知識や技術は必要が生じてから身につけるべきで、事前に持ったり知ったりすると余計な使い方をしてしまう。粗忽者は特に気をつけなければならない。そんな訳で、禅宗でも特に臨済宗が、師の姿をかたちにして残して来た、と知ったのは最近の話である。姿を後世に残すことに対する執念は大変なもので、例えば曽我蛇足の肖像画と、一休本人の髪や髭を植えたという木像は、年齢表情こそそれぞれだが、斜め向きの画と木像の正面像の骨格に矛盾がなく、描いた絵師、仏師はそれぞれでも、明らかに同一の人物を描いた、ということが判る。おかげで1300年生まれの人物を描くことが出来る。勿論、なければないで今までも作って来たが、事実が残っているのならば、出来るだけ従うべきであろう。 松尾芭蕉を制作した時、門弟が師の肖像を後世に残したというのに、それを無視し、日本中にかってな芭蕉像が乱造され続けたことに憤慨し、嫌味なくらい門弟の描いた肖像だけを参考にした。 。