『歌舞伎座を彩った名優たち-遠藤為春座談-犬丸治編』(雄山閣)を読む。九代目團十郎を作ったせいで、九代目を中心に、明治の芸談に一番興味がある。九代目はフィルムが1本残っているが、なんだか良くわからず、写真や残された芸談、劇評によって想像するしかない。写真には坪内逍遥がいうように、本当の凄さは写っていないというが、私が九代目に魅かれたのはその写真によってであり、同じく舞台上の映像が残されていないロシアの天才バレエダンサー、ニジンスキーと同様の魅かれ方であり、異様に長い顔の九代目のたたずまいは、間違いなく何かを放っている。 『團菊じじい』という言葉がある。九代目と五代目尾上菊五郎が最高であり、昔は良かった的な年寄りのことをいう。遠藤為春がまさにそうであり、二人亡き後、歌舞伎はまったく変わってしまったという。観たことがないお前等には解からないよ、と喉元まで出ているのだろうが、それをいってはお仕舞いである。聞き手の戸坂康二も九代目のことは観ていないわけで、遠藤からなんとか話を引き出そうとしている。当時の文献、雑誌でも劇評目撃談は随分読んだが、肝心な所は私には判らない。あの小さな身体が舞台からはみ出すように見えたといわれても、観客が集団催眠にかかっていたかのようで、ニジンスキー同様、究極に達した芸は、物理学を超えた夢を観客に見せるもののようである。しかしこのくらい訳の解からないことにこそ、私の創作の余地がありはしないか、と思うのである。“どうせ誰も観たことないんだから知ったこっちゃない”。このくらいの心持でないと他人で、まして偉大な人物など作れやしないが、この心持が制作終了とともに雲霧散消してしまうところが私の辛いところである。
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