明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




先日浮かんだ暗い室内の陰影の中に浮かぶ松尾芭蕉、蝋燭一本又は油に灯芯の灯りに飛び回る蛾。シャッターを押したように瞬間に浮んだ。それは良いのだが、ここから構図など変更出来ないのが玉に瑕である。この後にいくら工夫してもファーストインプレッションを超えることはない。超えられないのなら、すぐに浮かぶのなら結構なことかもしれないが、私もスケッチブックにああだこうだ、と試行錯誤をして生み出したいのである。しかし、最初のイメージを超えられずに苦しむことになる。紙に何気なく悪戯描きをし、結局それ以上の物が浮かばず、ゴミ箱をあさって以来、もうスケッチなど止めた。いくら試行錯誤しても落ちてきたボタ餅には絶対勝てない。このせいで、個展会場では、熟考の末こうなりました、という見栄を張ってしまうのである。 しかし、さすがに人形と違ってそうは行かないのが芭蕉庵の制作である。飲み仲間には、大手ゼネコンの元部長もいる。いくらでも知恵は借りられるだろう。しかし高層ビルの工法を取り入れる訳にもいかないので、く例によって、人にはとても見せられない非合理なやり方で挑むことになるのであろう。そういえば昔、建築事務所に入って結局、挫折した友人がいる。彼くらいに知恵を借りて程よいかも知れない。



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なんだか記憶が薄れて行くように、日々三島の面影が薄くなっている。次の私に会いに行くには、こうでなければならず、そのためには、コロナ騒動の真っ只中ではあったが、決行は必要であった。10月にニューヨークで出版される『男の死』も、椿説男の死を先に発表出来たことにより客観的に思えるようになった。 事件直後に発表されず、五十年後のという三島の無念を想うのは相変わらずではある。生前も積極的に嘲笑をあえて受けるようなことをして来たが、ここへ来て再び世界的作家のコスプレ写真は様々な憶測を生み、笑う人も多いであろう。私が想像するに、おそらくそこには文学的死は描かれてはいないであろう。死の前年に演出した椿説弓張月のような悲劇の英雄や、市ヶ谷の三島のような、また三島作品のドラマチックさは、おそらくそこにはなく、むしろ市井の魚屋やヤクザ、兵隊の死に様が並んでいるのであろう。だからこそ、あの劇的な死の直後に出ることの効果を三島は狙っていたのだろう。 話は違うが、異性愛者の私は対象が自分と違うからこそ良い訳だが、三島は私が彼になりたい、彼でありたい、と対象に近ずこうとする。ある時から、ヘアスタイルも、それこそ魚屋、寿司職人、のようにし、中身は叶わずとも、外面的に近付こうとする。ある初期のプロレスラーと、昭和の歌謡界の大作曲が出来ていたという話を聞いたことがある。耳を疑ったが事実らしい。接点も確かにある。実は私は、幼い頃、二人は似てるな、と思っていたのである。ウエーブがかった髪、ブロータイプの眼鏡にチョビ髭。自己愛と何か関係関係があるのか、私の伺い知れぬ世界である。 個展を済ませ、気分もようやく落ちつき、という話をするはずが、良くあることだが、風に流され、着地点がずれた。

ふげん社のページ

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一日  


昨日某運送会社のドライバーとギターの話などしたこともあり、ようやく気分が元に戻りつつある。雨降るこんな日には、全方向的に方向音程の私は、これから暑くなるのだったか寒くなるのだったか、一瞬だけ考えたりする。 それにしても、実在した人物を新たに作らないと決めて気分は楽である。正直いって作る前に、これは間違いなく上手く出来るな、と思ったことは一度もない。ひたすら完成を祈るだけであった。そうやってなんとか完成まで持ってきた、だから今度も、ということだけを作ることを支えに、ただひたすら時間をかけるだけであった。ノウハウもなく、祈るだけだったというのは比喩でも何でもない。首さえ出来たら、後は楽しいことが待っている。最近は写真作品在りきであり、写真作品としてのイメージが湧かなければ作ることはなかった。そして最後まで年に六体が限度であった。であるから頭部が既にある人物については、一番苦しく、時間のかかる部分がクリアしているので、むしろ楽しみはここから、ともいえる訳であり、ついもう作らない、というつもりになってそういってしまうが、そういう人物については作るのは止めない。 寒山拾得については、まず寒山から作り始める。拾得とどこが違うのかといわれても判らないが、とりあえずは。いや二人とは別に、豊干から始めるべきかもしれない。書きながら今そんな気がした。まあ、このようにブログを書いていても考えが行き当たりばったり変わるのだからどうなることやらさっぱりである。こんな調子で良い、という気だけはする。

