ネットサーフィンしていたらこういう文章に出会った。
「橋田さんの納骨式は4月9日に、愛媛県今治市内のお寺で執り行われました。このお寺には彼女のご両親も眠っています。
遺骨は熱海の自宅からバスで現地に向かったのです。橋田文化財団のスタッフ、地元で交流のあった人たち、そして泉ピン子らが付き添いました……」
橋田さんは少し前に亡くなった同じく脚本家の夢千代日記や花へんろを書いた「早坂暁」clickさんなどと同じく伊予人の血を引く人だったと初めて知った。
伊予の国は正岡子規から現在の夏井いつきなどまで俳句の土地としても知られるが 大江健三郎など日本の文学文芸に豊富な人材を輩出するところだと思う。
ご両親のお墓が今治市のお寺にあると言われて見れば、橋田さんのお顔は自分が3年ほど過ごした新居浜など東予地方にはよく見かける顔貌だなとも思った。
#「父は愛媛県今治の漁師の長男だったが、家業を継がずに朝鮮に渡り、そのころは重晶石の鉱山を経営していた。
重晶石はバリウムの原料だそうだが、当時どんな使われ方をしていたのか私は知らない。・・・」
日本経済新聞 「私の履歴書」から引用。
「警告」
「ツインシティの警察は簡単にビクッっとする」
銃社会アメリカでは、しばしば警官の行き過ぎた武力行使が問題になっています。
ミネソタ州のツインシティ(※ミネアポリス・セントポールの通称)には、警官にまつわる変わった標識があるそうです。
引用元。
すぐに驚いては、すぐ拳銃をぶっぱなしてしまうという皮肉めいた道路標識。
ジョークではなく、2016年に武器を持っていなかったオーストラリア女性が警官に射殺された痛ましい事件の後に、抗議の一環で掲げられたものなのだとか。
大阪のコロナ感染者がどれだけ増えても、東京が多くない限りマスコミは騒ぎ立てない #BLOGOS https://t.co/VzNJS29UHP
— achikochitei (@achikochitei1) April 15, 2021
画像クリックで全文
一部引用・・・
3700万人もの人口をしめる1都3県のコロナ状況がどうなるかで、社会の雰囲気もメディアのトーンも大きく変わる。
なので現状、大阪が危機感を訴えても東京がまだ500人程度のため、いい意味でも悪い意味でも社会の雰囲気も、マスコミの雰囲気も、それほど危機感を煽っている感じはない。
多分そういうこともあって、菅首相は感染状況について「大きなうねりとまではなっていない」といった発言をしているんだと思う。
その発言がいいかどうかは別として結局、この国はよくもわるくも東京中心、首都圏中心で動いていてそこでの肌感覚や物差しが全国に影響する感じなのだ。
この先、東京をはじめ1都3県が増えてくると、全体の雰囲気は大きく変わりそうだが、もし東京がそう大きく増えなければ「大阪を中心とした特定地域だけの流行」みたいな印象で社会全体は動いていく可能性が高いけど、もし東京に飛び火するとマスコミも騒ぎ出し、コロナ大変だ騒ぎに再びになる可能性も。
すずらん通りも歩きました。
この通りは昼飯を食べによく歩いた場所ですが、昭和50年代には天ぷら屋などもあり、まだ戦前からの神田の町の雰囲気が濃く残っていました。
しかし数年前に大規模なビジネス街への変貌が完成し、往時の街並みは永遠に姿を消しました。
かろうじて昔の面影を残す一画がありました。昭和50年代には神保町の裏はこんな街並みが続いていました。
連続テレビドラマは「深夜食堂」と「孤独のグルメ」を見て以来、根気が続かないせいかほかのシリーズは見ていない。
ところがつい最近、面白いドラマがはじまったからビデオにとったよ、見てみたらと家人がいう。
調べると新潮のPR雑誌「波」でもう数年前から長く面白く読んでいるジェーン・スーさんのエッセイが原作になっていることがわかった。
一回目を見たらドラマとしてはイメージと少し違ったが、これはこれで続けてみるだけの面白い内容になっていた。
吉田羊も好きな俳優さんだが、W主演のもう一人国村隼はNHK大阪放送劇団からキャリアをスタートしていて
長く関西で仕事をしていたから馴染みがある俳優だ。かなり前のNHKの朝ドラで大坂制作の田辺聖子さんをモデルにした番組clickで旦那のかもかのおっちゃん役をしていた。
