91年にアパルトヘイト(人種隔離政策)関連法が撤廃され、94年には総選挙を経て故ネルソン・マンデラが大統領に就任して国際社会に復帰した南アだが、人種間のあつれきは今も続く。最も深刻な問題は、人口約5900万の8割を黒人が占めるのに、74%の土地を白人が所有する土地問題だ。決勝を日本で観戦したシリル・ラマポーザ大統領は補償なしの土地強制収用を検討しているが、当然白人はこれに反発している。加えて、最近は南アで働くナイジェリア移民へのゼノフォビア(外国人嫌悪)による襲撃事件が続発している。多くのラグビー選手が海外移籍を選択するのも、治安の悪化や経済の不安定化と無関係ではない。
それでも今回、決勝で南アフリカがイングランドを蹴散らしたのは、ラグビーが「足し算」だけでは計れないスポーツだからだ。金持ちの協会が有利なら、イングランドが南アフリカに負けるはずがない。ニュージーランドや南アフリカにとって、ラグビーは単なるスポーツを超えた文化である。宗教といってもいい。
加えて、今回の南アフリカ国内にはキャプテンのシヤ・コリシが何度も言ったように「いろいろな問題」があるが、困難な時にラグビーがこの国をまとめる大きな力になる。95年の第3回大会でマンデラが白人支配の象徴だった代表チームであるスプリングボクスのジャージを着て優勝を祝った。今回はチーム史上初めての黒人キャプテンであり、貧困層出身でもあるコリシが優勝杯のウェブ・エリス・カップを高々と掲げた。
南アフリカ共和国で行われていたアパルトヘイトの下では、外国人を含めて、有色人種は総じて差別的な扱いを受けてきた。ただしインド系人種や白人との混血の者は議会の議席など、黒人には認められない一定の権利が認められ、有色人種の中でも待遇の違いがあった。
日本国籍を有する者は、1961年1月19日から、経済上の都合から「名誉白人」扱いとされていた[1]。欧米諸国がアパルトヘイトを続ける南アフリカとの経済関係を人道的理由により縮小する一方で、日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国になる。国際的に孤立していた南アフリカと数少ない国交を持っていた中華民国(台湾)籍の者は白人として扱われた[2][3]。また、香港からの華僑と華人も名誉白人と扱われた[4][5]。ただしこれらの扱いはあくまで国策上の法的措置であり、民間における差別感情やそれにともなう差別行為がなかったわけではない。
1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(アメリカ合衆国ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)[注 1]。アパルトヘイトに対する国際的な非難と世界的な経済制裁が強まる中、南アフリカとの経済的交流を積極的に続ける日本の姿勢もまた批判の対象となり、1988年に国連総会で採択された「南アフリカ制裁決議案」の中で、日本は名指しで非難された[6]。
南アフリカにおける名誉白人という地位は日本国内においても問題視され、1988年の国会外務委員会においては、岩垂寿喜男が自らの質問の中で、三井物産の社内報「三井海外ニュース」の「ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えないこうかつさがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い」という一節や、日本・南ア友好議員連盟幹事であった石原慎太郎による「アメリカでは黒人を使って能率が落ちている。黒人に一人一票やっても南アの行く先が混乱するだけだ」といった発言を取り上げた。岩垂は「名誉白人ということは決して名誉な称号ではないと思います」とこれらの言説を批判した[7]。
ラグビーと「アパルトヘイト」 50年前に何があった | 2019/11/15 - BBC NEWS JAPAN https://t.co/DjqcXVqO9Z
— achikochitei (@achikochitei1) November 20, 2019