阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

ベランダの植木鉢に「シマトネリコ」や「オタフクナンテン」などが新規参入した。

2021年04月21日 | 花・草・木・生き物

暖かくなってきたので相方がネットであれこれ調べてオーダーしたプラントが配達され 別途届いていた鉢に彼女の手で植えられ

ニューカマ―としておさまった。☝シマトネリコ。☟オタフクナンテン

ユーカリ ポポラス種

以下 今冬もベランダに出したままで無事冬を越えた 鉢植え

 テーブル椰子

オリーブ

月下美人は新しい葉が伸びている

多肉植物の朧月 1980年に茨城県藤代町にいた時 家の前の奥さんから頂いた朧月のクローン。

身内が何かの祝いでもらった小さな花束に入っていたミントの小枝を土に下ろしたら・・

ガジュマロも元気だ

ダイソーで100円で買った 名前は?? 新しい奇麗な葉を伸ばしだした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝どきを歩いて家庭料理の店「池のや」で友人と一杯

2021年04月21日 | 食べる飲む

大江戸線の勝どき駅の改札口を出たところで友人のMさんと待ち合わせたのは一カ月以上前の3月17日だった。

 勝どき駅のある月島はもうなんども来ているがWikipediaによると

「一丁目から四丁目までは明治 - 大正期の「東京湾澪浚(みおさらい)工事」の月島2号埋立地として造成された。

また、五・六丁目は明治 - 大正期の「東京湾澪浚工事」による月島3号埋立地あるいは「隅田川口改良工事」の1号埋立地として造成された。

当初は橋が無く、築地と勝鬨を渡し舟が結んでいた。1940年(昭和15年)勝鬨橋が完成した。工場や倉庫が多く立地していたが、

2000年勝どき駅の開業以来、高層住宅への建て替えが進んでいる。」

ということで昔の漁師町の風情を残す住人と・街並みとタワーマンションに住む住人の空間が入り乱れている面白い空間だ。

Mさんが時々昼のランチに利用する「池ノや」clickは夜は居酒屋になるということで「池のや」に向った。

Mさんとは全く所属部門が違ったが、お互いが大阪支社に勤務した時に親しくなりもう30年ほどの飲み仲間だ。彼は5年ほど前に当地 月島の住人になった。

 店は60代ほどの年配の女性二人でやっている天井が高くて広い店だった。さすがMさんはいい店を知っている。席はじゅうぶんな距離を取って配置されている。

出されるものは家庭料理と銘打っている通り、呑み助には嬉しい品々のラインアップだった。

  

 

帰りは丁度亀戸駅行きのバスが来たのでMさんに勧められて乗った。

お陰で日本酒で少し酔ったうつらうつら状態でゆっくり座って亀戸駅で総武線に乗り換えて帰宅した。

 210317 歩行数 3732歩 歩行距離 2.3㎞

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒川の河川敷を墨田区の京成押上線・八広駅まで歩く    その2完    いつの間にか墨田区に入り八広地区へ

2021年04月20日 | 東京あちこち

荒川の河川敷のスーパー堤防の堤にはアカツメクサ☝とシロツメクサも咲きだしていた。☟

旧中川と荒川のつなぎの木下川排水機場。

標識を見るとこの辺りはもう墨田区だった。

木根川橋を越えるとその向こうに京成線押上線の鉄橋がある。

この辺りのランドマーク、スカイツリーがここからもよく見える。

210415 歩行数 8360歩 歩行距離 5.3㎞

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レンジで温めて食べたニッシンの「彩り野菜のペペロンチーノ」に大満足。

2021年04月20日 | ある日のランチ

日曜のランチの机の上に「ペペロンチーノ」の皿が乗っていた。いろどりが綺麗だったのでカメラを取りに行って撮影した。

 食べたらとてもおいしい。聞くとパソコンを使ってのネット購入で西友に頼んで家に配達される買い物のうちの1アイテムで冷凍パスタだそうだ。

一人分178円とのこと。この価格で、この味と材料の内容のレベルならファミレスも裸足で逃げざるを得ないなと思ったくらい大満足だった。

 NISSINの この冷凍食品SPA王シリーズは使いだして10年は経っているそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森の中の絵本と花と女の子と

2021年04月19日 | 身辺あれこれ

4,5日前のこと 少女は亀戸中央公園に行きました。公園の緑と花の中に絵本が置いてありました。

 

藤棚も見ごろでした。

帰りの旧中川河畔のつつじの赤の発色も美しかった。

Shot by MM.

