孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

マレーシア  非イスラムの“アラー”使用制限、イスラム“棄教”問題にみる社会傾向

2008-01-22 15:45:39 | 世相
いささか旧聞に属する話ですが、今月始めマレーシアにおける非イスラム教徒の「アラー」という言葉の使用を禁じることについてのロイター報道がありました。
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イスラム教徒が国民の多数派を占めるマレーシアで、当局がキリスト教系の新聞社に対し、イスラム教の神「アラー」という言葉の使用禁止を命じた。
マレーシア政府は先に、制限事項を撤廃するなど出版規制を改定。しかし、宗教問題担当相は4日、イスラム教徒以外が「アラー」という言葉を使用することについては、引き続き禁止すると述べた。
マレーシアの人口はおよそ2600万人。このうち、マレー系のイスラム教徒が全体の約6割を占めている。
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問題になったのはカトリック系週刊紙『ヘラルド』ですが、『ヘラルド』紙のローレンス・アンドリュー編集長は発行許可の更新の際に制限は付けられなかった、と語っています。
しかし、アブドゥラ・ジン首相府相(宗教問題担当)は1月4日、イスラム教徒以外が「アラー」という言葉を使用することは、許可更新後も引き続き禁止であり編集長の発言は誤解に過ぎない、と語ったそうです。【1月6日 CJC通信】

“引き続き禁止”ということですが、従来黙認されていたのが実質的に禁止になったということでしょうか・・・事情がよくわかりません。

これに関連する記事。
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マレーシア政府は、“アラー”、“バイトゥラー(神の家)”、“ソラット(祈り)”といった5つの常用アラビア語で、非イスラム教の文学、礼拝、スピーチに使用してはならないと発表。
長年礼拝にこれらアラビア語を使用してきたキリスト教徒、シーク教徒、ヒンズー教徒は、政府決定は宗教の自由を著しく損なわせるものと批判している。
マレーシア憲法は、国教であるイスラム教だけでなく他宗教の自由も認めているが、非イスラム教信者は、イスラム政治勢力の台頭で信仰の自由が徐々に制限されるのではないかと恐れている。
特に、イスラム教、ヒンズー強の影響が強く、神をアラーと呼んでいるシーク教徒は、この禁止令に驚きを隠せない。
マレーシアの宗教分断は、昨年11月25日に数十万のヒンズー教徒が行った権利拡大、富の均等配分要求デモ後に始まった。
イスラム教徒は、政府決定の背後には、キリスト教徒がアラビア語を使用するのには隠された意図があるとの考えがあると見ている。キリスト教徒は、それによりイスラム教徒の改宗を意図しているというのだ。
マレーシア女性アザリナ・ジャイラニのキリスト教改宗裁判では、激しい法廷闘争の末最高裁がマレーシアのイスラム教徒はその信仰を捨てることはできないとの判決を下している。
キリスト教リーダーは、今回の決定は中道・多民族国家というマレーシアの国家イメージを損なわせるものと嘆いている。【1月16日 IPS】
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昨年11月のインド系住民の抗議活動、マレーシアの基本政策であるマレー系優遇のブミプトラ政策については昨年11月30日のブログでも取り上げたところです。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/m/200711
ブミプトラ政策をとりつつも、多民族・他宗教国家を維持してきたマレーシア社会に変質の兆しがあるのでしょうか?

アザリナ・ジャイラニのキリスト教改宗(イスラム棄教)の件についても多くの考えがネット上で見られる問題です。
「リナ・ジョイは「棄教」できるか?――現代マレーシアのイスラームと改宗」(光成歩)からいきさつを抜粋します。
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/furuta-semi/articles/mitsunari20071109

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改宗後の名前はリナ・ジョイ、1964年、マレー人ムスリムの家庭に誕生。
1998年、34歳のときにインド人キリスト教徒の男性との結婚を希望して洗礼を受けてキリスト教に改宗。
翌年、国民登録局にてキリスト教への改宗を理由に身分証の名前をリナ・ジョイと変更。
しかし、身分証には彼女の宗教が「イスラム」と記載されており、この記載が削除されない限り彼女はキリスト教徒の男性とは結婚できません。
マレーシアではムスリムと非ムスリムとの婚姻は法律上認められていないためです。
国民登録局は、イスラム記載の削除のためには本人の申し立てだけでなくシャリーア裁判所による「棄教」の証明書が必要であると主張してリナ・ジョイの申請を拒否したため、リナ・ジョイはマレーシア政府、国民登録局、連邦直轄領イスラム評議会を相手取って裁判を起こしました。
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昨年5月30日、連邦裁判所(マレーシアの世俗の司法制度における最高裁判所)は、宗教の自由に関する憲法判断を避け、(棄教の権利は否定しないが)「棄教」手続きは民事裁判所でなくイスラム法によるシャリーア裁判所でおこなうべきである(多数意見)と言い渡しました。
アブドル・ハリム裁判長:「気まぐれで宗教に出たり、入ったりは出来ない。法には従わなければならない。棄教はイスラム法に関係することで、民事法廷は介入出来ない」

