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— achikochitei (@achikochitei1) January 21, 2020
三人会の集合場所が三越日本橋店のライオン像前だったので集合時間40分ほど前に着いて、中に入って天女像を見た。なるほど客寄せにはアトラクティブな像だと感心した。
三越の対面にある伊勢定本店で10年ほど前、従姉においしいうなぎをご馳走になったことがあるのを思い出した。
屋上に上がった。40数年前 幼児だった子供たちとここへ来た時、ステージで売り出し前の歌手のアトラクションがあった。
松村和子という歌手が三味線をひきながら♪帰って来いよと歌っていた。声量がありうまいねこの子と、あいかたと話したら
しばらくして「帰って来いよ」はヒットして松村和子はよくテレビでみかけるようになった。
神社が鎮座していた。江戸時代に当地にあった神社だ。
いろんな鉢植えを売っていた。
金沢小校庭リンク開場 昨年より2週間遅く
2020年1月21日 6時00分
茅野市金沢小学校の校庭スケートリンク開きが大寒の20日朝、行われた。暖冬の影響で昨年より2週間遅く、全面結氷せず滑走可能区域も半分程度だったが、待ちわびたスケートクラブの子どもたちが元気いっぱい滑りを披露。大人たちは60年以上続く伝統の校庭リンク開場に安どの表情を浮かべた。
同小でリンク作りを担当する金沢体育協会によると、滑走可能区域は山際(西側)の長さ100メートル、幅40メートルで、氷の厚さは10~15センチ。氷を投入して水温を下げながら、先週から製氷作業を本格化。水まきは2度、氷点下5度まで冷え込んだ深夜に行い、安全に滑走できる状態に整えた。
リンク開きには金沢体協や公民館、PTAなどから関係者約40人が集まった。神事で安全を祈願した後、スケートクラブ員が「お願いします」と言ってリンクに飛び出し、氷を蹴る小気味よい音を響かせた。
クラブ長で6年生の鷲尾清龍さん(12)は「体協の皆さんが一生懸命作ってくれたリンク。コーナーを練習して県大会で優勝したい」と抱負を語った。金沢体協の黒澤英治会長(53)は「楽しみに待っているという声を聞いて何とか滑れる状態に持ってきた。リンクを維持するので皆さん滑りに来てほしい」と話した。
金沢体協は最終日を2月2日から8日に延期し、夜間は一般にも開放するという。同地区コミュニティ運営協議会会長で市スケート協会会長の池上泰司さん(68)は「全国、海外で活躍する選手が出ているのはこのリンクのおかげ」と語り、天然リンクを通じたスケート技術の向上と地域の活性化に期待を寄せた。
一方、暖冬の影響で泉野小(茅野市)が校庭リンクでのスケート学習中止の方針を決めた。北山小(同)と原小(原村)も滑走の見通しが立っていないという。
◎母は茅野市の当時玉川村の玉川小学校の校庭で毎冬下駄スケートを履いて楽しんだと話していた。
「大寒」も気温下がらず 御神渡り観察
大寒の御神渡りの観察で空を見上げる八剱神社関係者=20日午前6時35分ごろ、諏訪市豊田の舟渡川河口付近
二十四節気の一つで1年で最も寒い時期と言われる「大寒」の20日、寒気が入らない影響で諏訪の最低気温は平年と比べ7・3度高い1度となり、4月上旬並みの季節外れな陽気となった。毎朝、諏訪湖畔で御神渡り(御渡り)の観察を続け、大寒の冷え込みを期待していた八剱神社(諏訪市小和田)の総代たちは肩を落としていた。
同市豊田の舟渡川河口付近で湖面の状況を観察した宮坂清宮司は「気温が氷点下にすらなっていない。これでは凍らない。本来は氷の厚さや亀裂などを確認する時期なのに」と残念がっていた。
長野地方気象台によると、20日の最高気温も平年より5・7度高い、8・9度で3月中旬並みだった。気象庁によると長野県を含む関東甲信地方では26日からかなり暖かくなると予想している。
こんなに氷がない年は… 諏訪湖の御神渡り

御神渡りの出現を期待して観察を続ける宮坂宮司(左)や氏子総代たち=19日午前6時47分
2020年1月20日 6時00分