長年の飲み仲間の元NHKの宮崎純clickさんから国村隼さんとはジュン同士でよく一緒に仕事をしたと聞いているのも親しみを感じる一因かもしれない。
宮崎純さんとはM会のみなさんと酒肆「竹うち」clickでよく飲んだ。
ドラマ24「生きるとか死ぬとか父親とか」第2話
マイ・フェアー・ダディ 介護未満の父に娘ができること。
1. 突然の”SOS“
著者: ジェーン・スー
少しの生鮮食品、お菓子、フルーツ、消毒用アルコール、雑巾、ウエットティッシュ、フローリングシート、100円ショップのカゴをいくつか。45リットルと70リットルのゴミ袋、フリーズドライ食品、「こんなの食べられない」と拒絶される可能性が高い急場しのぎのレトルト食品、栄養補助食品と飲料を数種類。
想像しうる限りの必要品を詰めた袋を両手にぶら下げ、駅からの道を十分強歩く。夏はまだ先だが、今日は日差しが強い。
額と襟足から、ダラダラと汗が流れ出す。両手がふさがっているので拭えない。手がしびれてきた。肩には仕事用バッグが掛かっている。ずり落ちてこないよう、右の肩だけクイッと上げた。背中が攣りそうだ。
ようやく巨大UR団地の前まで来て、近場にスーパーがあったことを思い出す。少し気が急いていたのかもしれない。「あると思ったのになかった」よりマシだと自分をなだめ、すれ違う住人に会釈してエレベーターに乗り込んだ。
さあ、どうしよう。
御年82歳になる独居老人こと我が父は、24年前に妻を失ったあと、ひとり娘の私と同居したりしなかったり、何度かの引っ越しを経て、ジリジリと(ほぼ)全財産を失った。いまは立派な団地に住んでいる。
老人がイチから家を借りるのは難しく、初年度は一年分の家賃を一括で支払う必要があると、100万越えの見積もりを、上目遣いで見せられたのが五年前のこと。
ならば肩代わりと引き換えに、これまでの人生を晒して金に換えさせてもらおう。本人承諾の上、「波」で父についての連載を始めたのが2016年2月。めでたく単行本になり(『生きるとか死ぬとか父親とか』)、家賃一括支払い分を差し引いた印税の大部分は父の手に渡った。なんて親孝行な娘!
物語は終わったが、人生は終わらない。父は健康体のまま玉ねぎの皮を剥くように少しずつ痩せていき、歩みも一層ノロくなった。相変わらず口は達者だが、近ごろは語尾がやや不明瞭。喉や顔の筋肉が削げたのだろう。もの忘れも激しく、よく食べることだけが、救いと言えば救いだった。
父の老いから目を背けてきたわけではないが、「なんとかなる」と思っていたのも否めない。というのも、生まれながらの不道徳な博愛主義者である父の日常を、母の没後も世話してくれる人には事欠かなかったからだ。私が日参する必要などまるでなかった。「お母さんを亡くして20年以上経っているんだから、いいじゃない」と言う人もいるが、それは幸せな家庭で育った人の健やかな発想だ。詳細は省くが、私が知る限り、やもめになってから知り合ったガールフレンドはひとりもいない。
父の不道徳を責めながら、私はその歪なシステムに図々しく乗っかってもいた。「父には父の人生がある」ともの分かりのいいことを嘯き、月々の仕送りと、たまの食事と母の墓参り以外は、自分の人生にかまけてばかりいた。まるで、父が子どもの頃の私にそうしていたように。
終わりの始まりは突然やってきた。いろいろあって、ガールフレンドたちを大奥になぞらえるならば、万事を取り仕切る最高権力者である御年寄が、長期離脱を余儀なくされたのだ。御年寄も「お年寄り」だから仕方がない。十分に養生して欲しいと願うと同時に、胸に暗雲が立ち込める。
父は清潔好きだが、片づけができるかは不明。よく食べるが、自炊経験は皆無。洗濯は機械がやってくれるが、干したり畳んだり仕舞ったりは人任せだったに違いない。つまり、父には生活力がまるでない。「なんとかするよ」とは言うが、このままでなんとかなる見通しはない。これだから、モノを作ればなんでも売れた高度成長期の自営業者はダメなんだ。結局は、私が「なんとかする」ことになるのだろう。悲観的現実主義者の氷河期世代を舐めんなよ。
これは、福祉に頼るべき事態かも。そう思っていろいろ調べてはみたが、元気は元気なので、要介護認定は難しい。要支援がついたとしても、1が限度だろう。社交性はあるが協調性に乏しいので、父にデイサービスは不向き。ヘルパーさんを週に一度お願いしたとしても、家事代行サービスとの区別がつかず、無理なお願いをするのが目に浮かぶ。
