(エジプト カイロの街角で服を品定めする女性 売られている衣服は意外と派手なものが多いように思えました。2007年9月)
絶えずいろんな形で問題になるイスラム教徒のスカーフ。
今度はスペイン。
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スペイン北東部カタルーニャ自治州ジロナの公立小学校でこのほど、モロッコ人移民のシャイマ・サイダニちゃん(9)がイスラム教徒のスカーフ(へジャブ)をかぶって登校したところ、学校側は「校則違反」として登校を禁じた。
州政府が1週間後に「彼女(サイダニちゃん)が教育を受ける権利は校則より重要」と認めて登校を認めたが、04年にフランスで大論争となったスカーフ問題が移民急増中のスペインに飛び火した形となっている。
政教分離を国是とするフランスは「教育の場に宗教を持ち込まない」との立場からスカーフを禁じ04年に大論争となったが、マドリードのコンプルテンセ大学のボウザ教授(社会学)は「スペイン社会はカトリックの影響が強く、宗教的な首飾りを着ける児童も多い。スカーフを問題にはできない」としている。
スペインでは移民人口が96年に100万人だったが、06年には448万人(このうちモロッコ人は最大の57万人)に急増している。【10月8日 毎日】
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非常にビジュアルで象徴性の高いスカーフは、着用を求める側、抑えようとする側、双方にとって問題になりやすいようです。
問題となるケースにはいくつかのパターンがあります。
① スペイン、フランスなどの西欧諸国で、イスラム系移民が着用を求めるケース
② トルコのようにムスリムが大半を占める国で、政教分離の立場から公的な場所でのスカーフを禁じているケース
③ イスラム教国で、ムスリムまたは異教徒国民に当局が着用を強制するケース
②のトルコについては、イスラム主義政党に所属するギュル大統領選出にあたり、夫人のスカーフ着用が政教分離の国是を危うくする懸念があるとして問題となりました。
その経緯については9月1日の当ブログでも取り上げています。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070901
与党の公正発展党(AKP)は、02年の選挙で掲げた公的な場所でのスカーフ着用の禁止解除を今年7月の総選挙では公約からはずすなどして、イスラム色を薄める対応をとっていました。
しかし、エルドアン首相は9月19日、英フィナンシャル・タイムズ紙のインタビューの中で、トルコの大学構内で禁止されているスカーフの着用を許可すべきだとの考えを示しました。
AKPは現在新憲法制定作業を進めており、その新憲法案にはスカーフ着用を認める「個人の自由」が盛り込まれる可能性があると報道されています。【9月20日 読売】
トルコにおける公的場所でのスカーフ着用禁止は、政教分離・世俗主義のシンボルでもあり、“イスラムという宗教を国家が管理コントロールするのであって、その逆ではない”という意思の表れです。
伝統的価値観、宗教への回帰が世界的に強まる潮流にあって、この世俗主義堅持は今後変更されるかもしれない状況です。
③ については、例えばイランの服装取締り運動について8月6日の当ブログでも扱いました。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070806
また、マーレシアにおいての事例の紹介が
http://ameblo.jp/nyaonnyaon/archive1-200603.html
になされています。
「トゥドゥン(頭髪を覆うスカーフ)をめぐるふたつの問題が国会論戦に発展した。
ひとつは学校がイスラム教徒の女生徒に事実上着用を強制した問題。フランスやシンガポールの学校がスカーフを禁じたのと逆のケースだ。政府は国会答弁で「着用を推奨するが、学校側は強制できない」という苦しい言い方で決着を図った。
もうひとつは警察が記念行事で非イスラム教徒の女性警察官にスカーフ着用を義務づけたこと。
華人系の野党は猛烈に反発したが、アブドラ首相は「日常業務で着用の義務はないが、記念式典では義務」とあいまいな定義で一応のケリをつけた。」
またインドネシアでもジルバブ(スカーフ)着用を義務付けたり、飲酒やとばく禁止などイスラム法(シャリア)に基づいた地方条例が増加しているそうで、インドネシアのユスフ・カラ副大統領は、自治体がシャリアを強要するのではなく、個人が実行することが重要だとの見方を明らかにしています。
カラ副大統領は「イスラムの規律は条例がなくとも守れる。断食や喜捨は知事に命じられて行うのでもなく、警官が監視すべきことでもない。個人の自覚に基づいて実行すべきことだ」と述べ、宗教活動に政府や自治体が干渉すべきでないとの見方を示したそうです。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200607061323004
この着用の強制の背後にあるのは宗教上の規律遵守要求ですが、①の西欧における着用の禁止の背景にあるのは移民文化への対応、文化的アイデンティティーの問題だと思われます。