暖冬の影響でいまだに氷が張らない諏訪湖。湖面に張った氷がせり上がる御神渡り(御渡り)の判定と神事をつかさどる八剱神社(諏訪市小和田)が6日から毎朝続ける観察でも今季は薄氷が3回確認されただけだ。長年、冬の諏訪湖の観察を続けている宮坂清宮司(69)は「こんなに氷がない年は珍しい」と少し寂しげ。それでも宮司、総代の顔に諦めの色はない。
大寒までに薄氷3回
二十四節気の一つで一年で最も寒いとされる「大寒」を前にした19日朝も、宮司、総代の観察が行われた。湖面には穏やかな波が立ち、持参した温度計では、午前7時ごろの気温が氷点下2・5度、水温は2・5度。宮坂宮司は「中途半端な冷えだね」と苦笑いを浮かべた。「大寒」を境に季節は春へと向かい始める。ただ、直近で御神渡りが出現した2018年は2月に入ってから確認され、2月5日に拝観式を行っている。同宮司は「大寒を過ぎて一気に冷え込むこともあった。(御神渡りの)出現を期待し、祈ろう」。宮坂平馬大総代(66)は「水温が下がってきた。結氷に向けて状況は良くなってきた」と語った。
諦めるのはまだ早い
朝の観察が始まった6日は参加者が小刻みに震える寒さだった。「これから大寒に向けて気温が下がれば御神渡りができる」と前向きだった。ところが、8日の諏訪の気温は3月下旬~4月上旬の陽気となり、朝は雨が降った。傘をさしての水温測定に総代らの表情も曇った。
だが、17日には再び冷え込み、3回目の薄氷発見。「今にも消えそうだけど氷が張った」などと喜びの声が上がった。「諦めるのはまだ早い」
長野地方気象台によると、諏訪の気温は観察初日に今季最低の氷点下6・1度を記録したが、8、9、10日は最低気温が氷点下にすらならなかった。16、17日は氷点下4度台を記録したが平年を上回った。日本気象協会長野支店によると暖冬は、昨年に比べて偏西風の位置が北に偏っているのが原因という。偏西風の影響で今後も寒気が入りにくく、気温は昨年を上回る見通しだ。
氷点下10度が一つの目安
神様の恋路と言い伝えられ、全国から注目を集める御神渡りは昭和の終わりから、御神渡りができない「明けの海」が増えている。過去10年で御神渡りができたのは3回のみ。それでも一昨年は2月2日に御神渡りができた。氷がせり上がるには湖面が全面結氷し、氷点下10度近くまで冷え込む日が2、3日ほど続くのが一つの目安になるという。観察総代の笠原清一さん(62)は「暖冬でまだ氷が張っていないが、全面結氷するくらい冷え込んでほしい」、藤森雅史さん(62)は「観察総代として御神渡りを記録したい。氷点下10度まで冷えてくれれば」と期待している。
◎八剱神社がある小和田の氏子の家に生まれた父は、毎冬の明け方に御神渡りが湖面を走るバリバリという音で必ず目が覚めたものだとよく話していた。
♪八剣神社は諏訪市小和田(こわた)にあります。諏訪が豊臣軍に占領されていたとき、秀吉の命を受けて配下の武将「日根野高吉」が諏訪湖の中にあった「高島」という島に城を築きました。その城が高島城です。八剣神社は高島の島内にあった島民の氏神ですが、島民が高島から現在の小和田の地に移された時、神社もともに移設されました。 この立ち退きのとき、島民は日根野氏と巧みな交渉を行い、諏訪湖全域の漁業権と、新たに広大な農地を獲得しました。我が家の先祖はこの半農半漁の島民の一人だと聞きます。八剣神社はまた、古来より諏訪大社の摂社(筆頭子社)で、諏訪湖の冬の自然現象“御神渡”を検定し、諏訪大社に出来を報告する役割を担ってきました。小和田に移った住民は、移住以来、藩主(日根野氏が他に移ったあと、諏訪氏が戻り、明治のはじめまで諏訪氏が殿様だった)の支配を受けず、行政は住民の自治によって行われました。諏訪湖から湧く温泉を引いた共同浴場で、裸の住人たちが侃々諤々論議を戦わせ、祭の拠出金や揉め事など自分たちで全てを決めていったそうです。
私も小学生のころ、夏休みに諏訪に行ったとき、まだ使われていた大きな共同風呂にイトコたちと入った楽しい思い出があります。
一月某日、三人会のメンバーは三越日本橋店のライオン像の前で落合い、歩いて3分の三井美術館に向った。
