

また、山本は『野性時代』の連載においても、自身の体験を交えながら、日記を書くための紙も筆記具もない当時の労働キャンプで「書く」行為自体の大変さや[9]米軍やその部下として働く日本人による没収を逃れるために日記を骨壺に隠して日本に持ち帰ったことへの理解を示したり[10]、本書の至る部分を引用しながらその解説を行った。

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虜人日記博物館☞こちら

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7月26日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年07月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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