イスラムでは改宗は基本的には認められておらず、棄教は大罪(原則死刑)とされています。
もし、シャリーア裁判所でこれを扱えば、有罪・投獄という事態が想定され、連邦裁判所の判断は手続き論にこだわる形で、実質的には棄教を否定する立場とも言えます。
(そもそも、クアランプールを含む連邦直轄領については、棄教に関する手続きを定めたイスラム関連法がなく、シャリーア裁判所も棄教を管轄する法的根拠がないとリナ・ジョイは主張しました。)

なお、ムスリム法学者協会の報道官によると、改宗は全く前例がないというわけでもなく『今まで16人にシャリーア法廷はイスラムからの離脱を認めた。』という発言もあるようです。【ウィキペディア】
このあたりの実態もよくわかりません。

判事のなかで唯一の非ムスリムであるマランユム判事は“イスラム法廷では棄教で有罪になるのは明白であり、イスラム法廷に委ねるのはジョイさんにとって無意味だ。”という立場で訴えを支持する少数意見を出しています。

上記サイト「リナ・ジョイは「棄教」できるか?」が指摘しているのは、この問題が一般的な“宗教の自由”の問題にとどまらず、“マレー人=ムスリム”という大前提で、かろうじて半数を若干超えるマレー人が優遇策を享受する社会が構築されている現状に対するマレー人自身からの異議申し立てにもなりかねない・・・という問題をはらんでいる点です。

アブドラ首相は9日、イスラム教からの離脱を求める訴訟が最近増えていることを問われたのに対し、「なぜイスラム教を捨てたいと思うのか、どんな不満をイスラム教に持っているのかの調査、問題解決を宗教当局に要請している」と述べたそうです。 (“調査”云々は日本でも、“何もする気がない”という本音のときの常套句です。)

イスラム教からの離脱では、イスラム教徒の男性との結婚を機にイスラムに改宗した女性が、夫の死後、元の宗教に転向する例が見られます。
最近の顕著な例では、29歳の女性がヒンドゥー教を信仰していることを公言。セランゴール州の更正センターに6カ月間、収容されました。

更正センターで拷問が行われているとの消息が伝えられていることについて、首相は、「そうした話は聞いていない」と退けています。 【07年7月11日 JST】
まあ、拷問はどうだかわかりませんが、“熱心な説得”は当然あるでしょう。
人によってはそれを“洗脳”と呼ぶでしょうし、“精神的拷問”と捉える人もいるでしょう。

恐らく、個人の自由より、宗教的立場を優先させるような考え方はひとりイスラムだけの問題ではなく、他の宗教でも大なり小なりあることなのでしょう。
日本の靖国神社がキリスト教徒遺族からの合祀取り消しの求めに応じない対応にも、同様のにおいを感じます。
(もちろん、それぞれの宗教・団体内部ではそれ相応のロジックがあるのでしょうが、部外者には奇異にうつることも)

マレーシアの話とは全く関係ありませんが、カトリックとイスラムの代表が今春にも、ローマで会談する計画があるそうです。
教皇ベネディクト十六世は06年9月、イスラムの教えを「邪悪」「残酷」とするビザンチン帝国皇帝の発言を演説で引用し、イスラム諸国の反発を招き138人のイスラム宗教者が昨年10月、キリスト教とイスラム教の対話を求める公開書簡を発表しました。
今回の計画はこれに応え、双方の関係改善を図ろうというものだそうです。

これだけイスラムの問題が世界情勢の中心課題になっているとき、このような対話が宗教関係者の間でなされてこなかったことが不思議にも思えます。
なかなか表の議論には馴染まない問題も多いかと思いますが、互いの価値観や懸念するところを忌憚なく伝え合うことで、両宗教間、あるいはそれぞれの宗教社会における異教徒の問題について、現実的対応が促されるのであれば喜ばしいのですが。

コメント
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