何回も前を通ったことがあるが美術館の中に入るのは初めてだった。美術館がある三井本館の建物はそれだけで歴史的価値がある建造物だと思った。
伊勢の松坂出の伊勢商人である三井家が日本橋室町で開業した三越呉服店の歴史も面白いし、今も三井グループが三井11家に「三井」の看板代(ブランド料)を払っている
という話も面白い。自分の中では伊勢商人の系譜は同じ伊勢の国・四日市の岡田屋呉服店から全国に展開した「イオン」グループのオーナー岡田家につながる。
おそらく和紙と墨を今の技術で分析すれば、この古筆切が奈良時代のものかどうかわかると思うが、いずれにせよ日本の和紙と墨の存在が
日本文化の伝承に大いに寄与しているのは事実だ。16世紀に書かれた豊臣秀吉の手紙が今も多く残り読むことが出来るのはこの文化インフラがあってこそだ。
一部引用・・・長文記事だが今夜10時から世界的に巻き上がる議論の先回りだ。冤罪だった村木厚子さんは164日間不当勾留されている。
5ヶ月間以上無罪であるにも関わらず死刑囚と同様に独房にいれられていたのだ。そんな国は他の先進国にはないだろう。他国の一般市民がはじめて知る日本の司法の後進性は衝撃をもって各国で報じられるかもしれない
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赤塚不二夫、ちばてつや、北見けんいち・・。こんなに沢山のそうそうたる漫画家たちがみんな満州引揚げ者とは知らなかった。
どの人の体験記も周囲や時代に対し何の忖度もなく、自身が経験したことをありのままに書かれている、だけにーおもうしろうてやがてかなしき・・というー感じで読んでいる。
自分が属してる国のつい最近の事態だが、専門家の書いた何十冊の近現代史より、この本を読むと この列島で生まれ育ったフツー(普通)の人間が作った集団というか社会が
明治以降やってきたこと、受けてきた事がじわじわとわかってくる。自分の周囲の、付き合って奥が深いというか、こせこせしないというか、
リスペクトしている方にも日本育ちではない満州で生きた後の引揚の方々がかなりいる。皆さん、どこか一味違うのはこういう空気を吸ってこられたからかと・・・。
Wikipediaから部分引用
満州からの引き揚げ
満州に取り残された日本人約105万人の送還は、ソ連軍が一貫して無関心であったため、ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで、何の動きも見られなかった[16]。一方、米国は、中国大陸に兵士から民間人まで多くの日本人が残留していることが、国共対立が顕在化していた中国社会の不安定要素となることを懸念していた[16]。ソ連軍が撤退し国府軍が東北に進駐を開始するや、米軍の輸送用船舶を貸与して日本人送還を実行に移していった。
早くも同年5月には錦州地区の日本人引き揚げが始まり、夏には旧新京の日本人を含めて本格化し、年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引き揚げていった[16]。満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める[16]。
ediaから部分引用:
昭和40年代の中頃に三人は大阪支社で部門は違ったが、同じフロア―で勤務していた。そして昭和50年代には神田の美土代事務所で働いていた。
その頃のある休日に三家族はそれぞれの子供を連れて秋川渓谷で一日楽しく遊んだこともある。うちの一家は千葉県流山市の南柏の会社のアパートから出かけた。
1月某日その三人が午後三時半にJR有楽町国際フォーラム口で落ち合って、定年退職者の昼のいろんなグループの一杯会の集まりでいつも満員で賑やかな「さがみ」へ向かった。
ちょっと早くついたので駅の周辺をぶらぶらした。
「さがみ」は新有楽町ビルの地階にある。
この店には「真澄」があるのでオーダーした。話はあの人は今どうしてるとか、“赫赫”たる病歴の数々とか近況とか話は尽きず
楽しく時間を過ごした。結果、真澄の量は〆て一升四合だったとか!、いやあ お二人は強い!!