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビドラマ「激辛道」を見ていたら 図書館の往還にいつも前を通る酒屋の「信濃屋酒店」が画面に現れた。

2021年04月19日 | 音楽・絵画・映画・文芸

つい最近阿智胡地亭辛好が撮った「信濃屋」

サイトから→辛口酒店と激辛ラーメン

飲料メーカー「ロンロン」の社員・猿川(桐山照史)は、⼤阪本社での実⼒を認められ東京⽀社・営業促進室に異動となる。だが、異動初日に老舗酒店に営業に行くも失敗。店主の葛城(相島一之)を怒らせてしまう…。その日の夜、室長の谷岡(平田満)、大河内(泉里香)らによって猿川の歓迎会が開かれる。しかし、そこで出てきたものは、驚くほどの激辛料理…!圧倒される猿川に谷岡は“ゲキカラドウ”なるものを唱える…。

ドラマホリック!ゲキカラドウ | 第1話 | 主演 桐山照史 | テレビ東京

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

―半藤一利の「遺言」に共感する―   半沢健市   リベラル21

2021年04月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

「関東防空大演習を嗤う」から88年  半沢健市 リベラル21 引用元。

1933年の関東地方防空大演習に当たり『信濃毎日新聞』主筆の桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)は「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いた。その一部を次に掲げる。

■将来もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、この時に当たり、我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を打ち落とすあたわず、その中の二、三のものは、自然に我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来たり、爆弾を投下するだろうからである。そしてこのうちもらされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。いかに冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生いかに訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである■

《黒い物体と白い物体―私の空襲体験》
 初の東京空襲に私が遭ったのは、1942年4月18日であった。
私は、国民学校(当時の「小学校」の名称)2年生であった。

その黒い物体は、自宅正面の美容学校の向こうに現れ、正体が確認できないほどの速度で私の頭上を飛び去った。少し遅れてドンドンという重い音を聞いた。それが、洋上空母から飛び立ち東京・名古屋・神戸など5都市を奇襲した陸軍爆撃機B25の一機であり、後楽園内の高射砲陣地からの対空射撃と知ったのは、後日のことである。

私が二回目に東京空襲に遭ったのは、1944年11月始めであった。マリアナ基地からのB29初の偵察飛来である。それは11月24日に始まった東京爆撃の準備行動として1日に始まった。私がこれを見たのが1日だったかどうかはわからない。その後、自宅の地下に掘った防空壕で聞いたのは、恐怖を与える空爆音であった。日本軍の高射砲や迎撃戦闘機が打ち落とせない、高度一万メートルを行くB29は、1942年に見た黒い物体でなく、透明に見える白い物体であった。

《焼夷弾爆撃―カーチス・ルメイの新戦術》
 このように始まった東京空襲は当初、軍事施設・軍需工場を高々度からの精密爆撃で破壊する戦術によるものだったが、ワシントンはこれを不成功とみなした。そこで木造家屋の密集した都市を焼夷弾により無差別爆撃する方針に変更した。45年1月のことである。マリアナ基地のハンセル司令官はカーチス・ルメイに代わった。
初の焼夷弾作戦は1月3日の名古屋空襲であった。その被害は死者48名、負傷者85名、罹災者1万名に達した。上空3000メートルから火の海と降り注ぐ焼夷弾の攻撃を初めて経験し市民は大きな恐怖を抱いた。一方、敵機が低空に飛来したので戦闘機と高射砲は邀撃体制が容易となり敵機に大きな損害を与えた。ルメイは短期間、この焦土化作戦を中止している。

桐生悠々は「まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく(略)各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場」を演じ」「関東大空襲当時と同様の惨状」と書いたが、それが正に現実となったのである。


