明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


田村写真に、円朝作品3点をプリントしてもらいに行く。35ミリのネガからさえ古典技法の引き延ばしが可能になった“タムラシステム”?のテスト作品を観て、その仕上がりに驚く。サイアノプリントなど深みがあり、プラチナより良いくらいであった。これは考えられない。 先日、“新たなギター奏法を始めたミュージシャンがいて、音楽通を気取る友人が、あの奏法は技術上、弾けない、あるいは苦手な曲がある、なんていっていたのを思い出した。”と書いたが、陰影を廃する新手法私の大リーグボール3号は万能ではない。円朝の3作目『◯◯亭前の三遊亭円朝』では背景が寄席内部の灯りが漏れる夜景である。その前に立つ圓朝にどうしても陰影は出る。背景が版画調に仕上がったこともあり、丁度中間の陰影具合で制作したが、例えば場末の温泉宿の一室、裸電球の下に、どこから流れて来たか半裸の女。なんてシチュエーションを考えた場合、裸電球が女に作り出す陰影こそ、見せ所であろう。これは現実である。逆に陰影を消す、というのは非現実の証であるからこそ、ヒトダマや、蠟燭に手描きの炎が使えた、ということになる。つまり昔の日本画ではこういうモチーフは扱わなかった。陰影どころか暗くもなく、行灯が置いてあるから夜なんだ、という有様である。今後作風を統一させ、作り続けるには、陰影のある現実世界には一切手を染めない、くらいでないと中途半端になりはしないか? 星飛雄馬は、一人に打たれただけで何故次の大リーグボール開発に向かうのか、1号と2号を投げ分けて行けば良いじゃないか、と小学生の私は思ったのだが。

HP

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