
(キリング・フィールド慰霊塔に安置された遺体)
カンボジア全土を虐殺の墓場にしたポルポト率いるクメール・ルージュの狂気。
トゥール・スレンを見学した翌日、トゥール・スレンで拷問を受けた人々が連行され処刑されたキリング・フィールドを訪ねました。
前日キリング・フィールドをまわることも時間的にはできたのですが、1日フルに悲惨な過去に直面することがためらわれました。
また、前日の天気がいまひとつだったので、その陰惨さが増すような気もして、キリング・フィールドは翌日に持ち越していました。
この日は天気がよかったため、幾分救われるところがありました。
プノンペン郊外(南西約12km)に位置するチュンエク村は通称“キリング・フィールド”として知られています。
プノンペンの街を歩いているとバイタクやトゥクトゥクの兄ちゃんから「キリング・フィールド?」とよく声をかけられる、そんな“観光スポット”です。(距離があるので彼らにとっては、いい稼ぎになる場所でもあります。)
キリング・フィールドに到着すると、まず慰霊塔が目につきます。
慰霊塔には、この地で発見された8985柱の遺骨が安置されています。(写真上)
当初トゥール・スレンでは処刑まで行われており、遺体は裏手の小学校校庭に埋められていたそうですが、処刑数が増加して手狭になったのと、処刑時の声があたりに響くことから、このチュンエク村(キリング・フィールド)に連行して処刑・埋葬するようになったとか。【ウィキペディア】
キリング・フィールドは処刑センターとして、トゥール・スレン以外の収容施設からも犠牲者が送り込まれました。
一見するとのどかな野原の風景です。
あちこちに穴が掘られている以外は・・・。
その穴のひとつひとつから何十、あるいは百を超える遺骨が発見されています。(写真下)

基本的には即日で処刑されましたが、連行される者が増加し、1日に300人を超えるようになると“処刑しきれず”、留置所に一旦入れられることもあったようです。
処刑するとき大騒ぎするような“loudspeaker”を吊るして静かにさせるのに使った木。
子供を叩きつけて殺すのに使った木。
百体以上の子供と女性、その多くが裸の遺体が埋められていた場所。
処刑する側もその多くが10代の子供達でした。
166体の“首のない遺体”が見つかった場所。
450体もの犠牲者が埋められていた穴。
DDTなどの化学物質が保管されていた場所があります。
化学物質が使用された理由はふたつ。
ひとつは遺体からの異臭が付近で働いている人々に疑念を抱かせることを防ぐため。
もうひとつは生きて埋められた者(“処刑後もまだ息がある者”ということか?)を完璧に殺すため。
敷地内では牛が草をはんでいました。
当時の人々の命が牛の命より軽かったことは間違いありません。
トゥール・スレン同様、訪れているのは外国人ばかりです。
地元の小学生などが社会見学等で来ることもあるのでしょうか?
別の日に日本語ガイドを頼んだ青年に訊くと、学校ではクメール・ルージュ時代のことは殆ど教えていないそうです。彼は、いろいろ知りたいことは図書館で調べているとか。
現在のフン・セン首相自身が元々はクメール・ルージュの一員で、ベトナムが近い東部エリアで活動していたため、“ベトナムと通じているのでは・・・という”ポルポト等の疑惑がかかるのを恐れて、また、その過激な政策に嫌気して、クメール・ルージュを離脱しベトナムへ逃げたグループのひとりです。
そんな事情があるので、あまり過去を掘り返すようなことは現政権もしたくないところがあります。
ガイド青年に「まあ、フン・セン首相も元々ポルポトの一派だったからね・・・」と言うと、笑いながら唇に指を立てて「それは言っちゃいけません。」とのこと。
どこの国でも、自国の負の歴史を直視するには勇気が必要です。
門をくぐってまた観光客を乗せた車がやってきました。
30年前、自らの運命を悟り押し黙った人々を乗せたトッラクが同じようにこの地にやってきました。
30年前カンボジアで起こったことが、明日私たちに起こらないという保障はありません。
詳しくはhttp://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10209803/をご覧ください。