《「関東防空大演習を嗤う」から88年―半藤一利の遺言》
 「関東防空大演習を嗤う」から88年が過ぎた。
その間に科学技術は、核戦争が勃発すれば世界が破滅する水準に達した。しかしその危機を制御する、政治や経済の技術は、一向に進歩していない。現に、一人当り世界上位11位目の米国(57,804ドル=2016年)が、同世界下位17位の北朝鮮(661ドル)からの恫喝を、無視することができなくなっている。変わった面と変わらなかった面とが併存している。アウシュビッツと広島を示現した人類に、理想は語れるのかといわれたのは、20世紀中葉であった。それから百年近くを経た今もこのニヒリズムは、人類の胸底に深く沈んでいる。

その実証主義で「歴史探偵」を自称した故・半藤一利は、10代後半時に敗戦を迎えた。当時の「大人」の言動を見て、半藤は「絶対」という言葉を使わないことを誓った。彼らの言動が「鬼畜米英」から「民主主義」へコロリと変わったからである。
敗戦時に国民学校4年生だった私は「絶対」使用の当否をいう知識も学識もなかった。

戦後日本の「平和と不戦」は、日本を「西側のショーケース」として保護した米国と「若者を再び戦場に送るな」といって「反戦平和」をうたった大衆の、「綱引き」の上に辛くも成立した、と私は考えてきた。
その「綱引き」は終わった。米ソ対立から米中対立への変化、戦争体験者の絶滅危惧種化によってである。米国は自衛隊による集団自衛権行使と米製兵器購入を、日本は改憲による対米従属の強化を行っている。それは「日米同盟の強化」の名の下に加速している。

《昭和史と戦争体験と「絶対」の発声》
 半藤一利は、90年前後から実証的な「昭和史」を語り且つ書くようになった。
数年前からは、「絶対」という言葉を使うようになった。ルメイ司令官による、45年3月の無差別焼夷弾攻撃という残虐な東京空襲の体験を語るようになった。見事な絵筆使いで自ら書いた絵本も出版している。

21年1月30日にNHK・ETV特集で放映された「一所懸命に漕いできた~〝歴史探偵〟半藤一利の遺言」で発せられた半藤の言葉に私は打たれた。東大ボート部の選手として隅田川を生活の原点とした彼の遺言は、私の言いたいことを良く表現していると感じた。遺言は次の通りである。(一部を抜粋)

「あのときわたくしは焼けあとに
 ポツンと立ちながら
 この世に〈絶対〉はないということを思い知らされました」
 
「絶対に戦争は勝つ
 絶対に神風はふく
 絶対に日本は負けない
 絶対に自分は人を殺さない
 絶対に・・・絶対に・・・
 そのとき以来わたくしは二度と絶対という言葉をつかわない
 そう心にちかって今日まで生きてきました

  しかしいま
  あえて〈絶対〉という言葉をつかって
  どうしても伝えたい
  たったひとつの思いがあります

  戦争だけは絶対にはじめてはいけない」■

ジャーナリズムという「生き馬の目を抜く世界」に生きた人間が、「反戦」を理想として最後に選んだ重さをかみしめたいと思う。(2021/04/11)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校帰りに空襲、私は生と死の狭間にいた 初の本土爆撃から79年、敵機の記憶今も:東京新聞 TOKYO Web

2021年04月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・◆見慣れない機体だな?と思ったら…

 「あそこを低空で、右から左へ飛んでいきました。その後ろで高射砲の弾がボーンボーンとはぜてね」。飯田橋の駅前から神楽坂を指さし、元小学校長小尾おび昭さん(91)=新宿区=が話す。晴れた土曜の昼すぎだった。第一東京市立中(現九段中等教育学校)1年だった小尾さんは、半日授業を終えて駅に向かう途中、前方に見慣れない飛行機を見た。
 