家に金があった頃は常に家政婦さんがいたので、父は人を使うのがうまい。躊躇がない。それが裏目に出るに決まっている。先回りして、すべての可能性をつぶす自分にもゲンナリだ。なにかのはずみで男児を儲けていたら、私はひどく過保護な母親になったに違いない。
ひとまず、いまの暮らしを見てみようと家を訪ねたのが、御年寄の長期離脱の報告を受けた一週間後。「最近は家が汚くて気が滅入る」とは聞いていたが、玄関を開けて唖然とした。ものが多くて、足の踏み場がほとんどない。汚部屋一歩手前じゃないか。
冷蔵庫を開けると、さまざまな食品が複雑怪奇に詰め込まれ、まるでボルダリングの壁のようだった。奥を探れば、ここに引っ越してくる前に賞味期限を迎えたジャムが出てくる始末。時空が歪んでいる。冷蔵庫扉のケースには、納豆に付いてくる醤油とからしが何十個と押し込まれていた。
おお、なんと。我が家も例外ではなかった。老いと暮らしのほころびは、誰にでも平等にやってくる。ここ一年は、なんやかんやと理由を付けて父の家にこなかったことを私は悔やんだ。御年寄はもとから整理整頓が得意なタイプではなかったが、ずいぶん前から体の自由が利かなくなっていたのかもしれない。申し訳ないことをした。
目の前のプチ汚部屋は雄弁だ。もう、できないのだ。外で会えばいつだって元気な爺さんだったが、「おまえが見ていたのはまやかしだったんだよ」と汚部屋に耳元でささやかれているようだった。私は手元のスマホで、「汚部屋 なんでも屋」と検索した。
検索結果をしばらく眺めたあと、私は小さく心を決めた。人の手に託す前に、まずは自力でやれるところまでやってみようと。罪状不明ながら、罪滅ぼしの意識もあった。ちょっとばかり、メランコリックな情緒に動機付けさせられてしまったのだろう。綺麗好きな父が、この歳になってプチ汚部屋で暮らしているのも可哀相だった。
初回からわかりづらい構成で申し訳ないが、冒頭の場面は、この決心をしたすぐあとのこと。両手に大きな袋をぶら下げたまま、私は玄関のドアを開けた。
見境なく捨てるとトラブルになることは過去の経験から学んだので、使っていない小さな部屋を納屋代わりにしよう。私は居間と寝室にある「いま、ここになくてよいもの」を汗だくになりながら小部屋に移し、冷蔵庫のなかをすべて出し、捨てるものを捨て、床がベタベタしていると言われればフローリングシートで拭き、それでも落ちなければ、百枚近く保存してあった古いタオルでこすり落とした。父は「すまないね」と言いながら手伝いもせずテレビを見ているだけで、これでは12年前に実家を撤収したときとなにも変わっていないではないか。あの構図にだけは二度と戻りたくなかったのに、私はまたしても情緒に流されて、ホイホイ自分から穴に落ちていったというわけだ。
娘の憂鬱も知らないで、父がペットの文鳥を部屋に放つ。汗だくの私の肩に、文鳥が留まった。おまえは呑気でいいね。
平日は家事代行サービスの資料を比較検討し、週末には父の家を訪ね、片付けを二~三度繰り返していたある日。食料品を抱えて父の部屋の前に立った瞬間に、怒りで体が震えてきた。ドアを開ければ、父はいつもと同じように、テレビの前に寝そべっているだろう。「ありがとう」と言いながら、持ってきたものに必ず小さなケチを付けるに違いない。なんでこんなことを、私がやらなきゃならないの。
あ、マズい。これはマズい事態です。最悪、ストレスで父親を折檻しかねない。そういうニュースが世の中にはゴマンとあるではないか。憐みをともなった安い情緒で対応しては、絶対に私が潰れてしまう。それは誰も望んでいない。
私にも悪いところがある。問題解決が好きなのは、私の長所であり短所なのだ。端的に言えばお節介。自分から手を出しておいて、感謝が十分でないと傷ついてしまう。それはあまりにも勝手だろう。恋愛じゃないんだから。
父自身は清潔で、健康体。言うなれば、老人以上、介護未満。ならば、いま父ができることはなにか、できないことはなにか、新しく覚えられることはあるのかを見極め、本格的な介護に入るまでの生活を有機的に進めていきたい。言わば、私なりのマイ・フェア・ダディ。
この事態を、もっとビジネスライクに片付ける方法を見つけ出したい。問題解決の欲求を満たしながら、心に傷がつかずに済む方法は?