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私が小学生の時に、百科事典ブームがあった。私の家にも小学館の事典が来たのだが、小学校から中学にかけて、それを一往復は読んだ、端から順番に読むのが面白かった。母はしょっちゅう私がそれを読んでいたことを覚えている。それを見て寒天を買ってきてもらい、牛乳を使った和菓子を作ったこともある。特に印象が残っているのはシャンソンの項が妙に詳しかったことと、別巻の美術で、シュールレアリズムを知った。何か懐かしさのような物を感じたのを覚えているが、その体験から、子供にこそストレートに感じさせるものがあると思う。それともう一つ、ボディビルの項に載っていたのが三島の上半身で、子供心に異様に感じた。貧弱だったし。 これは後年知ったのだが、その事典を編集したのが、戦後の短歌を演出した名編集者中井英夫なのであった。虚無への供物には三島をモデルにしたと思しき人物も出てくる。私は中井も作ったが、ご丁寧にも若い時代と晩年の二種類作った。私を夢中にさせた理由がこれでわかった。 ジヨン・ネイスンの『三島由紀夫ーある評伝』(新潮社)に“小学館の百科事典の編集部が、「ボディビル」の項目に載せる写真にポーズしてくれないかと依頼してきた。三島は友人の久保に、それを人生でいちばんうれしかった瞬間の一つだと語った。書斎の三島の背後に並んでいるのが、あの百科事典かもしれない。
※最終日まで2時以降会場におります。



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2000年から続けていたホームページが消えてしまい。ここ四年ほど、振り返るにはこのグダグダしいブログを検索するしかない。友人が保存してくれているので身辺雑記くらいはいずれ復活させたい。画像は今の常識からすると軽すぎるし。 元々何某か更新しないとホームページは誰もみてくれない、とよく言われたもので、作品は一通り載せてしまえば、そう更新はできない。仕方なく始めたのがよく続いている。パソコンで書いていたときは、モニターのこのあたりまで、なんて書いていたが、スマホにしてからは、どうもさらにクドクドしくなり、字数は六百まで、と思っていたら、最近は下手をすると七百文字を超えてしまったりする。 しかし考えて見ると、作るときは頭を使わず衝動のままにやってしまうのだが、その割に、なんだか判らないがやりたいからやる、ではあまりにバカみたいでブログで言い訳しているような気がするが、それが結果的に私は何をしようとしているのか、について考える結果になり、飯沢耕太郎さんとのトークショーを改めて見て見ると、最初から自分が何をしようとしているか、知っていたかのような顔をしていた。 もっとも、完成した、といっているのに、私は何をしたくてこんなことをしているんでしよう、ではあまりに情けない。そう思えば、結果的に、自分自身納得して完成しました、といえるのであれば良かった、ということになるだろう。実はそんなスムーズには行かず、当てずっぽうだったり、グループ展の出品作を二度も差し替えたり、なんてドタバタしたことなどは、当ブログを読んで頂いている方々にバレてはいるけれど、読者数を考えると、たいして恥ずかしくならないという寸法である。
三島以外の出品作。