当時の少年たちは、日本の軍用機ならたいてい見分けがつく。だが、低空を飛ぶずんぐりとした機体は、知っているどの軍用機とも違う。しばらくボーッとしていると、不気味な空襲警報が鳴った。敵機はとっくに通り過ぎた後だった。
 コースから、小尾さんが見たのはドゥーリトル隊長機だったとみられる。
 止まった列車が動くのを待って家に帰った。大久保通りを行くと消防車のホースが延び、路地に入る角にロープが張ってある。立っていた警官に誰何すいかされ「僕の家、ここなんです」と言って通してもらった。

◆隣家に焼夷弾が飛び込み、宮様の視察も

 自宅前の空き地から先の十数軒が焼けていたが、かろうじて自宅は助かった。はす向かいの同級生(数学者として世界的に活躍した志村五郎さん)の家も無事だった。
 夕方、防衛総司令官だった宮様(東久邇宮稔彦王)が視察に来たのを2階の窓から見たが、母に叱られて家にこもった。不思議と恐怖感はなかった。
今の大久保の街並み。焼夷弾で被災し、この道の両側が焼けた

今の大久保の街並み。焼夷弾で被災し、この道の両側が焼けた

 大久保では幸い死者は出なかったが、小尾さんの隣家では「奥さんが窓を開けたところに焼夷弾が飛び込んだ。三和土たたきに落ちて助かりました」。近くの家では飼い犬が焼け死んだ。周囲には焼夷弾が散乱し、生と死は紙一重だった。
 都新聞(東京新聞の前身の一つ)夕刊は「小癪こしゃく、敵機京浜地方に来襲 九機を撃墜・たちまち撃退 我が方の損害軽微」と1面で報じた。実際は1機も撃墜できず、空襲により東京や大阪、名古屋で計87人が亡くなっていた。
 被災を免れた小尾さんの家は、45(昭和20)年4月13日、父の実家のある山梨に疎開した翌日、城北大空襲で全焼。大久保一帯は焼け野原となった。
ドゥーリトル空襲を語る小尾昭さん

ドゥーリトル空襲を語る小尾昭さん

◆歴史を後世へ、原稿をつづる今日

 小尾さんら大久保小の卒業生たちは、ドゥーリトル空襲など戦争体験や戦前の暮らしをつづった原稿をまとめ、自分たちの歴史を後世に残そうとしている。・・・

画面clickで全文へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の「御頭祭」五穀豊穣祈る 諏訪大社上社    長野日報

2021年04月18日 | 諏訪便り

2021年4月16日 6時00分   ☝中道、槻木の氏子に大切に担がれ、諏訪大社上社前宮の十間廊に向かう御霊代を乗せたみこし  

諏訪地方の春の農耕開始期に五穀豊穣を祈る諏訪大社上社第一の例大祭「御頭祭(酉の祭)」が15日、御霊代を諏訪市神宮寺の本宮から茅野市安国寺の前宮に移して行われた。前宮の十間廊で神前に鹿の頭部(剥製)をささげ、北島和孝宮司が祝詞をあげた。

御霊代を乗せたみこしは茅野市泉野の中道、槻木両区の氏子に担がれ、本宮から前宮に運ばれた後、上段の間に安置された。みこしを担ぐ氏子たちは黄色の衣装に身を包み、奉仕に誇りを感じながら本宮、前宮間約1.5キロを往復した。

御霊代の前後は神職、御頭郷地区の上諏訪・四賀・豊田の大総代や区役員、諏訪大社大総代らが連なった。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、昨年に続き、人数を絞り、規模も縮小して実施した。

みこしを担いだ伊東敦彦さん(65)=中道=は「ご奉仕できることに感謝の気持ちを持って参加できた」と話していた。

「御頭祭」願う実り 諏訪大社・上社前宮 信濃毎日 2021年4月16日

農耕の季節到来を告げる諏訪大社の神事「御頭祭(おんとうさい)」が15日、茅野市の上社前宮で開かれた=写真。例年より小さいみこしを使って担ぐ人数を減らすなど新型コロナ対策をして開催。大総代や神職が列を作って約1・5キロを歩き、「御霊代(みたましろ)」を載せたみこしを諏訪市の上社本宮から移した。

