19日㈯、夜の「田邊家中之会 懇親会in綾部」は濃密な会だった。
田邊(舞鶴)藩は江戸時代には徳川譜代の牧野家が藩主として治めており、当時の家臣の子孫の方々を中心に、今でも田邊家中之会(水谷悦之会長)が組織されている。
毎年、舞鶴市に大名家ゆかりの方を招いて講演会を開催しておられ、今年は綾部藩主九鬼氏の末裔である熊野本宮大社の九鬼家隆宮司が招かれ、わざわざ懇親会は九鬼家ゆかりの綾部で開催していただいた。
水谷会長がまず平伏され、厳かな開会の辞から懇親会が始まった。
田邊藩3万5000石は最初は京極家が治めていたが但馬国豊岡に国替えとなり、代わりに河内・摂津に領地を持っていた京都所司代の牧野親成公が藩主を引き継ぎ、幕末まで続いた。牧野家は徳川家康に早くから仕えた譜代大名であり、幕府での勢力は強かったものと拝察される。
綾部藩主であった九鬼家は古くは熊野三社の別当を務め、戦国時代には織田信長、豊臣秀吉に仕える「九鬼水軍」として活躍した。三重県の鳥羽藩主だった九鬼守隆は五男久隆に家督を譲ろうとしたが、家臣団は三男隆季を推し、お家騒動の末、久隆は本家として摂津三田藩3万6000石に、隆季は丹波綾部藩2万石にそれぞれ封ぜられた。
私の先祖もその時に九鬼隆季公に従って鳥羽から綾部にやって来たと伝えられている。「四方」という姓もその時に名乗ることを許され、「鍛治屋」という屋号や家紋をいただいたという。
九鬼家には「九鬼文書」という文書が伝わっている。記号のような文字で書かれていて、意味を判読することは難しいそうだが、「九鬼家の遠祖で天児屋根命(アルアメノコヤネノミコト)の時代に記録された神代文字の原文を、藤原不比等が漢字に書き改めたもので、九鬼氏が保管したとされる」とウィキペディアには書かれている。
大本では艮(うしとら)の金神が主神とされているが、九鬼文書でもその神を宇志採羅根真(うしとらこんじん)大神としている。
「艮(丑寅)」は「鬼門」の方角で、大本では節分大祭が最大の祭礼であり、「鬼は内、福も内」と豆まきをする。綾部から見て「鬼門」の方角に舞鶴があり、冠島・沓島は大本の開祖ゆかりの重要な意味のある島でもある。
「九鬼文書」に関しては、これからもっと研究してみたいと思っている。
大本開祖の出口家と私の家は親戚同様に助け合う関係にあった。九鬼の殿様の屋敷は今の長生殿の場所にあって、私の先祖や出口家は今のみろく殿のあたりに住んでいたので、お城の裏門からすぐ出たあたりにいたことになる。
出口なお開祖は九鬼家にあった、ある神社を篤く信仰し、その周りの掃除をさせてほしいと殿様に申し出ておられたと九鬼家隆宮司がおっしゃっていた。
開祖のお筆先では「九鬼大隅守(九鬼の殿様は代々大隅守を名乗った)との因縁が判り来たら、どえらいことになるぞよ」という予言があるそうで、綾部での大本の発祥も九鬼家が綾部に転封されたのも偶然ではなく、必然なのだろうと感じた。
合気道の完成もそれに関係あるようなことを九鬼宮司はおっしゃっていた。合気道創始者の植芝盛平翁は熊野本宮大社のある和歌山県田辺市の出身であり、いろんなことが重なり過ぎて、よく分からくなってしまった。
九鬼家隆宮司には歴史の扉を開けるために、これから頻繁に綾部にお越しいただきたいものだ。良い機会を作っていただいた田邊家中之会の水谷会長、事務局の門中雄一郎さん、ありがとうございました。