翌日、私は本屋へ走った。介護本コーナーを通り過ぎ、ビジネス書の平台の前に仁王立つ。これと、これと、これ。やり抜く人の習慣や、マッキンゼー仕込みのビジネスフレームワークが書かれた本を何冊か購入し、私は家路を急いだ。
待ってろ、父よ。見せてやるぜ娘のドライな底力。
(つづく)
(「波」2020年10月号より転載)
区役所の分所で用事を済ませてから旧中川の傍まで歩いて近くのバス停の時刻表を見たら5分後に東大島駅行きの時間だった。
東大島駅で都営新宿線に乗ると神保町に乗り換えなしでいける。両駅間の乗車時間は17分だ。
「神保町ブックセンター」には半藤一利さんの追悼コーナーが出来ているはずだ。地下鉄神保町では 迷わずうまく岩波ホールがある出口に出た。
相方と二人の自分たちの生活占有領域は庵なみの一室だけという簡素な生活になったので、もう本を置く場所はなく
蔵書の大々断捨離をへて、いまや図書館頼りの生活を送っているが それはそれで林住期の身にはふさわしいなあと感じている。
ただ 今までの長年の習性で時々新刊の本の森に入り込み、森の樹々の雰囲気に包まれたくなるから本屋さんも自分にとっては大切な存在だ。
お目当ての半藤さんのコーナーには購入したい本が沢山並んでいたがそれらは後日図書館で借りることにして、本の発行に気が付かなかった
PHP文庫の「アメリカはいかに日本を占領したか マッカーサーと日本人」という新書版だけを買った。
この辺りは40年ほど前に13年間勤務した神田美土代町から歩いても7分ほどだから 昼休みなどによく歩いた場所だ。いまも漂っている空気が懐かしい。
210409 歩行数 6949歩 歩行距離 4.4㎞
Dolphin Stampede with Dana Wharf Whale Watching
南カリフォルニアでホエールウォッチングを楽しもうとしていたツアー客の前に、約1000頭のイルカの大群が現れて、ボートに乗っていた人々を圧倒しました。
カリフォルニア州オレンジ郡のホエールウォッチング会社「デイナワーフ・ホエールウォッチング」のツアー客たちが、イルカの大群に遭遇したのは3月。
同郡デイナポイントを航行中に、イルカの大群と出会いました
このブログのネーミングは永井荷風さんの日記名「断腸亭日乗」clickに負っているが、その文豪 永井荷風さんが戦前の当地を歩いていたことを知った。
それは昭和13年12月7日のことだった。いまやその時から83年の月日を閲していても、「東京のはずれ で 場末の街」であるという当地の風情の中で
外国人も含めて多くの人が入れ替わり立ち代わり住んでいる。
今も歩いて10分以内の範囲に銭湯2軒、畳屋2軒、自転車屋2店がある街はそう多くはないだろうし、
内科眼科歯科医院は10数医院を下らず、商店街やスーパーマーケットは言うに及ばず コンビニとなれば周囲に5店もあるとなれば
自転車にも乗らない後期高齢者にはありがたい棲みどころではある。
ところで あるとき浅草からの帰り 一本で乗り換えなしに終点の最寄り駅まで帰れるのをたまたま知って、雷門のすぐ傍から乗った都営バスの路線が
(それから時々利用しているが、時間が一時間ほどかかる)永井荷風がその路線に乗ったという記述で、昭和13年当時には既にあったこともわかり、
そのような歴史的歳月を有するバス路線なんだと知ったのも嬉しい驚きだった。
新潮社「波」2021年3月号 川本三郎 「荷風の昭和 第34回」から引用。
注 哺下: 夕暮れ
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参考:
「東京23区格差」のウラ側〜足立・葛飾・江戸川「下町三兄弟」⇒こちら。click
葛飾・足立・江戸川区はブランド化されずにひっそり残った「等身大の解放区」だ【連載】東京下町ベースキャンプ(1)⇒こちら。click
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青
い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ
てくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女 女はゆき過ぎた。 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ ----やっぱり I was born なんだね---- 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひ
(作者註:「淋しい 光りの粒々だったね」は
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吉野 弘
「現代詩文庫」思潮社 |