1998年ドイツで、スカーフを着用したまま教壇に立つ自由を主張していたアフガニスタン人教育研修生(内務相などを歴任したアフガニスタン高官の娘でドイツ人と結婚)ルーディンさんが、州から採用を拒否されたことが問題になりました。
ルーディンさんは「イスラム教によると魅力あるものは隠さなければならないとされており、女性の髪はそれにあたる。人生のあらゆる領域で私はイスラム教徒であり、スカーフは人格の一部である。」
と主張しました。
州文化省の見解
「世界中の事例でもわかるように、スカーフ着用はイスラム教徒女性の義務ではない。
他文化から自文化を境界づけることの象徴であり、それにより政治的象徴として評価されている。
公立学校では、教師は教育上の模範、国家とその価値、規範の代表として活動せねばならない。
そこには寛容も含まれる。
宗教的シンボルが政治的シンボルとして受け取られ、文化的境界をつくりだすものとして使われるとき、社会的平穏は脅かされる。
宗教は相互に尊重し、自身の宗教信条よりも、他の宗教の信条に譲歩する姿勢を尊重しなければならない。
自分の個人信条を示すにあたって、自分の宗教の他の信徒や、他の宗教の信徒に対しどのような作用をおよぼすか考慮しなければならない。
いままで一度もスカーフを身に着けたことがないイスラム教徒の娘にスカーフを被ることを強制するようなことがあってはならない。
模範となるべき教員として、スカーフを被ることの政治的シンボルとしての危険性について認識することが求められる。」
この見解においては、スカーフ着用の政治的行為としての危険性が指摘されており、背景にはイスラム原理主義台頭への警戒感、そのドイツへの浸透を阻止したい意図があるとされています。
この問題は行政裁判所に提訴されましが、州文化省判断が支持されました。
判決理由。
「たしかにスカーフ着用の拒否が個人の信仰の制限になることは同意する。
しかし、着用を認めることは教師の中立性を保つ義務に抵触する。
両者を考慮すると、生徒の保護が個人の信仰の自由に優先する。
信仰に基づくスカーフはただの衣装ではなく、教室では明らかに明示的な宗教の象徴である。
生徒がそこに模範を見て、学校でのさまざまな宗教の平和的共存が破壊されるかもしれない。」
【「戦後のタブーを清算するドイツ」 三好範英】
教師のスカーフ着用が他の生徒の宗教に影響を及ぼし、ひいては宗教の平和的共存が脅かされる・・・という州文化省、州行政裁判所の見解は理屈としてはもっともではありますが、およそ文化・宗教とか社会的価値観というものは教師・両親・その他社会の様々の物・人を見て学び・習得していくもので、ひとり教師のスカーフにこれだけの厳格な中立性を求めることが他とのバランスで合理的かどうかについて疑問があります。
もし、これがイスラムの象徴たるスカーフではなく、自国の主流たる文化・宗教・伝統に沿うようなものであればこれほど厳格な中立性は求められなかったのでは?
実際上の問題としても、私事で恐縮ですが、カトリック系宗教団体が運営する私立学校に通っていたため、中学・高校時代、修道士が修道服で英語の授業の教壇に立っていました。それでカトリックに影響された生徒がいたかと言うと皆無でしょう。
厳しい見解の背後に「イスラムが広がるのは困る・・・」という意識があるように思えます。
それは、イスラム原理主義台頭への警戒感もあるでしょうが、もっと広く捉えるなら、自国文化に馴染まない移民社会の異文化の拡大に対する抵抗・・・というようなものではないでしょうか。
それは決して不自然な、あるいは誤った考えではなく、ひとつの文化が異文化に遭遇するとき起こる生理的な拒絶反応的なものに思えます。
問題はこの拒絶反応の程度は社会の構成員一人ひとりで異なるでしょうから、どこで線を引くか・・・という問題です。
できるだけ拒否感を抑えて、少数派の権利・文化を尊重し、異なる文化が並列する多元的社会を目指すか。
自国文化への完全な同化を求め、異文化的要素を厳しく排除するか。
異文化についてもある程度のイデンティティーはまもりつつも、居住国の既成の社会的価値観を必要な範囲で受け入れ、文化の統合を図るか。
その場合、程度についてはまた個人差があるでしょう。
長くなってきたのではしょりますが、個人的意見を述べるなら、移民社会の異文化的要素の存在はある程度認めたいと思いますが、“統合”というのか、居住国の価値観をやはり尊重して社会の一体感は保持する必要があると考えます。
具体的には最低限、居住国の言語の習得、自由とか平等といった基本的価値観に対する理解は必要でしょう。
評判のよくないゲットーについては、その成立はある程度やむを得ないのでは・・・と考えます。
治安維持の必要はありますが。
その他について、具体的にイスラム移民を例にとれば、京都みたいな街にアザーンが響くというのは困ります。
まだ暗いうちに鳴り響くアザーンも困ります。
しかし、昼間であれば、通常の街の多数移民が暮すエリアでアザーンが響くのは、その土地の特色・風物だと受け入れます。
スカーフは顔を出すヘジャブは全く気になりません。
しかし、目だけしかださないニカーブ、ブルカはコミュニケーションをとりづらく受け入れがたいものがあり、日本では困ります。
そんなところが、個人的な許容ラインのイメージです。