チェルノブイリ1 キエフ
チェルノブイリ原発の事故が起来たのは1986年4月26日。事故が起きた日、テレビで旧ソ連邦で大事故が起きたようだ、原発事故らしいと報じていた。そして時間が経つに従って原発事故であるともわかった。チェルノブイリ原発はウクライナにあり、ベラルーシは隣接した国である。しかしまだベラルーシという国名ではなく、白ロシアといったネイミングで報道していた。もちろん見ている私だって、そこらへんの地理に詳しいわけではなかったから、旧式の白ロシアの方が分かりやすかった。死の灰が広がってウクライナからベラルーシ、ロシアにまで達しているらしい。そういった情報を知るにつけ、被爆したであろう人びとの将来を慮った。とはいえ、直接、私自身と係わり合いができようとは思ってはいなかった。
1993年、 「チェルノブイリ子ども基金」がベラルーシの被爆した子どもたちを10人、日本に招いて空気のいいところで1ケ月滞在させ、免疫力を回復させようという計画をした。その話に乗って、4月2日、わが家で4人の子どもと通訳さんの計5人を預かった。それがベラルーシとの係わり合いの始まりだった。
翌1994年5月、「チェルノブイリ子ども基金」のメンバーといっしょに私はウィーンからウクライナの首都キエフに入った。チェルノブイリ原発はベラルーシ国境に近いウクライナにある。キエフにはプリピャチで被爆した人たちの団体がある。プリピャチ市は人口5万人のチェルノブイリ原発で働く原発労働者の町であったが、事故後住民は退去させられ、今は人住まぬ町になってしまっている。ベラルーシとはプリピャチ川で分かれている。プリピャチ川は途中で合流し、大河ドニエプル川となってキエフを流れ、黒海にそそぐ。
その大河、ドニエプル川はキエフの町を割って、ゆったりと流れていく。広い通りのところどころに公園があって、緑のスポットになっている。感じがいい。
キエフでは支援団体の事務所を訪ね、彼女たちの案内で、クリニク1と子ども病院を訪ねた。代表者の女性も旧プリピャチ住民で被爆者である。クリニク1の方は個室で、重症の子ども達がベッドに横たわり点滴を受けていた。私の仲間達がいっしょに作ってくれた段ボールにいっぱいのミルクキャラメルとディズニーのハンカチをわけて配った。未来のある子供たちが、原発事故の放射能をあびて、十分な医療も受けられず死んでいく姿、この子達にカメラを向けるのが、どんなに心が痛んだことか。
アメリカ帰りだという医師は英語で、「アメリカからもヨーロッパからも視察はたくさん来た。しかし何にもしてくれなかった」と声をあらげて惨状を訴えた。この薬がほしいと言われても、薬のことはわからないので、必要なものを書いてもらい日本へ持ち帰った。さっそく、子ども基金がその薬を送った。
子ども病院はきれいな病院だ。日本の小児病院を知らないが、各部屋のドアの上に飾り皿が飾られ、あちこちに観葉植物の緑がやさしく、レースのカーテンもフリルつきで、実によく気配りされている。まるで幼稚園か学校のようだ。日本の学校はももう少しこんなゆとりがほしいと思った。
それにしても入院している子どもたちは多い。入院できない子どもたちはもっといるだろう。ウクライナの将来を考えずにはいられない。
わざわざ日本から持って行った車椅子を届けに、男の子のアパートへ行った。母親が私たちのために、コンデンスミルクをキャラメルにしたクリームを入れたお菓子を作って待っていてくれた。
ついでリエシャのアパートを訪れた。リエシャの父親は被爆がもとで亡くなっていた。兄は兵役で、今は母親とふたり暮らし。リエシャは室内でいつも白い毛糸の帽子を被っている。「この子は顔もかわいくて、ダンスが上手だったのに」と言って母親が泣き崩れた。リエシャが帽子をとった。思わず息をのんだ。リエシャの黒髪はすっかり抜け落ちていた。これのために、みんなからいじめられるので、学校へ行きたくないとリエシャが言った。
