先日「般若団」という学生時代から座禅を実践している方たちの会合に飛び入りで参加させてもらった折に、O先輩からこの報告会があることを伺った。
日本に入った仏教は大乗仏教と言われるが、インド仏教が中国に入って中国語にお経が翻訳されてから流布した仏教で、日本には中国化した仏教がまず国家宗教として導入された。
その後もお経は和語に翻訳されること少なく、日本の庶民はお経はただ有難いものとして坊さん方から教えられ、ナンマイダナンマイダ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と
唱えるのだけがわれら庶民の仏教になってもう長い。
ということで私は仏教は、中国化され日本化された仏教ではなくオリジナルの本来の仏教にずっと関心を持っているので、この講演会を教えて頂いたのはとても有難かった。
喜んで参加させてもらった。
講演会の場所をネットで調べると東京メトロ丸の内線方南線の中野富士見だとわかった。方南町は今から45年前に大阪から東京に転勤になった時に単身寮があったので
3か月ほど住んだところなので既に知った地名だった。
お釈迦さまが亡くなられて450年から500年の間、釈尊の教えは文字化されることなく仏教集団サンガの出家者によって全て口伝で教えられてきた。
お経とはその多くがお釈迦様の言動録であるが、いまだにこの世にお釈迦さまの年代記というようなまとまった伝記は存在しないそうだ。
その伝記を28年間かけてついにまとめた上げた5人の学術研究者がいる。代表者の森先生はO先輩の出身地四日市時代からの親しい学友だと伺った。
・成道された35歳から入滅された80歳までの45年間を対象とした。
・釈尊の行動を伝える経典は約一万経あり、南方仏教タイ・ビルマ・スリランカにその原始仏教経典と言われるものが多く残っている。
そのうちの6000経に行動が述べられておりコンピューターで一つ一つの行動のデータ化 その基礎研究に23年かかった。
最後の5年間はデータをあれこれ検討し推定による時系列化の作業を行った。
この研究の特徴・眼目はただ釈尊個人の伝記ではなく、彼とその仲間たち、つまり釈尊教団の形成史だそうだ。
研究から:一日の遊行距離は10km。食事は一日一回。雨季は定住するので遊行期は11月から2月。
一回の遊行は2カ月まで。一年で600㎞ほどの移動。
お釈迦様が行動されたエリアも地図上で示され、お釈迦さまの一年の暮らしぶりや遊行期や
「雨安居(うあんご)」と呼ばれる定住期のお話も興味深かった。
この研究は地道ながらも仏教界に必須なもので、これほどの厳密・精密な調査研究はITを活用しての仏教研究とはいえ、
仏教に深く帰依かつ理解した方々にしか出来ない画期的なものではないかと思った。是非、英文に翻訳して世界中に知らしめるべきだと強く思った。
森先生のお話の最後に、納得のお話があった。
研究していると釈尊が隣のおじさんのような親しみの持てる方だということが感じられたと。
いくつかのお経の釈尊の暮らしの日々のエピソードの中に弟子たちの中におられる釈尊に初めてあった人が、どなたが釈尊かわからないというケースがいくつもあったと。
ガンダーラで仏像として視覚化されてから以後、寺院ではどんどん荘厳になられてきたが、実際の釈尊はそんな偉ぶった人ではなかったようですと。
阿智胡地亭の思うに、宗教も創始者初代とその仲間朋友のうちは常識の範囲の世界だが、布教を生業・稼業にして生きていく連中が力を持つ時代になると
創始者をエライ人だ尊いお方やと持ち上げて、信者から遠い存在にしていくのはどこの世界どの時代も変わらない。
Wikipediaから:
釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖である。姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(梵: गौतम Gautama,梵: शिद्धार्थ Śiddhārtha)、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ(巴: Gotama Siddhattha)とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である[注釈 1]。
シャーキヤ(梵: शाक्य Śākya)は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族またはその領国であるシャーキヤ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキヤを音写したものであり、旧字体では釋迦である[4]。シャーキヤムニ(梵: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリットで「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼(しゃかむに)を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった。
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報告会が終了してから中野富士見駅から一つ先の終点「方南町駅」まで乗ってみた。
寮の名前も忘れていたが、駅の地図を見ると和泉町4丁目という表記の地区があって、ああいずみ寮だと思いだした。
生まれたばかりの長女の首が座るのを待って、相方が神戸住吉から南柏の会社のアパートへ引っ越してくるまで方南町に
3か月住んだはずだがいまや霧のかかることの多い脳の中にはその折の事はもう何の痕跡もない(笑)。