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三島自決直後に出た数々の週刊誌の特集号を見ると、インタビューや寄稿文などトンチンカンなことをいってる連中を散見する。その激震が収まっていないところにニの矢となって放たれるはずだったのが薔薇十字社刊の男の死だったろう。世間は自分に対して勝手な解釈をしていやがる、ザマァミヤガレ、と想像して喜んでいただろう。ついこの間、憲法改正だ天皇陛下バンザイ、といっていた人物が魚をぶちまけ、腹に包丁が刺さって一心太助みたいに死んでいる姿を世間は目にするはずであった。 東大全共闘との対話は、いつか観ようとでかけたら土曜日の自粛で観られなかった。私としては実をいうと学生との対話内容など爪の先ほども興味はなく、若い東大生に囲まれ、仮に襲われてリンチにあって死んでも、それはそれで有りだな、と目を輝かせ嬉しそうにしている三島の顔を観察するのが目的であった。ようするにそんな人間がコロナ騒動の中、珍説男の死を開催しているのであった。









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昨年、金魚坂での個展は、本物の金魚を使って室生犀星の『蜜のあはれ』を制作したのだった。赤井赤子こと、被写体に選んだ琉金は立派な尻尾をしていたが、さらにそれを強調してみた。赤子はウチに来る事になっていたが、当時はまだ引っ越し先を探している最中で、落ち着いたら取りに行くことになっていた。 小学生の頃から熱帯魚は飼っていたが、金魚は鈍臭い動きが嫌いであった。ところが金魚坂で撮影していたら、赤子という女の子を撮影しているような気分も多少あり、顔を撮ろうとすると、明らかにそむけたりして。そうこうしていると、このフラダンスしているような動きこそが可愛らしく見えて来た。昨年暮れに取りに行こうと思ったら調子が悪い、ということで本日用事もあり、取りに行けたら、と思ったら、死んでしまったという。以前金魚の飼い方を読んだら、金魚に名前を付けてはいけない、と書いてあった。付けた訳ではないが、赤子という気分ではあり、ただ金魚が死んだ、とはやはり何か違った。 砂町図書館に行く。砂町銀座商店街の中を行く。商店は水曜日はほとんど休みで、空いていたので肉まんを歩きながら。歩き食いは世代的にあまり楽しくはない。 一度減らした蔵書をもう増やす訳には行かない、特に持っていた本は悔しくなるので借りて済ますことにする。本は積んだらお終いだ、と肝に命じている。石田波郷コーナーを初めて見る。帰りはすっかり暗く風も強い。開いている惣菜屋を覗くと安い。ソニー・リストンの拳くらいあるチキンカツに切り分け損なったのではないか、とつい確認してしまった。見覚えある店を確認しながら、行きと帰りの区別がつかないせいで、反対側に出てしまい寒い思いする。

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あけましておめでとうございます。

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昨日、来年始めに町田の文学館で三島由紀夫展がある、と教えてもらった。ここには日影丈吉像を収蔵頂いている。出不精の私もこれは行かないと、と思っていたら、来年没後五十年だという。昭和45年、1970年であるから、数字音痴の私もさすがに判りそうなものだが。そういえば夏に行った室生犀星展だが、チラシの送付先を調べていたら、犀星展があるという。偶然とはあるもんだな、と思っていたら、犀星生誕130年で、個展の会期中に130年目を迎える事を知った。知っていたらチラシに入れる所である。確か『貝の穴に河童の居る事』の出版日は原作者の泉鏡花の誕生日だったと思う。何しろ母の誕生日をようやく覚えたのが、母の代わりに書類に書くことが多くなったここ数年で、本日の年月日はえーと、といつて居る間に向かいの担当者に教えてもらうのが常である。父の誕生日はおろか、亡くなった日さえ覚えていない。連なった数字のたまたまその日だというだけで、それがどうした、としか思えないのである。数字なんか覚えていたら、容量に難ある我がハードディスクに入る物も入らなくなってしまう。当然私には記念日などというものは何一つ存在しない。車の免許を持たないおかげで、車で人を轢き殺す可能性がないのは何よりであるが、独身のおかげで今日が私達のなんとか記念日なのに、などとかみさんに叱られる可能性がないのも何よりである。 本日は工芸学校時代の連中との恒例の忘年会であった。そういえば私と誕生日が近い奴に、数年毎に「俺達今年いくつだ?」と聞いている。今年脳梗塞で入院した一人の退院祝いも兼ねる。これでメンバー5人中、2人が脳梗塞経験者である。2次会のカラオケで、三島が市ヶ谷に向かうコロナ車中、最後に歌った『唐獅子牡丹』を歌う。



