今のところ目を空いたまままで骸骨を枕にしている一休和尚を見ていて、ようやく方向性が見えて来たような気がする。寒山と捨得は、すでにできている頭部は、捨てる気にはならないが、個展の中のラインナップということでなければ、十分寒山拾得といえるが、風狂の人、一休宗純を手がけた後では物足りない。材料が届かなくて一休の頭部を完成させることになったが、予定通り鉄拐仙人を作っていたなら、今のような心持ちにはなっていなかっただろう。ちょっとしたことで状況は変わる。棚から落ちて来るぼた餅は確実に受け止めなければならない。こんなことを40年も繰り返し、行き当たりばったり枝葉を伸ばして行くと、気がついたら、考えもしなかった場所に一人立っている。