 みこしは、茅野市泉野の中道、槻木(つきのき)両地区の8人が黄色の装束姿で担ぎ、前宮に着くと長い石段を「十間廊(じっけんろう)」へ。そこで鹿の頭の剥製や農作物が供えられた。4回目の担ぎ手となった市内の自営業三浦雄吉さん(49)は「祭りが縮小されて寂しいが、コロナ禍でも絶やさず続けていくことが大切だと思う」と話した。

 神事を初めて見守った市内の飲食業女性(51)は「空気が清らかに感じた。農耕などいろいろな物が豊かになってほしい」と願っていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一 部引用・・・御頭祭の歴史はと成り立ちは?
御頭祭(上社例大祭)は、長野県諏訪市の諏訪大社で鎌倉時代から続くとされている豊穣祈願のお祭になります。上社は「本宮」と「前宮」の二つに分かれていますが、中世まで祭政を行った政庁の場が前宮であったことから、古くから行われてきた神事は、今でも本宮ではなく、前宮の「十間廊(じっけんろう)」で執り行われています。上社の年中行事の中ではもっとも重要とされている御頭祭ですが、歴史の流れの中で形式が変わり、現代のかたちになりました。ではどの点が変化したのでしょうか?
御頭祭の昔と今で変わった点1
前宮の十間廊では現代でも、野菜や果物、肉などをお供えします。また、その供物の中に鹿の頭が含まれていることが、このお祭が「御頭祭」と呼ばれている所以です。ところでこのお供え物の鹿は現在は剥製ですが、かつては、七十五頭の本物の鹿が献じられたこともあるそうです。その中に必ず耳の裂けた鹿があって「高野の耳裂鹿」と言われ、「諏訪大社七不思議」の一つと言われています。
御頭祭の昔と今で変わった点2
かつて御頭祭は、大祝(おおほうり:生き神として大社の神職にまで到達した人)の代理である「神使(おこう)」が、地域を巡って豊作祈願するために、大社から出立する時の儀式とされていました。当時の御頭祭では大祝が十間廊の上段に着座して神事を行っていましたが、明治の「神官世襲制度の廃止」により、大祝や神長官(じんちょうかん)の神職が廃止されてしまいました。そのため、現代の大祝の代役として本宮の御霊代(みたましろ)を前宮に御渡して神事を行うようになったそうです。
御頭祭のみどころ
古式に則って行われているお祭なので、歴史の重みを感じさせるものになります。特に、御霊代を神輿に移して行列になって前宮に向かう際は、雅楽が奏でられ行列になって進みます。その行列は、関係者だけではなく、観光客も加わるため、長さが200メートルほどの人の波は“圧巻”の一言です。
2020年の開催は、4月15日(水)ですが、GWと時期をずらして出掛けることで混雑が回避できますね。首都圏からなら日帰りも可能ですので、興味深い「御頭祭」に合わせて出掛けてみてはいかがでしょうか。」

日本の宗教の中で、唯一獣肉を食することを許す御札を出していた諏訪大社にはこういう祭りがあります。
やはり狩猟と採集で生きた縄文系民族の神が諏訪大社のルーツなんだろうと思います。

「御頭祭」の詳細はこちら
画像はいずれもネットから借用。




2006年04月14日(金)掲載
御頭祭(おんとうさい)その2・
「神長官守矢資料館のしおり」から。
書いたのは守矢家の当主です。 
■洩矢神からの生命のつらなり
 諏訪盆地には「古事記」に書かれた出雲の国の国譲神話とは別にもう一つの国譲神話が言い伝えられています。そのことは、室町時代初期に編まれました「諏訪大明神絵詞」などに記されています。
 それによりますと、大和朝廷による日本統一以前の話になりますが、出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の両方の陣地の跡には今の藤島明神(岡谷市三沢)と洩矢大明神(岡谷市川岸区橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祭られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいますし、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。
 一子相伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が始めて文字化した「神長守矢氏系譜」によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私でもって七十八代の生命のつらなりとなっております。今でも洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。
 口碑によりますと、そのころ、稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそうです。
 さて、出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作以後の新しい時代を生きていくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありませんでした。このことは諏訪大社の体制をみればよく解ります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。
  