生垣さんから「千字文」と「信濃の国」の額装を頂いた。書の資質は自分には全く欠落しているので生垣さんの作品には感嘆するしかない。もう趣味の域ははるかに越えているのでは。
3人ともに信濃の国になんらかの縁があるので「信濃の国」を書いたとのことだった。
千字文とは、中国の梁(りょう)の時代に、武帝(在位502年~549年)が周興嗣(しゅうこうし)に命じて作らせた、文字習得のための教材です。
書聖と呼ばれた能書家、王羲之(おうぎし)の筆跡を模写して作られ、書道の手本として広く利用されました。
1000字の異なる漢字を使い、250の4字句からなる韻文で構成されています。(ネットから引用)。
『信濃の国』(しなののくに)は、長野県の県歌である。1900年(明治33年)発表。
作詞は旧松本藩士族の浅井洌(1849年 - 1938年)、作曲は東京府出身の北村季晴(1872年 - 1930年)により、1900年(明治33年)に成立した。
元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれている。(wikipediaから部分引用)
追加記事
2006年01月20日(金) ブログ「阿智胡地亭の非日乗」掲載。
[信濃の国]と言う歌
ある仕事の関係もあり、一時期、近畿長野県人会に入会していたことがあります。(長野県生まれでなくても、出身者の2世の入会は認められていました。)集まりがあると、会の席の配置が面白いといつも思いました。
長野、松本、伊那、佐久、飯田、諏訪と言うように、盆地ごとに分かれて卓が作られるのです。遠い昔からこの各地はお互いに張り合って、何事も競ってきたのだそうです。
ところが会の終わりには、間違いなく必ず皆が仲良く心を一つにして斉唱する歌があります。それが[信濃の国]です。
聞いたことはありますが、私は歌えないので口パクでお茶を濁しましたが、山国信州から出てきて、浪速の街で長年商いをして生き抜いてきた60、70歳代の男女の会員のお顔はいつも晴れ晴れと嬉しそうでした。
県の中ではそれぞれの盆地は、他とはあまり仲が良くないそうですが、日本の県では接する他県が一番多いと言う県なので、外部に対しては負けないように団結して信州人として一本化する?・・んだそうです。
ちなみにぐるりを接する他県とは;富山県・新潟県・群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・岐阜県・愛知県ですが、旧国名では十州になります。
「信濃の国」はこんな歌ですが、今も老いも若きも信州人が二人集まれば必ず歌うと言われています・・んなわけはないか。
1 信濃の国は 十州に
境連ぬる国にして
聳ゆる山は いや高く
流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺
四つの平は 肥沃の地
海こそなけれ 物さわに
万ず足らわぬ 事ぞなき
2 四方に聳ゆる山々は
御獄 乗鞍 駒ケ岳
浅間は殊に 活火山
いずれも国の 鎮めなり
流れ淀まず ゆく水は
北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川
これまた国の 固めなり
3 木曽の谷には 真木茂り
諏訪の湖には 魚多し
民のかせぎも 豊かにて
五穀の実らぬ 里やある
しかのみならず 桑とりて
蚕飼いの業の 打ちひらけ
細きよすがも 軽からぬ
国の命を 繋ぐなり
4 尋ねまほしき 薗原や
旅のやどりの 寝覚ノ床
木曽の桟 かけし世も
心してゆけ 久米路橋
くる人多き 筑摩の湯
月の名に立つ 姨捨山
しるき名所と 風雅士が
誌歌に詠みてぞ 伝えたる
5 旭将軍 義仲も
仁科の五郎 信盛も
春台 太宰先生も
象山 佐久間先生も
皆此国の 人にして
文武の誉 たぐいなく
山と聳えて 世に仰ぎ
川と流れて 名は尽ず
6 吾妻はやとし 日本武
嘆き給いし 碓氷山
穿つ隧道 ニ十六
夢にもこゆる 汽車の道
みち一筋に 学びなば
昔の人にや 劣るべき
古来山河の 秀でたる
国は偉人の ある習い
(長野県知事から、関西でよく信州の広報に勤めおると、鯉の甘煮の一折くらい送ってほしい)
諏訪大社上社で田遊神事
2020年1月16日 6時00分
田遊神事で豊作を願い、「田舞」を踊る2人のみこ=15日、諏訪大社上社本宮
諏訪大社上社の田遊神事は15日、諏訪市の本宮の斎庭で行われた。豊作を願って神職が「田植唄」を歌い、みこが「田舞」を踊った。大総代、氏子総代、区役員らが参列し、多くの氏子が神事を見守りながら五穀豊穣や地域の安全を祈った。
田遊神事は、斎庭に水田に見立てたござを敷き、神職が四隅と中央で木製の農具を使って田起こしから種まきまでの一連の農作業を所作で繰り返した。続いて2人のみこが「田舞」を踊った。息の合った所作の一つ一つを、多くの氏子らが見入っていた。
世の中「三分五厘」 諏訪大社下社で筒粥神事
2020年1月16日 6時00分