町に出ると、有名な教会の前のベンチに日向ぼっこをする年寄りたちに気がついた。写真を撮っていると、中年の女性がやってきて、彼らになにやら配り始めた。そしてやっと、この年寄りたちは物乞いで、ベンチにたむろしているのだということが分かった。その1人が私にもなにやら話し掛けてきたが、「ニパニマーユ」(わからない)と答えたのだった。たぶん恵んでくれといったのかもしれない。
ソ連崩壊後、働き口もなく、年金もままならない年寄りたちのウクライナの現実を感じる場面であった。
夕食はちょっとしゃれた木造のレストランへ行った。ボルシチ、キエフ風カツレツ、キノコのスープ、どれも美味しかった。生演奏がつく。客はと見ると、若者であふれている。どこでも取り残されるのは年寄りだ。
僧院など、観光スポットも訪ねた。入場者は多い。観光か信仰か、そこら辺は分からなかったし、この客がどのから来たのかも分からなかった。
キエフからベラルーシのゴメリまで車で行けば近いのだそうだが、原発事故で遠回りをしなければならない。列車で向かった。寝台車のコンパートメントは二段ベッドが両側にふたつずつ。私達は二人で一部屋を左右に分かれて使った。列車はゆっくりとウクライナの平野を進む。子どものころ学校で、ウクライナは穀物の宝庫で、黒土が肥沃であるとも習った。白樺林がつづく。ずっと見ていようと思ったのだが、すぐ眠くなって寝てしまった。
しばらくするとノックをする音。あわてて飛び起きる。ドアを開けると二人の男性が立っていた。パスポート・チェックだった。これはウクライナの出国のパスポートチェック。そして次にはベラルーシの入国のパスポートチェックがきた。ノックにドアを開けると今度は男性が一人。「ベラルーシ?」と聞くとにっこり。
ゴメリについたのは夜明け前。星がきらめいている。チェルノブイリ子ども基金の代表で、写真家の広川隆一さんが待っていてくれた。
チェルノブイリ原発の事故が起来たのは1986年4月26日。事故が起きた日、テレビで旧ソ連邦で大事故が起きたようだ、原発事故らしいと報じていた。そして時間が経つに従って原発事故であるともわかった。チェルノブイリ原発はウクライナにあり、ベラルーシは隣接した国である。しかしまだベラルーシという国名ではなく、白ロシアといったネイミングで報道していた。もちろん見ている私だって、そこらへんの地理に詳しいわけではなかったから、旧式の白ロシアの方が分かりやすかった。死の灰が広がってウクライナからベラルーシ、ロシアにまで達しているらしい。そういった情報を知るにつけ、被爆したであろう人びとの将来を慮った。とはいえ、直接、私自身と係わり合いができようとは思ってはいなかった。
1993年、 「チェルノブイリ子ども基金」がベラルーシの被爆した子どもたちを10人、日本に招いて空気のいいところで1ケ月滞在させ、免疫力を回復させようという計画をした。その話に乗って、4月2日、わが家で4人の子どもと通訳さんの計5人を預かった。それがベラルーシとの係わり合いの始まりだった。
翌1994年5月、「チェルノブイリ子ども基金」のメンバーといっしょに私はウィーンからウクライナの首都キエフに入った。チェルノブイリ原発はベラルーシ国境に近いウクライナにある。キエフにはプリピャチで被爆した人たちの団体がある。プリピャチ市は人口5万人のチェルノブイリ原発で働く原発労働者の町であったが、事故後住民は退去させられ、今は人住まぬ町になってしまっている。ベラルーシとはプリピャチ川で分かれている。プリピャチ川は途中で合流し、大河ドニエプル川となってキエフを流れ、黒海にそそぐ。
その大河、ドニエプル川はキエフの町を割って、ゆったりと流れていく。広い通りのところどころに公園があって、緑のスポットになっている。感じがいい。
キエフでは支援団体の事務所を訪ね、彼女たちの案内で、クリニク1と子ども病院を訪ねた。代表者の女性も旧プリピャチ住民で被爆者である。クリニク1の方は個室で、重症の子ども達がベッドに横たわり点滴を受けていた。私の仲間達がいっしょに作ってくれた段ボールにいっぱいのミルクキャラメルとディズニーのハンカチをわけて配った。未来のある子供たちが、原発事故の放射能をあびて、十分な医療も受けられず死んでいく姿、この子達にカメラを向けるのが、どんなに心が痛んだことか。
アメリカ帰りだという医師は英語で、「アメリカからもヨーロッパからも視察はたくさん来た。しかし何にもしてくれなかった」と声をあらげて惨状を訴えた。この薬がほしいと言われても、薬のことはわからないので、必要なものを書いてもらい日本へ持ち帰った。さっそく、子ども基金がその薬を送った。
子ども病院はきれいな病院だ。日本の小児病院を知らないが、各部屋のドアの上に飾り皿が飾られ、あちこちに観葉植物の緑がやさしく、レースのカーテンもフリルつきで、実によく気配りされている。まるで幼稚園か学校のようだ。日本の学校はももう少しこんなゆとりがほしいと思った。
それにしても入院している子どもたちは多い。入院できない子どもたちはもっといるだろう。ウクライナの将来を考えずにはいられない。
わざわざ日本から持って行った車椅子を届けに、男の子のアパートへ行った。母親が私たちのために、コンデンスミルクをキャラメルにしたクリームを入れたお菓子を作って待っていてくれた。
ついでリエシャのアパートを訪れた。リエシャの父親は被爆がもとで亡くなっていた。兄は兵役で、今は母親とふたり暮らし。リエシャは室内でいつも白い毛糸の帽子を被っている。「この子は顔もかわいくて、ダンスが上手だったのに」と言って母親が泣き崩れた。リエシャが帽子をとった。思わず息をのんだ。リエシャの黒髪はすっかり抜け落ちていた。これのために、みんなからいじめられるので、学校へ行きたくないとリエシャが言った。
町に出ると、有名な教会の前のベンチに日向ぼっこをする年寄りたちに気がついた。写真を撮っていると、中年の女性がやってきて、彼らになにやら配り始めた。そしてやっと、この年寄りたちは物乞いで、ベンチにたむろしているのだということが分かった。その1人が私にもなにやら話し掛けてきたが、「ニパニマーユ」(わからない)と答えたのだった。たぶん恵んでくれといったのかもしれない。
ソ連崩壊後、働き口もなく、年金もままならない年寄りたちのウクライナの現実を感じる場面であった。
夕食はちょっとしゃれた木造のレストランへ行った。ボルシチ、キエフ風カツレツ、キノコのスープ、どれも美味しかった。生演奏がつく。客はと見ると、若者であふれている。どこでも取り残されるのは年寄りだ。
僧院など、観光スポットも訪ねた。入場者は多い。観光か信仰か、そこら辺は分からなかったし、この客がどのから来たのかも分からなかった。
キエフからベラルーシのゴメリまで車で行けば近いのだそうだが、原発事故で遠回りをしなければならない。列車で向かった。寝台車のコンパートメントは二段ベッドが両側にふたつずつ。私達は二人で一部屋を左右に分かれて使った。列車はゆっくりとウクライナの平野を進む。子どものころ学校で、ウクライナは穀物の宝庫で、黒土が肥沃であるとも習った。白樺林がつづく。ずっと見ていようと思ったのだが、すぐ眠くなって寝てしまった。
しばらくするとノックをする音。あわてて飛び起きる。ドアを開けると二人の男性が立っていた。パスポート・チェックだった。これはウクライナの出国のパスポートチェック。そして次にはベラルーシの入国のパスポートチェックがきた。ノックにドアを開けると今度は男性が一人。「ベラルーシ?」と聞くとにっこり。
ゴメリについたのは夜明け前。星がきらめいている。チェルノブイリ子ども基金の代表で、写真家の広川隆一さんが待っていてくれた。