御頭祭(おんとうさい)その1・気になる#1
「御頭祭」と云う祀りを知りました。
日本列島に住む日本人は皆が元々「農耕民族」で、「単一民族」と言われていますが、この祀りを知ると、そのような認識は明治以降の概念と言って良いのではないかと思うようになりました。
☆ユーラシア大陸の西に位置するブリテン諸島にはアングロ人やサクソン人が移住する前から、それらの島国にケルト族が住み着いていたように、ユーラシア大陸の東に位置する日本列島にも大陸から稲作を持ち込んだ人達が移住する前から住み着いていた人たちがいました。
彼らは木の実や果物、猪や鹿、熊などを狩猟して長い期間列島に暮らしていました。いわば、狩猟を主として生活していた狩猟民族と言われる人達です。
世界の狩猟民族は獲物を天からの聖なる頂き物とみなし、獲物を仕留めたあとはその感謝の気持ちを天に伝え、また次なる獲物をお願いするための祭祀をなんらかの形で続けてきました。
☆ここにご紹介する「御頭祭」はその一つのようです。
毎年4月15日に3000年ほど続いてきたのではないかと言われている「御頭祭」と云う祀りが諏訪湖のほとり、八ヶ岳の麓にある社で行われます。
その祀りの資料館があります。
それは「神長官守矢資料館」と言います。
この資料館は写真の通りとてもユニークな形をしています。壁は内外とも特別調合の壁土で、縄文土器を思わせ、また、屋根には鉄平石が使われています。
館内に入ると右側壁面にイノシシと鹿の剥製が飾ってあり、まず圧倒されます。
 資料館の館内には諏訪大社の祭祀をつかさどってきた守矢家に伝わる古文書、毎年4月に行われる「御頭祭(おんとうさい)」の江戸時代でのお供え、飾り付けを復元して展示しています。
 守矢家は縄文文化が栄えていた古代において、「洩矢(もりや)の神」と呼ばれ、諏訪大社の祭祀を司ってきました。洩矢の祭祀の中心的なお祭りは「御頭祭(おんとうさい)」といい、いろいろな食べ物、物品が供えられました。供え物の中には75頭の鹿、鮒(ふな)、雉、ウサギなども供えられました。日本に仏教が入って、このお祭りは殺生の戒めから廃れますが、鷹狩をしていた関係から江戸時代まで続きます。この資料館では、江戸時代のお祭りの様子をスケッチした当時の民俗研究家菅江真澄の絵に基づき、飾り付けを復元展示しています。
この資料館の設計は資料館が建てられた地に生まれ、守矢家先代に「照信」という名前をつけてもらった建築史家の藤森照信さんです。
藤森さんは茅野の実家の敷地に「高過庵」と云うこの茶室を建てたことでも知られています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒川の河川敷を墨田区の京成押上線・八広駅まで歩く    その1

2021年04月17日 | 東京あちこち

定点観測のスポットから見えるこの場所で、総武線の電車の中のコロナ禍の環境で勤めに向う乗客に向って激励の手を振る応援団がNHKのニュースで全国に流れ、

たまたま小学校の金管バンドの朝の練習で居合わせた大太鼓担当の少年も画面に登場した場所でもある。☝

 荒川の下流側

 区の公園課によりポピーの苗が既に植えつけされていた。もう一月もすると沢山の人がポピー畑を楽しみに来る。

つい先日まで裸だったケヤキの大木はもう若葉が芽吹いて美しい。

 ムクドリの群れが芝の虫をひたすらついばんでいた。

若葉が食用になるというエノキは丁度若葉をつけだす頃らしい面白いタイミングの時期だった。全面的に一斉に芽吹くのではなくこうして枝ごとに葉をつけていくことを初めて知った。

またWikipediaによると「オオムラサキゴマダラチョウテングチョウヒオドシチョウエノキハムシタマムシホシアシブトハバチエノキトガリタマバエエノキワタアブラムシなど多くの昆虫の餌、食樹である。」そうだ。