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64年の東京オリンピック以前の東京が私の東京だ、などと畳に座り、あげくはホウキにブリキ製チリトリ、と粋がってみたが、椅子の生活を止めて脚が浮腫まなくなったものの、腰や膝に来る。歳をとるというのは、こういう事なのか。しかしどこか痛かろうが、もうしばらく見栄張って、気分の良さを優先したい。気分は明らかに良い。といいながら炊飯器や洗濯機、電化製品は知らない間に進歩していた。 ところで例えば、江戸川乱歩で一カット選ぶなら気球にぶら下がつた帝都上空の乱歩だが、作家シリーズ最後の人物となるはずの室生犀星に、この一カット、という物がなかった。あの時代の作家は皆そうだが、カメラを向けるとむっつりしてしまう。犀星など腹の中は妄想で一杯である。そこで赤井赤子に犀星の背中に寄り添わせてみた。相変わらずむっつりではあるが。 久しぶりに創作めいたことをして、給水所で給水したマラソンランナーの如き気分である。

11月5日(火)~16日(土)ふげん社コレクション展。江戸川乱歩の押し絵と旅する男を展示。

 

https://fugensha.jp/events/collection_20191105/

【タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第17回『引っ越し』
『石塚公昭 幻想写真展き続ける作家た18年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutubeこ2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界


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 ”あいつの家に行くなら今のうちだ“という連中の第二弾来る。かみさんと電話で話しているのを見ると電話の向こうにいるのはパツトン将軍か?のSとI君。Sも最近引っ越し、ロマンチックな出窓越しに広がる武蔵野の雑木林の写真を送ってきた。お互い、昔の風情を懐かしむ歳になったな、と話していたが、どうやら全て将軍様の意向で、懐かしの風景はたまたまのようである。引っ越しは夫婦してのペットロスが原因で、都会にはもう出たくない、という。しかし考えてみると、彼が30年以上前、仕事で渋谷を主戦場としていた頃から私は渋谷は嫌だ、新宿も嫌だ、と文句を言っていた。つい先日も、打ち合わせの場所が新宿になりそうになり、知り合いだった事もあり、ごねて神田に変更になった。 長い付き合いになると、もはや話していないジャンルもなく遠慮もない。Sは、仕事を変えてから、体幹を鍛えるとかなんとか、運動をしているせいか、急激に痩せた。痩せたは好いが、声が病人にありがちな、腹に力が入っていないような、かすれ気味な声をしているので心配すると、全く問題ないという。そのようではあるが、三十代の頃、前髪が最近細くなっでないか?というと、床屋に太鼓判押されいるから大丈夫だ、と豪語していたが、今は裸電球の如しであるから、油断は禁物であろう。二人は暖簾の破けた食堂に、いたく感銘を受け帰って行った。

 

【タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第17回『引っ越し』

 

 

 

『石塚公昭 幻想写真展き続ける作家た18年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutubeこ2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界




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手回し轆轤は、届いた時、嫌に重いな、と思ったが、使っていたものより一回り大きく重い。三カ所に丸いへこみがある。それで判った。凹みに指か棒を当て回転させ、廻っている間に回転体の器を作る轆轤であろう。より回転を持続させるために重い。私の場合は、様々な向きから作るためであって、遠心力など必要がない。不必要に重いので、いずれ別な物に代えよう。これに盆栽用針金をガムテープで留めて作り始めるというのは、おかしなやり方だろう。昔雑誌で公開したことがあるが、もう一つ変わった所では、これも最初から未だに使っているのが、アイスクリームの大きめの木のスプーンである。質感、弾力、どれを取っても代わりが効かない。使う道具で製造中止になり、最も困るのはこれである。よもや製造中止にはならないだろうけれども。 最後の片づけ作業をしながら、頭が作る方に向いて来ているのが判る。終わるまでは絶対粘土を注文しない事。寝てる子よ、もうちょっと寝ておけ。

タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第16回『トラウマ』
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引っ越し一日目、荷ほどきし、本箱に本を収め、段ボールを減らして行きたいところであるが、陽当たりで選んだ部屋で、後々室内での撮影を視野に、少々下準備をしておきたいところ。一日の光線具合を把握した。今まで居たところは、以前は屋上が撮影に使え、悪魔と取り引きするロバート・ジョンソンや、複葉機に跨がるイナガキタルホ、竜に噛み砕かれる三島由紀夫など、様々撮影をしてきたが、ここ最近は施錠され、撮影が出来なかったのが残念であったが、先に撮影した背景に、その場で撮影したかのように、自宅で人形を撮影する場合、部屋の各所の光線具合を利用し、そのほとんどの場合対処してきた。その経験から、撮影に使うことを念頭に、人物撮影にも対処出来るようにしておきたい。そのため、しばらく荷ほどきは我慢し、段ボールに囲まれて過ごすことになる。 夜になり、蕎麦屋があったな、と歩いて行くと、廃業したのか暗いまま。と思ったら、山城屋の前に出てしまった。そんな所に越すなんてさすが、などと言う人もいるが、たまたまである。

タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第16回『トラウマ』
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想い出をシェアしよう、というからしたら、三日間出入り禁止。乳首を嫌う事、蛇蝎の如しのフェイスブックである。最も、自分に都合の悪い事は書かないという厳格なルールのもと、私の引っ越しの様子は、書ける事はほとんどなかったから、すべてフェイスブックのせいにしよう。 普通、引っ越し屋が入ったなら、引っ越しは、すべて完了、ということのようであるが、私の場合は、なかなかそうは行かない。ただ三十数年ぶりの、今回の引っ越しは、私の生まれ変わる最後のチャンス、と言っても過言ではない。言い方を変えれば、都合の悪い事を無かった事にする最後のチャンスだとも言えるであろう。 来年、下目黒に移転するふげん社での個展の日程がゴールデンウィーク明けの2020年5月7日(木)〜24日(日)月曜休と決まった。それまでマンガで読んだ、大山 倍達や沢村忠のように、片眉を剃り落として修業に励む所存である。

タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第16回『トラウマ』

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仕方のない事だが、様々な方面から、何々の日程はどうしますか、何々はどうなりますか、と引っ越し準備をしていると連絡が来る。面倒くさがりが服を着ているような私は、次第にイライラが募るが、すべて自分が撒いた種である。数日前、彼方の地平線を眺めるマサイ族の戦士の風情で、ベランダの外の景色を眺めていたのは多分私だが、その後ロケットマンなんか観に行き、そのシワ寄せが、ちゃんと来ている。 中学生の頃から試験になると、これだけ勉強していないのだから、今日の私が寝てしまえば、明日の私は勉強しない訳に行くはずがない。明日の私に任せて今日は寝てしまおう。つまり明日できる事今日はせず、という訳だが、勉強しない訳に行かないはずであつた翌日の私は、昨日の私を裏切り、またしないのであつた。 アナログレコードをドンドン捨てるぜ、と意気込んだものの、誰かに貰ったかぐや姫と、Zや魚が出て来た日の映画音楽をイメージして買ったら、たたの民族音楽風でガッカリしたミキス・テオドラキスと、イエローブルースとかいう、たった3枚であった。いや大丈夫。レコードはともかく、本は持って行く物はすでに分けてある。昨日の私に托された今日の私だが、明日引っ越し屋が来るので、今日の私は明日の私に託す訳には行かない。昨年から飲めるようになったブラックコーヒーだが、私にはカフェインはビクリとも効き目がなく、不安になりながらこれを書いている。

タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第16回『トラウマ』
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