小学4年以来、一休の伝記を改めて読みたいのだが、新たなカットを思い付いてしまうのは明らかである。私としては大ネタだけに、これ以上一休を増やすと重心が変わってしまうだろう。今時、風狂などとは耳にしないが、今だからこそ気になるキーワードではある。風狂といえば時代は随分後年になるが、一休が修業した寺にわざわざ訪れた松尾芭蕉もウチには居る。 それはともかく。一年経つのに、達磨大師がひたすら壁に対峙したようにして被写体をただ作るばかりで個展用作品は一カットも出来ていない。それもこれも、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想だ、なんていっているせいである。いずれ誰の頭の中のヴィジョンをモニターに写し出せる時代が来よう。その時は、昔はこんなご苦労な奴がいた、とかつてコンバットの無線機みたいな携帯電話の不動産屋みたいに言われるのかもしれない。