210415 歩行数 8360歩 歩行距離 5.3㎞

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

50年前のコーラ南極で発見    日本南極観測隊からメーカーに寄贈

2021年04月17日 | びっくり画像・映像

南極・昭和基地近くで昨年9月、50年以上前に日本の南極観測隊が置いていったとみられるコカ・コーラの缶やロッテのクールミントガムが見つかった

持ち帰った観測隊員からメーカーへの贈呈式が15日、国立極地研究所(東京都立川市)であった。

50年前のコーラ南極で発見 観測隊からメーカーに寄贈

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新型コロナへの過剰反応をいつまで続けるのか 感染者や死者が少ない日本で弊害のほうが拡大 | 政策 - 東洋経済オンライン

2021年04月17日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・日本は諸外国に比べてワクチン接種が遅れており、接種が本格化すれば、外食、旅行などの対面型サービス消費が急回復するとの見方がある。だが、過度の期待は禁物だ。今回のワクチンは極めて短期間で開発されたため、有効性や副反応が未知数である。また、日本は欧米と比べて感染者数、死亡者数が圧倒的に少ないため、ワクチン接種によって受けることのできる恩恵が相対的に小さいということを認識しておく必要がある。

効果と副反応を冷静に比較考量すべき

2021年4月5日時点で、人口100万人当たりの新型コロナウイルスの累積感染者数はアメリカの9.3万人に対して日本は0.4万人、人口100万人当たりの累積死亡者数はアメリカの1679人に対し、日本は73人である。累積感染者数、累積死亡者数ともにアメリカの約4%にすぎない。話を単純化するために、ワクチンの有効性と副反応を死亡率に限定して考えると、有効性が90%の場合、ワクチンによって救われる命はアメリカの1511人(1679×0.9)に対して、日本は66人(73×0.9)となる。(※スマホではグラフを画面を横にして見てください)

  画像クリックで全文

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神保町から神田駅まで  その3   オフィス街に変貌した神田錦町に一軒だけ残っていたとんかつ店の看板が懐かしい

2021年04月16日 | 東京あちこち

かってスキー用具の大型店が林立していた小川町から神田錦町を通って昔ランチにかよった飲食店を探したが、見覚えのある店はなかった‥

と思ったら一軒だけ昭和50年代にあったとんかつ屋の店が残っていた。何となくほっとした(笑)。

 そして東京電機大学があったあたりはすっかり別の街になっていた。

美土代町に場所が変わってもう長い中華の「四川一貫」はコロナ禍の中へ閉店せず営業を続けているようで、もうしばらくしてから開店の時間だったが

この日は又の機会にしてJR神田駅に向った。

210409 歩行数 6949歩 歩行距離 4.4㎞

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

串カツはレンコンとタマネギになってもう長い

2021年04月16日 | 食べる飲む

ひと月前の3月15日、ウオーキングのあと亀戸のいつもの串カツの店「串カツでんがな」に寄っていつものオーダーを楽しんだ。

 店は席の配置や客の位置、消毒など相変わらずしっかり対策を取っている。事が起これば店も死活問題だから神経を使っている。

このチエーンはソースの味が関西と同じなのがありがたい。

210315    ウオーキング  歩行数 7173歩  歩行距離  4.5km

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野球見物や店外飲食に迷い不要、自らも行きたいとファウチ氏   CNN

2021年04月16日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・(CNN) バイデン米政権の新型コロナウイルス対策を主導する中心人物の1人であるファウチ大統領首席医療顧問(米国立アレルギー感染症研究所長)は米国内での感染状況に触れ、レストランの店外で食事を楽しみ、野球スタジアムに出かけてプレーに声援を送ることをためらわなくてもよい段階にあるとの判断をこのほど示した。

ただ、リスク管理の危機感については個人差があるだろうとも認めた。

CNNの取材に応じ、個人的にはレストラン店外で料理を味わうことにもうちゅうちょしないが、厳しい献身や責務を求められる職務を考えればそうすることは難しいとの悩ましい思いも吐露した。

画像クリックで全文

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする