明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



森鴎外も書いているが、なんだか判らない味がある。なぜ私の頭の中に寒山拾得が居るのかも、また良く判らない。たんに誰かの寒山拾得図を見て、と思うのだが、ならば覚えているだろう。もしかしたら。 小学生の頃、百科事典ブームがあった。うちにも小学館の『日本百科大事典』が来た。私は家族で縁日に出かけても小遣いを使わず、シャッターを半分閉じた本屋で店主、家族を待たせたまま本を選んだ。学校では始業のチャイムが鳴っても図書室から出て来ず、しばらく出禁になる。図書館に通いたくても、当時の小学生にとって下町はテリトリーから出るのにかなりの危険を伴った。そこへ来たのが『日本百科大事典』である。小学校高学年から中学にかけて、1往復は読んだろう。シュルリアリズム絵画もこれで知った。夢野久作ではないが、“胎児の夢”に近い。子供の私は懐かしさすら感じた。ツバメの巣がスープになることも知ったし、母に材料を買って来てもらい、お菓子を作ったこともある。 妙だな、と覚えているのは、ボデイビルの項に、三島由紀夫の写真が使われていたのと、シャンソンの項が、やたら力が入っていたことである。ところが数年前、この百科事典は『虚無への供物』の中井英夫が編纂に携わっていたことを知った。中井からボデイビルの項に、という打診は、三島にとって“今までで、こんな嬉しいことはない”という程のことだったらしい。“時間がない”三島は中井に催促したという。書斎の三島を見ると、背後に並んでいるのが『日本百科大事典』かもしれない。 私は“あ”の項から順に読んでいった。つまり“か”の項では寒山拾得に出合っていたはずで、小学生の時から毎日のように、中井英夫の洗礼を浴びていたことを思えば、可能性はある。

HP

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新手法を私の大リーグボールだ、などとはしゃいでいたが、実のところ、あれほど絵のようになるとは思っていなかった。日が経つにつれ、釈然としない感じが大きくなっていた。何しろ意図していなかったのだから。結果が面白ければそれで良い、とはいかない。 しかし今回の圓朝の写真、今までで最も作り物めいている。この世の物である証の陰影がないからであろう。この人形じみたことこそが絵に見えるもっとも大きな現因ではないか。ということは、人形ならではの撮影方法を手にいれたのではないか、そう思ったら気持ちが変わった。当初人間でも応用可能かと思ったが、陰影を消すこと自体は機材さえあれば誰でも可能であるし、実際そんな人物写真をいくらでも見たことがあるが、絵のようにはなっていない。まあ当たり前である。よって作った人形でこそ絵のようになる。ということであろう。 この手法で圓朝が出来た時、いつか手がけたい、と思いながら写真では無理、と思っていた『寒山拾得図』が案外可能では、と思ったことは書いた。寒山拾得、森鴎外も味のある一文を書いているが、寒山と拾得という非僧非俗コンビである。昔から主に水墨画の画題となっていて、ずっと気になっていた。中国にある寒山寺は臨済宗の寺だという。臨済宗?一昨日訪れた谷中の全生庵、同じ臨済宗の禅寺ではないか。これは偶然なのだろうか?おそらく違うだろう。

HP

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