下諏訪町の諏訪大社下社春宮で14日夜から続けられてきた「筒粥神事」は15日朝、釜で炊き上げたヨシを割って今年の世相と農作物の豊凶を占った。五分を満点として、世の中は3年連続で「三分五厘」、農作物は43品目のうち漬け菜など16品目が「上」、カリンなど6品目が「下」だった。
大社によると、春のような日差しの穏やかな年明けで、筒(茎)への粥の入りはばらつきが大きかった。秋には台風と豪雨が発生する可能性があり、果物と野菜の栽培には注意が必要な一方、コメは豊作になるという。世の中の「三分五厘」は「昨年より悪いので、注意が必要」とした。
神事は午前5時ごろから始まり、一晩中炊き上げた44本のヨシの茎を神職が1本ずつ小刀で割り、粥の入り具合を確かめて占った。氏子たちは神職の言葉を熱心に聞き入って結果を記した目録を受け取ると、胸に抱いて大事そうに持ち帰っていた。
平穏願い恵方に矢 諏訪市で山の神祭
2020年1月18日 6時00分

山の神祭で今年の恵方に向け矢を放つ関係者ら=諏訪市双葉ケ丘の山之神社
諏訪市双葉ケ丘の山之神社で17日、山の神祭が行われた。同神社の不動尊を管理する地元の南沢町、北沢区から約30人が参列。今年の恵方の西南西に向けて矢を放ち、区民の安全や区内の平穏を願った。
江戸時代から続くとされる伝統の行事。祭事に続く放射の儀では、両区の役員ら8人が、ヤナギの枝で作った弓を持ち、「山の神様三千牛王」と唱え、スズタケでできた矢を放った。恵方に矢が飛ぶと参列者から歓声が上がった。
当番区・南沢町の北村正則区長(65)は「昨年は県内で台風による大きな災害があった。今年は南沢町、北沢区の両区が平穏で、災害のないよう過ごせたら」と話していた。
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— achikochitei (@achikochitei1) January 17, 2020
旧中川の向こうは江東区になる。中川新橋を渡って亀戸9丁目にあるラーメン屋に行った。
昭和人間にはラーメン一杯が650円というのが嬉しい。煮卵などいろんな追加トッピングがそれぞれ100円。
私は辛子味噌を追加
餃子も6個で350円。
さっぱりしながらコクのある出汁の本格ラーメンだった。また来ることになりそうだ。
店の前は集合住宅地区だった。
言い返す 言葉はあれど 諍いは
本意にあらず 草むしりおり
諍い(いさかい)
♪1995年のある月の日経歌壇に掲載された「うた」です。
作者は町田の方ですが、お名前を控えていた紙を失いました。
これまでにいろんな方に助けて頂きましたが、この句を知ったことも、
1995年からの2年ほどの歳月にとってありがたいことでした。
「俳句」や「和歌」には作者も意識せずに持つ、
言葉の力があるような気がします。
2009年06月09日(火)掲載
東京新聞:日本司法は「自白制度」 国際人権団体 ゴーン被告巡り:国際(TOKYO Web) https://t.co/5ZRwlyy6mC
— achikochitei (@achikochitei1) January 16, 2020
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九州ラーメンの店が中川新橋を渡った亀戸9丁目にあるよとネットで検索してくれていたので、某日 図書館の帰りにかなり遠いが二人で歩いていってみた。
その帰りはルートを変えようと旧中川の河畔のプロムナードを歩いて帰った。
小学校帰りの生徒のように並んで大きな魚が泳いでるのに気が付いた。
神戸の住吉川の河口で見たボラの群れの個体よりはるかに大きいので草魚かなと・・・・
旧中川は小名木川を通じて隅田川とつながっているから汽水域と言えるかも知れない。ハゼ釣りの名所でもある。
帰宅して調べるとボラだった。出世魚で大きくなると「とど」というらしい。「とどのつまり」の語源とあった。
水鳥も人を全く恐れないでゆったりしている。時間からかこの日はカヌーの練習風景は見ることが出来なった。
いつもは沢山のカヌーが遊弋している。
天災などいざというときの危険とも隣り合わせだが、ちょっと歩くと大きな川や水辺がある土地は住むには気持ちが落ち着く。
にしても東京駅から電車に22分ほど乗り、駅から10分歩けばこんなボラや水鳥がいる旧中川という両端を水門で閉じられた
大きな、今や湖沼ともいうべき水域があることはあまり知られていないだろう。
ふれあい橋を渡ろうとしたら中年の夫婦が中国語を喋りながら追い越して行った。中国人の家族がこの辺りでは普通に暮らしている。
この日は水面が少し波立っていて逆さスカイツリーは完璧には撮れなかった。
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— achikochitei (@achikochitei1) January 15, 2020