明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日書いたように、また始める前も書いていたに違いないが、寒山拾得は、人形作って写真にするということで充分、新たな寒山拾得像を、などとは考えず、あくまで伝統に準じ、と戒めながら取り掛かったはずであったが、そこから間違っていた、と今は思う。 昨日〝寒山拾得が絵師の個性が一番出るモチーフの一つ”と書いて、なんだ判っていたじゃないか?と思った。寒山拾得を選んでおいて、伝統的な寒山拾得を目指した矛盾に気が付かず、伝統的な寒山拾得の首が出来たのに釈然としないまま、何が気に入らないのかも判らず。結局、臍下三寸のもう一人の私だけは、理由を知っていた。それに頭が追い付くためには拾得の首を一度踏みつぶす必要があった。結論として、長らく実在した作家を作って来て、眠ったままでいた架空の人物を好きなように作るための選択だったのだろう。結果、予定と違う表情に、古代中国に天然パーマはいたのだろうか?などと呟く始末。 結局〝考えるな感じろ、月を指差し、月を観ずに指を見ていてはいけない”に尽きるようである。これで良いのだ。



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